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角田光代    「降り積もる光の粒」(文春文庫)

少し前までは、家というのは住んで生活し、両親を含め家族が一緒にいる場所、家は即家族と結びついていた。会社もそうだった。自分がその会社に属していると定義され、自らを会社に存在し、そこと一体であるということだった。

 今はその居る、属しているという定義が揺らぎ変化しつつある。携帯電話が普及したからだ。

 以前は、会社に電話してもいない、家に電話してもいないということは、行方がわからないということだった。しかし、今は携帯により、どこにいても繋がり、居場所は特定でき。いつでも相手を捕まえることができる世界になった。

 こうなると、家族、家、会社というのが急に存在が薄くなる。特に家族となると、その関係が希薄になり、むしろ家族以外の人々と家族より強い関係を築くことが生ずる。

 携帯は、個人に会社、家庭より、今の社会に存在することを認められているかを迫ってくる。会社にいても、家族といても、社会に存在していないと、そこで生まれ出てくる孤独感、焦燥感は半端ではなくなる。

 そんな恐怖といつも隣り合わせにいることをこのエッセイは教えてくれる。


 このエッセイで描かれている、アフリカ マリ、インド、パキスタンの女性器切除の村、スラムの実体には驚愕だ。

女性に快楽を覚えさせないように、赤子のときに性器或いはクリトリスを切除するのである。その村に行って、それは良くないことと言っても、何故良くないことかを説明できないのである。ずっと村ではそのことが当然として行われてきて、当然の掟になっている。良くないという疑問が全くないのである。

 女性蔑視、侮辱、人の道に外れているなどと声高に言ってみても、「それがなに?」という状況になるのである。

 当たり前と信じていることを、当たり前ではないと気付いてもらうのには、気の長い時間と村人の目線で活動が必要であることがこのエッセイを読むと実感する。

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| 古本読書日記 | 06:45 | comments:0 | trackbacks(-) | TOP↑

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