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司馬遼太郎  「白河・会津のみち 赤坂散歩 街道を行く33」(朝日文庫)

 奥州出入口には昔、関所があった。これが、実際に行ってみると、その跡が2か所ある。どちらがメインかわからない。この二か所あることから、相撲の名門「二所ノ関部屋」が生まれた。

 白河には小さなキリスト協会がある。この教会普通の教会と異なり、頭にネギ坊主がある。
欧州から全世界を席巻しているローマカソリック教会ではなく、ギリシャ正教(ロシア正教)の教会である。

 明治の初め、ロシアよりニコライ主教が派遣され、神田駿河台にロシア正教の教会を創設して、全国に布教を始めた。

 山下りんは、常陸の笠間村で下級武士の娘として生まれた。明治維新で家が没落し、困窮の極みに陥る。この窮乏の中でりんは家族を説得し明治6年絵の修業のため上京する。

 しかし、住むところが無い。それでニコライのいる教会を住居にする。

それにしても、明治6年では、絵画を学ぶ条件など殆ど無い。絵画というのは、先人の絵画作家の作品を模写することから始まる。当時模写する作品が無いのである。工部美術学校が創設され、イタリア人教師が招かれていたが、これがどんでもない食わせ者で絵画などまったくわかっていない。

 明治の初めの大混乱の最中、画家になろうという人は殆どいない。まして女性では。ニコライはりんにイコン像を描くことを勧める。そして洗礼もうけさせ、明治12年にりんをロシアのサンクトペテルブルグに留学させる。
 明治12年に女性が欧米ではなくロシアに行くこと事態が驚愕である。

りんはそこでもイコン像を描くことを強制されるが、留学の間に、エルミタージュ美術館を何度も訪れる。

 そこにはイタリアルネッサンスのもとでの絵画が多く展示されている。ルネッサンスは聖像を平板に描くのではなく、人間がまさに生きているように立体的に描かれている。

 りんはこれに衝撃を受け、人間を描きたかった。しかし、それを教えてくれる指導者がいなかった。
 りんは日本に戻り、生涯平板なイコン像を描き続けた。切なく、哀しかっただろうと思う。


 もう一人の福島県人。会津の徳一という人物。この人は平安時代西暦800年代に会津に私費でお寺を建設。当時は、寺はすべて公費で造られ私費という寺は無かった。

 驚くのは、朝廷がある京では、文化も言葉も発展して存在していたと思うが、会津のような田舎で言葉はあることはわかるが、文字があり、それが字として書かれているとは想像できない。

 この徳一が、当時の思想界のトップである最澄、空海に論争を挑み、彼らを負かしているのである。それにしても、当時会津と京都では、宇宙のように遠い。一回だけ徳一が京都にでて、最澄を弁論大会で負かしているが、その後は手紙のやりとりで論争をしている。

 手紙ができるたびに使者が京都、会津間を行きかう。その想像がつかない距離間にただただ圧倒される。

 歴史上には決して登場しない、山下りんと徳一。2人の偉大な福島県人を取り上げた司馬に拍手を送りたい。

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