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司馬遼太郎    「宮本武蔵」(朝日文庫)

 武蔵が極めた兵法というのは、室町時代から戦国時代にかけ立ちあらわれてきた。しかし乱世において兵法技術は尊重されなかった。戦国時代の戦いは馬を駆って槍と小銃をもっての戦いになっていた。太刀を振っての戦いは雑兵の戦いであった。兵法の兵は雑兵の兵であり、兵法はその技術であった。

 しかし、武蔵が活躍したころは、家康の時代。家康は兵法を重んじ、自らも進んで兵法を学んだ。これにより、各大名にも兵法を学ぶ機運が高まり、自らの腕次第では大名が抱えてくれる時代になった。

 しかし、所詮兵法使いは雑兵の技術。戦場では足軽程度に過ぎず、俸禄も300-600石程度。
 佐々木小次郎を破り、すでに日本一の兵法術者との評判の武蔵はそれが不満だった。

自分を抱えるなら、3000石は最低ほしい。3000石は兵ではなく、一隊を率いる大将がもらう石高であった。

 徳川2代将軍秀忠に仕えていた北条氏長、武蔵の兵法術を高く評価して、抱えたいと思い武蔵と面談したが、3000石要求に応えられず、破談になる。しかし武蔵の技術がもったいなく、尾張の徳川家に紹介し、推薦状も送る。武蔵との交渉相手は大名などの監視役にあたっていた、成瀬正虎である。

 ここでも、武蔵は3000石を譲らない。すでに尾張には武術の指南役として柳生兵庫助があたっている。その兵庫助にして俸禄は600石である。

 正虎は、お抱えは不可能と思ったが、一応主君に推挙してみる。
すると主君は「3000石で抱えてもいいのでは」と言う。そんなことをしたら、他の士官に示しがつかない。それで、正虎は兵庫助に武蔵の兵法とは何かを聞く。

 兵庫助は、武蔵に以前町の往来であっている。その時、武蔵の眼光は鋭く、地を這う影までも生きるがごとく油断なく、歩を運ぶだけで五体から精気を発しいささかの隙もない姿におののき、思わず通りの端に飛び避けた記憶がある。

 兵庫助が答える。
「武蔵は指南役にはなれない。武蔵の兵法術の根本は氣であり、剣や武術ではない。残念だが氣は指南できるものではない」と。

 武蔵は死ぬまでに63回試合をして、一度も負けたことが無い。立ち合いからその精気で相手を圧倒するのである。

 なるほどとは思うが、武蔵に立ちはだかる壁は、能力があっても浮かばれない公務員のノンキャリアの壁のようにも思えた。

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| 古本読書日記 | 06:12 | comments:0 | trackbacks(-) | TOP↑

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