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2021年09月 | ARCHIVE-SELECT | 2021年11月

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村山仁志    「午前0時のラジオ局」(PHP文芸文庫)

 地方の放送局の新米アナウンサー鴨川優は突然テレビからラジオ局に回され、自分の本意でない異動のため憂鬱だった。

 そして、このラジオ局の鴨川が担当する番組ディレクター蓮池陽一が不思議なディレクター。ラジオ一筋30年間ディレクターをしている。必要があれば、昼間でも真夜中でも登場してくる。
まるで局に寝泊まりしているのではないかという状態。

 鴨川の担当する番組は午前0時から始まる「ミッドナイト☆レディオステーション」そしてアシスタントの選考オーディションを夜中の3時に行うと蓮池が言う。

 そのオーディションで選ばれたのが山野佳澄。中学をでて、高校には行かず、パン工場に勤めているという変わり種。このオーディションも不思議。7人が応募してきたが6人しかやってこず、6人で終了と思われていたのだが、アシスタントに選ばれたのは来ていなかったはずの番号7番の佳澄が選ばれる。すると来ていないはずの佳澄がどこからともなく現れる。

 そして一回目の放送。その途中で蓮池より紙が差し入れられる。

 八峰村で大雨が降っている。道路の崖崩れや、落雷停電や、孤立した集落のあることを緊急放送。落ち着いて避難するようによびかける。新しい情報を次々報道する。
すると八峰村の村長から電話がはいり、放送のおかげで、村の人は何のケガもなく無事避難できたと感謝が伝えられる。

 番組が終わってディレクターの蓮池が言う。
「ラジオは確かにテレビより影響力が少ない。良くも悪くも一対一のメディアだからね。しかし、真っ暗のなか停電したときは、これほど頼れるメディアは無い。僕はラジオは心のライフラインだと思っている。」

 この「心のライフライン」という言葉が輝いて迫ってくる。

 この話にはびっくりする落ちがある。
実はその晩、大雨は八峰村にはまったく降っていなかった。但し10年前には集中豪雨は確かにあった。????

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北國浩二   「猫のいる喫茶店の名言探偵」(PHP文芸文庫)

 新米でうだつの上がらない弁護士の法男、お金にならない近所のいさかいの仲裁ばかり頼まれている。いつも、法男とコンビを組んでいるのが弟の律。律は、古今東西世界の名言を集める名言オタク。この律が名言を駆使してトラブルを解決してゆく中編作品を収録している。

 トラブル解決物語も面白いのだが、昔は弁護士だったが、今は小さな寺の住職をしているエロ坊主の話が面白い。

 寺は浄土真宗の寺。浄土真宗というのは、法然の教えで、広めたのは親鸞。悪人こそが阿弥陀仏の救いの対象であるというのが基本思想。
 
人間に悪事を行わない人間はいない。虫を殺生することだって罪。小さくても罪。極悪人。
死刑にしただけでは、罪はとても償えない。

 罪を犯すのは、人間の本質。神や仏は罪を犯さない。
悪いことを犯した人間は、人間では救えない。それを救えるのは、神や仏。悪いことしかできない人間は、神仏が救ってあげないと極楽には行くことができない。仏の慈悲というのは、人間のせこい良心なんか鼻くそに思えるほど、大きくて深い。宗教で言う罪というのは、人間の法解釈とは全然違う。

 罪は犯さないことのほうがもちろんいい。しかし、罪を犯したからこそ、よりよい人間になることもある。人間は、どんなことからも学べるし、いくつになっても成長できるものだ。

 死刑存続、廃止という議論がかまびすしい。
人間を超越した浄土真宗の仏法にのっとり、人間をみたら、死刑は不要ということになるかもしれない。

 こんな深いことを言った直後、坊主早速上野のキャバクラへまっしぐら。

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蒼月海里   「怪談喫茶ニライカナイ」(PHP文芸文庫))

