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司馬遼太郎   「島原・天草の諸道 街道を行く17」(朝日文庫)

 松倉重政という男がいる。この男、大阪夏の陣では藤堂高虎の配下にあり、後藤又兵衛の隊と渡り合い、153の首を落とすという大きな実績をあげ、一介の家臣から一気に4万3千石、肥前島原藩の藩主にとりたてられる。

 重政が島原に赴任する。しかし、そこには稲作に適した土地は殆ど無く、2万石がせいぜいの領地だった。

 この重政の悪政はひどかった。2万石の土地しかないのに、年貢米は4万石の基準で取り立てる。

 更に、すでに領地には3つの城があるのに、4万石以上だと城が持てるという幕府の規制に従い新たに城を建設する。この城がとんでもない巨城で櫓が88もある。更に家康が江戸城を建設。この費用と人工は石高によって各大名に割り当てられる。大名は費用も膨大となるので、自分の対応できる石高数を少なく申告する。しかし重政は家康に倍以上の10万石まで対応すると回答する。

 最早島原藩は、破滅寸前となる。

この重政が亡くなるが、その後を継いだ息子の勝家は、重政以上、空前絶後に領民を絞った。
自分の食糧まで無い百姓が続出。それでも勝家は年貢米拠出を強要する。

 それができないと、厳しい拷問をする。家族全員を川にかごにとじこめたまま沈める。あるいは紐で逆さに吊って、肥溜めに顔を埋める。

 領民は、このままでは死んでしまうと恐怖と危機感が高まる。いっそ死ぬのなら、藩主と戦って死のうと決意する。

 島原の乱はキリシタンの反乱が主ではなく、原点は農民に対する圧政にある。

キリシタンの乱としたのは徳川幕府である。キリシタンになると、このような結末をむかえるという戒めを徹底するために、島原の乱を利用したのである。

 本来なら、幕府や周りの藩の協力を得て、キリシタン反乱を封じ込めたのだから松倉勝家は褒章があってしかるべきなのに、何と家光から首切りの刑を受ける。

 武士は失敗を犯すと、切腹を自らの意志で行い、プライドを最後まで保つ。首切りは武士の末路としては最低、最悪のもの。家光は勝家の圧政を認識していた。

 もうひとつ司馬がこの作品で面白いことを言っている。

 人間の本質はノンポリであると。思想、生き方、宗教などを強制して、それに従わせることは人間の本質からはずれている。
 酒飲み談義の材料として、世相、政治、思想を批判している分には問題ないが、権力が批判に対して厳しい対応をしだすと世界はおかしくなる。

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