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貫井徳郎    「神のふたつの貌」(文春文庫)

神に会いたい、神の声を聞きたいと希求してやまない、牧師の子に産まれた早乙女輝。将来は父の後をついで牧師にならねばならないが、この世は殺戮はなくならず、悲劇がくりかえすにも拘わらず、神は何の手立てもしないし救いの手もさしのべない。神は信じるが、その存在については懐疑的な気持ちがぬぐえない。

 そんな中幾つかの死や、殺人がある。その核になるのが早乙女父子だが、本文中早乙女と書かれているところが、父をさしているのか主人公の輝をさしているのか判然とさせないで、読者を翻弄する叙述トリックが駆使される。

 そこが、わかった途端、謎解きはたやすくなり、ミステリーとしての興味は殆どなくなる。

貫井は、この作品を書くにあたってキリスト教を深く研究したか、それとも信仰深い信者ではないかと思った。そして、解明はされないが、キリスト教への疑問について真相にかなり迫っている。

 父が祖父から継いだ教会に朝倉という風来坊が、住まわせてくれとやってくる。一時期住まわせてやったが、信者からの強いクレームによりアパートヘ移る。そこから、母親との密会がはじまり、ある日朝倉の運転する車が交通事故を起こし、朝倉本人と同乗していた母親が死ぬ。

 母親の突然死はどういうことなのか。何故神は救ってくれなかったのか。一体死とは何なのか。輝は悩み追及する。

 そんな時に、古くから教会に通っていて、最も信仰が深い久永が答える。

交通事故の直前まで、母親はまさかこんな形で死を迎えるとは思っていなかっただろう。それでも母親自身がこんな死を望んでいたんだ。

 それから、アダムとイブの間違いにより、人間は神と異なる肉体と感情を持つようになり、神の持つ霊の波動と相容れないようになった。神の持つ波動と十分な交換ができなくなった我々はこの世の真理を把握することは難しい。この世に無意味な生は決して存在しないのだが、それを人間が理解することは難しい。それから、死というのは決して永遠の別れではない。輝の母親は肉体から脱し、再び神の御許に還っていったのだ。だから母親の死を悲しむことはないんだ。母親は消えてなくなったわけではないのだから。今は神の御許で、現生の役割を終えて、幸福感に浸っているのだ。

 ひたすら神を信じ、熱い信仰で、神の波動にできるだけ近くなるようにすることがより平和で幸せな生活を送ることになるようだ。でも、ぼんくらの私には全く理解できない。

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| 古本読書日記 | 06:12 | comments:0 | trackbacks(-) | TOP↑

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