 会社をやめ、暮らしが窮屈となった主人公雨宮は、家賃が安価な東京臨海都市の綿津岬に引っ越してきた。その引っ越してきた当日夜、怪異に襲われる出来事に遭遇。そしてある日街を散歩すると、町の海神一丁目は蜃気楼に浮いているような町で古い建物が連なっていた。その一丁目に入ると突然廃墟のような喫茶店、「ニライカナイ」があり、そこに入ると店主が、お茶代として「あなたの怪談を聞かせてほしい」と言う。雨宮が体験したアパートの怪異現象を話すと、店主は「ありがとう」と言う。代金はとらず、それで雨宮が喫茶店をでると、喫茶店も店主も消えてなくなる。

  消えて無くなる喫茶店「ニライカナイ」に行った体験者と、他にコンビニのアルバイト女子大生の一ノ瀬、会社の移転に伴い引っ越してきた日向の3人が、一丁目にある、海神神社の探索や、海神祭りで怪異体験を通して、喫茶店「ニライカナイ」の怪異現象の真相を探求する。

 そういう分類があるかどうか知らないがライトホラーと呼べる作品。

 主人公の雨宮、一ノ瀬、日向の造型が平板で、真に迫ってこない。特に女子大生の一ノ瀬。コンビニのアルバイト。恐ろしい街のコンビニのアルバイトなんてやめて、別の街でアルバイトすればよいのに、何でこんな恐ろしい街のコンビニアルバイトに固執するのか全くわからない。

 更に、オムニバス形式で、次々怪異現象が次々登場するが、あまりにも多く、恐怖を表現する前に、次の現象に切り替わり、恐怖を感じる暇を与えない。

 怪異現象もそうだが、もう少し人間を作りこんで欲しい。
作品はシリーズ化されているようだが、とても別のシリーズを読んでみたい気持ちが起きない。

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柏井壽    「京都下鴨なぞとき写真帖2」  (PHP文芸文庫)

 主人公の朱堂旬は、京都の老舗料亭「糺ノ森荘」の当主。しかし、料亭の経営には関心がない。朱堂旬は人気写真家金田一ムートンという別顔を持って活躍している。撮影は助手の竹田由紀を伴って行われる。

 この本は京都の伝統的な祭りの撮影最中に起こる色んな出来事の謎解きをムートンが行う体裁で5編の作品が収録されている。

 雑誌社から依頼されている、祇園祭の最中に行われる無言詣の撮影中ある出来事に遭遇する。
無言詣というのは、人に相談できない悩み事を祇園さんから出発して御旅所まで無言で祈りながら歩く。その後また祇園さんに無言で戻る。これを一回として7回半くりかえすと願いがかなえられるという儀式。ただし全行程無言を通さねばならない。1回でも喋るとまた初めからやり直す。

 この無言詣をしているある中年女性にムートンが遭遇。詣をしている女性の了解をとって撮影をする。女性は雑誌編集者山川通代と名乗る。撮影が終わり、京都駅近くの食堂「燕」で食事をする。そこで通代が、無言詣をする訳について告白する。

 雑誌の編集者でものすごい多忙な日々を送っている。その結果どうしても家事がおろそかになる。そして子供がほったらかしになってしまった。それが嵩じて主人と離婚。子供は姉佑美と弟佑也の二人。弟のほうはよいのだが、姉の佑美が通代を嫌って、合ってくれない。毎年法輪寺に家族で参拝して写真をとるが、佑美には離婚直前の参拝以来合ったことが無い。

  それで、佑也に頼んで、写真を毎年送ってもらっている。佑美になんとしても会いたくて、無言詣をしていた。と告白する。その写真をムートンが拝借する。
ムートンは写真をみて、佑美もお母さんに会いたがっていますよ。と写真を拡大してみせる。

 最後に佑美に会った時、通代は佑美に法輪寺のお守り袋、智恵くるみをあげている。
そのお守り袋に入っているくるみが2ついつもさりげなく写真に写っている。

 くるみは佑美とお母さん。佑美はずっとお母さんを待っている。

 ちょっとうるっとさせるラノベ。だからたくさんの読者をラノベは持っている。

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五十嵐貴久    「ぼくたちのアリウープ」(PHP文芸文庫)

