FC2ブログ

PREV | PAGE-SELECT | NEXT

≫ EDIT

司馬遼太郎   「街道をゆく38 オホーツク街道」(朝日文庫)

 流氷が流れ着く北海道オホーツク沿岸、ここで多くの縄文式遺跡が発掘される。発見された遺跡、人骨や土器をみても、従来の日本人、アイヌとは異なる。彼らはどこからやってきたのか、そしてどんな生活をしていたのか、遠い昔に思いをはせながらオホーツク街道をたどる紀行記。

 この紀行記では2つのことが印象に残った。
一つは膨大な遺跡の数。それから考古学会がアマチュアの人たちに支えられていること。

私の一つ下のいとこが古代遺跡発掘に凝った。工場を経営しながら、休みの日は毎週どこかの発掘現場に行き発掘をしていた。家には修復した土器が様々たくさんあった。

 彼から聞くと、私の生まれた故郷の小さな町にも、10以上の遺跡があるそうだ。ということは日本にはいたるところに縄文時代の遺跡がある。その数は46万か所もあるとのこと。だから今でもどこかで発掘調査が行われている。その担い手の多くは彼のようなアマチュアの発掘調査人である。

 網走の海岸にオヨロ遺跡という大遺跡がある。この歴史的遺跡を発見したのが米村喜男衛という人。米村さんは小学3年生のとき畑の中から、人の手で削って作った鋭い石を拾う。これを持ってかえって先生にみせると大昔金属が無かったころに、石を削って作った刃物だと先生が言う。

 そこで考古学に興味を持ち、専門雑誌を購読しだす。尋常高等学校3年、今の中学1年で青森の理髪店に奉公にでる。その後東京神田の高木理髪店に移る。

 神田は書店がたくさんある。そこで懸命に考古学を学び、遂に、東大の人類学の権威鳥居教授に知遇を得る。そして驚くことに、鳥居教授は米村さんを考古学会の会員に迎え入れる。

 今はどうかはしらないが、私の従兄のように遺跡発掘に夢中になる人も多く、米村さんの時代のように権威を笠に着るのではなく、考古学会はアマチュアにも門戸を開くふところが深い学会なのだ。

 米村さんは神田から函館そして地元の網走に戻り、理容店をしながらモヨロ遺跡を発掘する。
北海道は1万2千年くらい前までは、北方大陸と地続きだった。だから大陸から渡来した人々がいた。当時は1万年続いた縄文式時代である。そしてオホーツク海岸沿いに竪穴住居をつくり住み着く。これがオホーツク人である。

 そこにはたくさんの魚や海獣、海藻があり、食べることに困ることはなかった。
一方、本州は弥生式時代に変わっていた。弥生式時代は稲作が開始定着した時代。稲作は大きな集団生活を実現。それにより、支配、被支配の体制ができあがる。

 縄文時代は、狩猟生活時代。集団は家族単位で小さく、すべてが平等。食料の心配さえなければ、すごしやすい平和な時代だった。

 そんな時代にできた大和朝廷は、坂上田村麻呂を使い、縄文式生活を送っている人々、民族を征伐する。

 これにより、縄文式生活は駆逐され、支配階級ができあがり、人間的豊かな生活は失われた。
 そのことが、何となく切なく残念に感じた。

ランキングに参加しています。
ぽちっと応援していただければ幸いです。
にほんブログ村 本ブログ 読書日記へ

| 古本読書日記 | 06:09 | comments:0 | trackbacks(-) | TOP↑

COMMENT














PREV | PAGE-SELECT | NEXT