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司馬遼太郎   「菜の花の沖」(三)(文春文庫)

 嘉兵衛が身を寄せていた兵庫の廻船問屋堺屋喜兵衛とその妻が体を壊し、故郷の伯耆に帰り引退することになり、嘉兵衛が店を継ぐことになる。屋号は、義兵衛の祖先が名乗っていた「高田」から「高田屋」とする。秋田で建造した辰悦丸1500石の大型船を北前船にして、いよいよ北海道を目指す、北前航路にのりだす。

 この辰悦丸を操船し、初めて北海道松前に向け、日本海航路を走る。徳川幕府は農本主義。米の取れ高に対し税金をかける。しかし当時北海道ではコメがとれない。そこで松前藩は商人に場所を買い上げてもらい、その場所で行った商売の利益に税金をかけた。場所を買った商人は、アイヌを非人間として酷使して商品を生産販売する。松前藩もアイヌから徹底的に搾取。この状況を幕府には隠すことに情熱を注ぐ。搾取商人の殆どが近江商人だったそうだ。

 こういうわけだから、松前藩は他国の人間を原則北海道にいれない。だから、松前湊には沖に口役所があり、税関、イミグレーションを行いここを通過しないと北海道にははいれないようにした。北海道では、たくさんの税金がとられた 上陸税、交易税、北海道で年を越すと年越税
入港税、積み荷の販売価格の2%の交易税。

 イミグレーションでは真っ裸にされて、危険物を隠してないか調べられる。それから声をだして、喋れと強制する。その喋りによりどこの人間かを識別。幕府のスパイでないことを確認する。

 しかし、幕府のスパイの疑惑があり、上陸を拒否したら幕府から強烈な反撃がるわけだから本当に上陸拒否ができたのか疑問が残る。

 嘉兵衛は、松前では商売が困難と思い、函館を調査。当時函館は数十戸があるだけの小さな村だったが、ここに嘉兵衛は支店をおき北前商売の拠点とする。

 この函館は、街、道路など基盤が喜兵衛によって創り上げられた、
更に、幕府は松前藩のひどさを知り、北海道の東半分を取り上げ、幕府直轄とし、北海道東航路構築を嘉兵衛に依頼する。

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| 古本読書日記 | 06:29 | comments:0 | trackbacks(-) | TOP↑

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