 アリウープ、誰でも知っている言葉かもしれないが、説明しておく。

 バスケットボールで空中でパスを受け、そのままゴールにダンクシュートをするプレイのことを言う。 主人公は15歳、名門私立国分学園高校の一年生の斎藤順平。国分学園高校は、文武両道を実施している高校。東大進学する生徒も多いし、高校野球甲子園大会の常連校でもある。
 順平は中学時代はバスケット部のキャプテン。当然国分学園でも強豪バスケ部に入部して全国大会を目指そうとする。

 ところが、入部届けを提出した直後、バスケット部顧問だった田辺先生に呼び出される。
呼び出されたのは7名。この7名が、入部届けをだした生徒だ。その7人に対し田辺先生が言う。

 「実は3年生のバスケット部員が、酒飲み会を行い、酔ってしまい居酒屋の客と乱闘になり、警察に補導されてしまった。それで、バスケット部は1年間対外試合禁止となった。」と。驚きがっくりする。それでも7人は残った2年生が、練習をしていると聞き、見学にゆく。すると2年生のキャプテンが、2年生部員の総意として、今年は新入部員はとらないと決めていると言う。

 それで、バスケット部入部を希望していた4人がバレーボール部とフェンシング部に転部。
順平はバスケットをしたくて、2年生キャプテンに粘り強く交渉。結果8月31日に2年生と試合をして1年生が勝利したら、入部を認めることで合意。8月31日まで後3か月余。
試合をするためには、最低5人の部員が必要。活動もできない部に入部する生徒をどうやって集めるか。

 そこにバスケ女性部が手をさしのべる。一緒に練習しようと。
それから部員。バレー部に転部した一人を兼部という条件で入部させる。そして驚くことに活動もままならないバスケ部に入部したいという一年生が現れる。しかし、この生徒は女性部にいる一人の部員に憧れているからというのが動機。

 更に、田辺先生が一人の生徒を紹介する。この生徒背丈は190Mあるのだが、体重162KG。完全に成人病状態。このままでは死んでしまう危険性があり、運動が必須。それでバスケ部へ。ゴール下の壁にでも使えるかということで入部してもらう。

 これで6人。この6人が女性部員にも支えられ、合宿を通して、2年生部員と対戦するまでを物語は描く。

  正直物語はありきたりで平凡。
しかし、バスケばかりでなく、学期末や中間試験、進路相談も描き、普段の高校生の姿を描いているところは好感がもてる。
 また、相撲取りで化け物のような部員と女子部員の子大好きの部員の片思いが楽しく描けていて、そこは面白い。

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鈴木英治   「大阪城の十字架」(PHP文芸文庫)

 備前岡山藩主宇喜多秀家の筆頭家老キリシタンだった明石掃部。関ヶ原と大阪夏の陣で豊臣側について戦い、敗れる。秀家がいると思った岡山城にもどったが、秀家はおらず、しかも岡山城は改易になり、小早川の城となり、岡山を追放。主君秀家が流刑で八丈島に流された情報を得て、掃部も秀家を追い、八丈島に行き、そこで主君との再会を実現するまでの掃部の人生を描く。

 面白いと思ったこと。

 実は、掃部は、岡山をでて、九州に行き、黒田長政に一時期仕える。長政の父親は大河ドラマでも有名な秀吉の側近だった黒田官兵衛。その時はすでに藩主を長政に譲り、出家して黒田如水となっている。

 当時秀吉は、病に伏し、死ぬ直前。掃部は如水に秀吉の後は如水が天下をとれたのではという。
「豊臣の家老筆頭は石田三成だが、権勢は無い。秀吉に一番近いのは、私だった。だから何でも秀吉の命令だと言って、命令を発すれば、どんどん私の権力はあがり、やがて、秀吉の代わりに私が天下をとれる。それはたやすいことだ。あの当時家康の力は豊臣に比べればたいしたことはなく、武田を攻めるのに四苦八苦していた。とにかく私を妨害する者は誰もおらなかった。」

