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中島京子   「彼女に関する十二章」(中公文庫)

 主人公の宇藤聖子は50歳。息子の勉も一人立ちし、今は夫と2人暮らしで、税理士事務所にパートで働いている。女性としての印もなくなる「閉経」も迎えている。

 そんな時、たまたま、昭和28年に出版された伊藤整の大ベストセラー「女性に関する12章」に出会う。この本により当時世の中で「~に関する12章」という言い回しが大流行した。

 この小説は、伊藤整の「女性に関する12章」をたどりながら、主人公の「宇藤に関する12章」を現在、それから50歳なるまでの過程を照らし合わせた、物語になっている。

 伊藤の12章では、最初に目の前に現れる異性には憧れは抱いても愛情は持てない。しかし、それから出会う異性たちは、最初に出会った異性の記憶の上に積み重なってゆくと書かれている。

 幼稚園や小学生の時初恋を経験したというが、それは恋ではない。しかし、その時の異性がその後の選ぶ異性を決める。

 私は老人の域に達した人間だから、伊藤の主張に全面賛成だが、今は、幼年でも恋は生まれているだろうとは思う。

 昭和28年当時で、いくら愛し合って結婚して、生涯この人と添い遂げると思っても、男性は他の女性を必ず求めるものという伊藤の主張に世の女性陣はショックを受けたそうだ。

 それは伊藤のいう「男には可能な限り至る所に子孫を残そうとする健康的本能」があるからだ。

チンパンジーはその典型で、一匹のオスが十匹以上のメスが関係する。子孫を残すためには、一匹のメスに対し一回の交渉で大量の精子を送り込まねばならない。それでチンパンジーの睾丸はどでかい。

 それとは逆にゴリラの場合は、一匹のメスに複数のオスが群れる。だから、この場合オスの睾丸は小さい。

 人間は、チンパンジーとゴリラの中間に睾丸の大きさは位置する。ということは、男も女も自由に、交渉相手を変えられるということだ。

 伊藤の主張を現在に引き写せば、こんな結論になると物語では語られる。

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| 古本読書日記 | 05:56 | comments:0 | trackbacks(-) | TOP↑

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