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鴻上尚史     「恋愛の1/2」(角川文庫)

恋愛と同じくらい大切なことなに、もっときちんと知りたいのに、ちゃんと語られないのがセックス。そのセックスについて正面から向かい合って語ったエッセイ。

私が社会人となった一年目になんと商業映画で、疑似ではなく本番のセックスシーンを撮った映画があった。大島渚が撮った「愛のコリーダ」である。

 この映画は、昭和11年に起きた阿部サダ事件を題材にしている。阿部サダが愛した吉蔵を愛しあった果てに、吉蔵を殺害して、なお吉蔵の男物をちょんぎってしまったという事件。
 阿部サダは「毒婦」というのが一般の認識。

しかし、2人は、そのセックス中に達したらお互いの首を絞めあって殺しあおうと約束する。

 この映画は、最初に二人が出会う場面があるが、後はひたすらサダと吉蔵のセックス場面が延々と続く。
 こんなに続くものではなく、途中で飽きてしまうのではと思ってしまうほど。しかし、2人はひたすら愛し合い、求め続ける。

 それから、男性の主人公だった藤竜也はそれなりに苦みばしって魅力があるが、サダを演じた松田瑛子は、顔つきも普通だし、スタイルも貧相であまり魅力的ではない。大島監督は、この映画でセックスとは何かを問うている。

 普通の女性松田瑛子を配して、セックスやこの映画で表現していることは、誰もが生活の中で普通に行っていること、殺害も誰にでも起こることと言っている。

 言葉を持ち話すことや考えることは、人間独自なこと。それは、生きることに秩序や制限を引き起こしている。

 セックスは本来動物に備わり、プリミティブなコミュニケーションをとる方法。制限や言葉を忘れて忘我、自由になることを実現する行為。そして、考えたり、会話する行為からの脱却の果てにあるのは死。だから二人が首を絞めあって心中しようとしたのはセックスの果ての普通の行動。サダは毒婦などではないのだ。

 映画作家の鴻上はすごいと思う。あんな暗くてとても興奮をもよおさず、つまらない「愛のコリーダ」をこんな風に深く、大きく解釈するとは。

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| 古本読書日記 | 06:28 | comments:0 | trackbacks(-) | TOP↑

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