 しかし如水は天下取りをせず九州に秀吉より領地をもらい、九州に下った。

 それは如水が天下をとっても、自分が退き、息子の長政に譲ると、とても長政では天下を統治する器量はない。だから、九州に下ったという。これが、この作品の如水が九州に下った背景。

 同じ内容が司馬遼太郎の「播磨灘物語」に登場する。

 ある時、秀吉が側近を集め、自分が死んだら誰が天下をとるかと問う。
すると出てくる名前は、家康、前田利家、毛利輝元などの大大名の名前がでる。すると秀吉はそれは違う。「それは黒田官兵衛だ。」と言う。

 信長も秀吉も、自分にとって代わろうと野望を持つものは、問答無用で殺害する。

 この秀吉の話を人伝てに聞き、秀吉を恐れた黒田官兵衛は九州にひっこんだと司馬は書く。

 黒田の九州行きの真相は、全くこの作品の著者鈴木と司馬の想像で、真実はわからない。
しかし司馬の想像のほうが、鈴木より優れて面白い。

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北國浩二   「猫のいる喫茶店の名言探偵」(PHP文芸文庫)

 新米でうだつの上がらない弁護士の法男、お金にならない近所のいさかいの仲裁ばかり頼まれている。いつも、法男とコンビを組んでいるのが弟の律。律は、古今東西世界の名言を集める名言オタク。この律が名言を駆使してトラブルを解決してゆく中編作品を収録している。

 トラブル解決物語も面白いのだが、昔は弁護士だったが、今は小さな寺の住職をしているエロ坊主の話が面白い。


 寺は浄土真宗の寺。浄土真宗というのは、法然の教えで、広めたのは親鸞。悪人こそが阿弥陀仏の救いの対象であるというのが基本思想。

 人間に悪事を行わない人間はいない。虫を殺生することだって罪。小さくても罪。極悪人。
死刑にしただけでは、罪はとても償えない。

 罪を犯すのは、人間の本質。神や仏は罪を犯さない。

悪いことを犯した人間は、人間では救えない。それを救えるのは、神や仏。悪いことしかできない人間は、神仏が救ってあげないと極楽には行くことができない。仏の慈悲というのは、人間のせこい良心なんか鼻くそに思えるほど、大きくて深い。宗教で言う罪というのは、人間の法解釈とは全然違う。

 罪は犯さないことのほうがもちろんいい。しかし、罪を犯したからこそ、よりよい人間になることもある。人間は、どんなことからも学べるし、いくつになっても成長できるものだ。

 死刑存続、廃止という議論がかまびすしい。
人間を超越した浄土真宗の仏法にのっとり、人間をみたら、死刑は不要ということになるかもしれない。

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仲町六絵    「京都西陣なごみ植物店」(PHP文芸文庫)

 京都西陣にある「なごみ植物園」は、花弥、実菜姉妹が店を切り盛りしている。実菜は「植物探偵」として、色んな植物が引き起こす事象や事件の謎を解く。その実菜探偵のワトソン役をするのが京都府立植物園の新人、神苗健。神苗は実菜に恋心を抱いているのだが、くよくよして打ち明けられずにいる。この神苗に強烈なライバル、華道家元の息子雪伸がいる。

 この物語は、様々な植物が登場。そして物語の舞台が京都ということで、登場する植物が歴史と絡まり、本当に勉強になることが多い。

 なかなか想像できないのだけど、ドングリは草木染の染料に使われ、あざやかな黄色を表現できる。この場合の黄色は実はドングリの実から生まれるのではなく殻斗、ドングリが被っている帽子がら生まれる。

 神苗の誕生日に、実菜の姉、花弥からプレゼントがある。大伴家持が詠った和歌である。

 紅は 移ろうものぞ つるばみの 馴れにし衣に なお及かめやも

 どんな意味があるのか、神苗は懸命に推理し、わかった!と声をあげる。

「実体のない、移ろいやすい紅よりも、服という実用できるものに定着して長く使われる黒つるばみ(くぬぎ)の方がいい!質実剛健サイコー!」
そして、幸せいっぱい、満足の気持ちになる。

