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司馬遼太郎    「峠」(上)(新潮文庫)

 幕末、越後長岡藩で藩主に次ぐ、大家老にまで昇りつめ、藩政改革と、長岡藩存続に知力を尽くし奮闘、戊辰戦争のなか、殺害され波乱万丈の生涯を送った河井継之助を描いた作品。

 河井継之助は歴史上の人間としては、殆ど知られていなかったが、この司馬作品と、この作品が別の司馬の幕末時代の作品とともに、大河ドラマになったことで、一躍有名となり歴史上の人物として評価をされる。まさに司馬が発掘した人物。

 継之助、長岡から江戸にでて、古賀謹一郎が主宰する久敬舎に入門、陽明学を学びその間佐久間象山の塾でも学ぶ。

 しかし江戸学問は知識主義ばかり。継之助は知識など生き方の何の足しにもならない、行動精神のない学問は腐儒として嫌う。

 そこで実際の行動主義者、藩財政を改革し立て直した備中山田方谷に教えを乞うために継之助は遊学の旅にでる。
 その学びの旅を中心に描かれるのが上巻である。

 遊学の申請を首席家老の牧野頼母に対し提出する。
頼母が言う。
 「藩の政治は家老がきちんと行うから、お前たちはその指示に従えばよい」
継之助が言う。
 「今の世界動向をみると、日本のみならずわが越後長岡藩も危急存亡の時が参ります。」
 「大げさなことを言う。」
 「いや3年、4年以内に藩はこのままでは粉々に破壊されるでしょう。その時藩を率いて 
  その危機を救わねばいけません。」
 「誰がそれをするというのだ。」
 「拙者で、ござる。」

 この自信と覚悟がすごい。藩費はだせないが頼母は継之助の圧力に押され遊学を認める。

 継之助は、通商が始まった横浜で、福地源一郎(毎日新聞の創始者)の紹介でスイス人に出会う。スイスには鉱山資源もないし、高地で土地もやせていて農業にも適していない小国。にもかかわらず、ヨーロッパでは裕福な国になっている。乳製品を創る、更に精密機械を創り、ヨーロッパの他国に輸出するから国が豊かなのであるとスイス人から説明される。

 継之助の長岡藩も小藩。日本のスイスを目指そうと継之助は考える。

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| 古本読書日記 | 06:16 | comments:0 | trackbacks(-) | TOP↑

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