FC2ブログ

PREV | PAGE-SELECT | NEXT

≫ EDIT

大江健三郎   「自分の木の下で」(朝日文庫)

 この作品で引用しているノースロップ・フライという人の書いた「大いなる体系」なる本の一文が考えさせられた。

 「先生とは、本来、すくなくともプラトンの『メノン』以来認められてきたとおり、知らない人間に教えることを知っている誰か、というのではありません。かれは、むしろ生徒のこころのなかに問題をあらためて作り出すようにつとめる人であって、それをやるかれの戦略は、なによりも、生徒にかれがすでに、はっきりと言葉にはできないけれど知っていることを認めさせることなのです。それは、かれが知っていることを本当に知ることをさまたげている、心のなかの抑圧の、いろんな力をこわすことをふくみます。生徒よりむしろ先生の方が、大抵の質問をすることの、それが理由です。」

 先生だから、生徒の知らないことを教えます。それは生徒の頭のなかに記憶される。先生の肝腎なことは、この頭脳の奥に保管されてしまった事柄を引き出す力がどれだけあるかどうかだ。

 更に、ぼんやりある記憶を、鮮明にしてあげて、それをまとめあげ表現できる言葉を作り上げられるようにすること。それらを妨げている抑圧をときほぐしてあげる。

 学んだことは、表現され、使えるようにしてあげないと、無駄な記憶の積み重ねになる。
そうしていけないことを先生は常に自覚して教鞭にたたねばならないと思わされた。

ランキングに参加しています。
ぽちっと応援していただければ幸いです。
にほんブログ村 本ブログ 読書日記へ

| 古本読書日記 | 16:36 | comments:0 | trackbacks(-) | TOP↑

COMMENT














PREV | PAGE-SELECT | NEXT