 この和歌は、大伴家持が浮気をしている部下に与えた和歌である。華やかで貴重に思えるアバンチュールを繰り返す相手は次第に魅力が衰えていくものだ。それより、身近にいて、地味で慣れ親しんだ妻のほうが、ずっと素晴らしいものだ。
 という意味。

 つまり実菜の姉花弥が、地味な実菜を神吉は大切な女性として一生愛せねばならない。他の女性に心が動くことは絶対許さないぞという警告を神苗にしているのだ。

 勝手な解釈をして、はしゃいじゃいけないぞ、神苗。

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| 古本読書日記 | 06:03 | comments:0 | trackbacks(-) | TOP↑

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仲町六絵    「京都西陣なごみ植物店3」(PHP文芸文庫)

 このシリーズ、信長や秀吉、光秀が主人公になるような付記があったので、てっきり歴史物の作品と思って購入したのだが、中身は短編集で、3人をそれぞれに扱った短編も含まれているが、武将とは関係ない通常の謎解き作品集だった。

 作品では主人公京都府立植物園に勤める新米職員神苗と京都西陣にある「なごみ植物店」の店員で「植物探偵」と名乗る実菜が活躍する。

 神苗は、密かに実菜を恋しているが、この間に雪伸という華道の家元の息子が肝心なところに登場し2人の恋路を邪魔する。

 非常に勉強になり感心したのが「茶の花如来」

日本の茶の歴史は、日本固有種の茶が古来からあり広まったという説と、中国から渡来して広まったという2つの説があるが、今は中国渡来説が有力になっている。

 京都の北、八瀬が故郷の神苗の大学時代の恩師有働教授が、ある日神苗に仏像の写真をみせこの由来を突き止めてほしいとの依頼がある。その写真には、仏像と仏像の中にあった、梵字の刺繍と、白く小さな花弁と黄色い芯、先の尖った緑の葉が写っていた。

 仏像には弘仁9年と彫られており、これは西暦818年。仏像は、一見廬舎那仏のように見えるが、手に茶壷を持っているので、薬師如来像と神苗のライバル雪伸は推理する。

 実は、茶は最澄が唐の天台より日本へ最初に持ち込んでいた。茶は当時は薬として扱われた。茶葉は固形物にして塊で持ち込まれた。だから仏像は薬師如来で間違いない。

 喫茶の最初は嵯峨天皇が比叡山ご行幸の際、お茶の接待を受けたときと言われている。

 像の持っている茶壷、像に比べ作りが粗雑。神苗は、時代が遡って、後に誰かが拵え備え付けたと思ったがそれは違うと雪伸は言う。茶壷は茶の木で作られている。茶壷のような太い茶の木は無いと思っていたが、茶の木というのは大きく成長し雲南省には樹齢3500年幹の周囲が4つもある茶の木がある。ただし茶の木は硬くて、加工が難しく粗い作りになっているのだと雪伸は主張する。

 そして梵字の刺繍は、最澄が作成したのではという。更にこの仏像は、朝廷に仕える八瀬童子が作成。如来像は延暦寺にあったが、信長の延暦寺焼き払いのとき八瀬に逃れて、保存されていたのだと推理する。

 この物語では「植物探偵」実菜は活躍しないが、雪伸の推理は面白く興味が尽きない。

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| 古本読書日記 | 06:22 | comments:0 | trackbacks(-) | TOP↑

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北大路公子    「私のことはほっといてください」(PHP文芸文庫)

 雑誌「文蔵」に連載していたエッセイを収録している。

エッセイというのは、最初は、著者は過去に経験した面白い出来事を書くが、そのうちにそうそう面白い出来事に遭遇するわけもないので、ネタに詰まり、辞書に載っている言葉の由来などをネタにして書くことが多くなる。

 北大路さんも状況は同じで、面白いネタが転がっているわけないのだが、通常起こったことを、引っ張り出してそこから妄想を働かしたり、出来事をいろんな角度からみてみたりして、突拍子もないエッセイに変えてしまう、素晴らしい才能だ。
 どのエッセイも型破りで面白く楽しい。

冒頭のエッセイから楽しい。

北大路さんの家の前のマンションの2階。いつも、住人はいつも午後窓を開けっぱなしにして、半裸で部屋にいる。外から丸見え。何も臆することなく堂々としている。

 北大路さんが20歳代の時に、友人の年上の人妻と酒を飲む。普通の会話の後、突然変なことをつぶやく。
「明日は何になろうかな。」

人妻はまずいことを言ったかなと顔を顰めて、別の話題にしようとするが北大路さんが許さず、厳しく問い詰める。すると人妻が言う。
「主人と子供を家から送り出したあと、様々な人に変身して一日を過ごすのよ。」
「大物政治家の愛人。バスロープ姿でシャンパンを飲みながら過ごす。幽閉された女王。国家権力に追われている政治犯になったり、重い病気に犯された孤独の少女になったり。」

「それから双子。まずお姉ちゃんになって、妹に『食器洗いをお願い』や『風呂掃除頼みます』とか書いてメモをテーブルの上に置いておく。それを少したって妹になり、お姉さんはほんとにだめねといいながらメモに書かれた家事をするの。」

 不思議だ人妻界は。
向かいのマンションの奥さんはいったいいつも午後は何になっているのだろうか。

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吉田健一     「東京の昔」 (ちくま文庫)

 何の作品か忘れたが、戦後まだ数年しかたっておらず、社会が混乱、食料品が乏しく入手困難なとき、吉田健一がフォアグラを食べたくなって、パリから航空便で取り寄せたことを読んで、ショックを受けたことがあった。戦争中も戦後の混乱時も、何もしないでいても金にも困らず、贅沢な食事もできる、あの大変な時にも、日本にはそんな人が存在していたのだ。

 この物語、戦争直前の著者と思われる主人公と、人々との交流を描いている。
主人公は東京本郷に引っ越してくる。仕事をしている様子はない。閑人、高等遊民のようである。

 昼間は街を散歩したりして過ごし、夕刻、近くのおでん屋「甚兵衛」に行き、おでんをつまみに酒をたしなむ生活をしている。

 そこで、主人公は自転車屋の勘さん、帝国大学生の古木さん、実業家の川本さんと知り合い友達となる。

 奇異に感じたのは、おでん屋に入って、自転車屋のおじさんと、声を掛け合って友達となるところ。主人公のモデルが作者だとしたら、何しろケンブリッジ大学で学び、吉田茂を父親にもつ、高級国民の人が、おでん屋になんか好んで行くことが不思議だし、このような高等遊民が職工さんである自転車さんの大将と友達になるのがすっと胸にはいってこない。

 帝大生の古木君との交流は、プルースト、ベケット、ベルグゾンなど、フランスの文化、歴史、パリの風景が縦横無尽に語られ、さすが洗練された高等遊民の教養が溢れ出ている。

 しかし、勘さんとの会話は、教養の会話からどうしても浮いてしまっている。
勘さんとの交流はおでん屋「甚兵衛」で飲んだ後は、神楽坂の待合に行く。女性がサービスをするところである。

 古木君とは、銀座に行く。そこで、紀伊国屋など書店にゆく。そこで新しい洋書を物色する。そして喫茶店へ。それからまた別の本屋へ。資生堂で食事をし、また本屋へ。それからまた喫茶店へ。そして古書店へ。そして夕刻おでんや「甚兵衛」に行き着く。

 会社時代。まれに何も用はないのだが、ふらっと一日さぼったことがある。

朝はいつものように会社にむかう。まず喫茶店に入り、モーニングサービスをとり、備え付けの新聞をくまなく読む。それから本屋へ行く。そしてまた喫茶店へ。それから別の本屋へ。

その後、蕎麦屋へ。そして食後のコーヒーを喫茶店で飲み。それから古本屋へ、そしてまた別の古本屋へ、でもまだ日が高い。それでまた喫茶店へ。その後やっと居酒屋。

 一日が長かった。こんなんだったら会社へ行ったほうがいいとも少し思ったが、やっぱし何もすることが無く、おカネの心配が無い、吉田のように、なれたらなあと強く願った。

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川上弘美    「某」(幻冬舎文庫)

 蔵医師のいる病院にやってきた患者は、自分の名前も年齢も、性別も知らない。来歴過去の記憶もない。蔵医師は当人のアイデンティティを確立してあげようと、高校2年生女子、16歳、名前は丹羽ハルカにして世に送り出してあげる。

 しかし、ハルカはいつまでも16歳で気持ちや身体は変化がない。これではまずいから蔵医師は次は野田春眠、高校生それも男子生徒として送り出してやる。

 そして何年かすると22歳の山中文夫に変えて世の中にだしてやる。
性別も名前も変えられる。ハルカが春眠になれば、性欲もでてくる。今や人間は属性や性別も自由に変えられ作り変えられる。確立した、個性も人格も無い人間が誕生することになる。
何しろハルカがハルカから切り替わった春眠が愛するようになるのだから・・・。

 川上弘美はこんな色んな人を創りながらそこで生じる混乱を楽しく描く。
物語では、こんな次々変わる人間(生物)は地球上に100人は存在していると書いている。

 また、5歳の生物に生まれ変わると、そのまま一切年はとらない、5歳のまま人間に外形がそっくりの生物がいる。こうなれば、その生物は、永遠に年はとらず、死を意識することがなくなる。永遠に生きることはないが、膨大な長期間生き続けられる。

 どうすれば、こんな生物ができるのか、読み進むと、その生物は希望する年代の生物になろうと思っただけで、変われることがわかった。

 地球の誕生は46億年前。人間の誕生は700万年前。人間もいつまでも地球上に存在できるわけはない。もし、個性や身体を変えられる生物が登場したのなら、人間との関係はどうなるのか、そんな物語をこの作品を契機に、川上さんが描いてくれることを希望したい。

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湊かなえ    「未来」(双葉文庫)

 湊かなえ得意の一人称告白スタイルでイヤミス小説が描かれる。

高校生の章子に30歳の未来の章子から突然手紙がくる。
「あなたはこれから、むねをはってしあわせだと言える人生を歩んでいきます。悲しみの先には光射す未来が待っています。」と。

 しかし章子の人生はとても幸せな人生とはならず、奈落の底に落ちてゆく人生が展開する。

 この作品、これでもか、これでもかと酷い出来事の展示会のような作品である。
湊さんは、予めどんな酷い出来事を書こうか決めて書いているのだろうか。それとも、浮かんでくるまま書いているのだろうか。とにかく読者を気分悪くさせようと怨念をこめて書いている。

 起きる出来事はDVだったり、学校でのいじめと頓珍漢な先生の対応、更にだまされてAVに出演とそれらを使っての脅迫により落ちてゆく人生など、あまり目新しいものはないのだが、父親が中学2年生の娘との姦通、この娘の兄は、同級生に妹の売春あっせんという合わせ技を使う湊さん。

いじめで最もきついのが、「あんたは臭い」と言われ、だれも近付かないようにされること。

 この作品の主人公、章子は臭い、匂うとみんなが近付かないようになる。そして、偶然なのだが本谷という男の子が、章子に接近して嘔吐することが起きる。

 担任の大原先生。本当に章子がくさいのか確認して、いじめている子を𠮟りつけねばならないのに、章子にドラッグストアーの紙袋を渡す。

 その中には、消臭スプレー、口臭用の歯磨き粉、歯周病のおじさんが使うような歯磨き粉がはいっている。
 読んでいてがっくりくるが、いかにもありそうだとも思う。

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獅子文六    「自由学校」(ちくま文庫)

 昭和28年、朝日新聞連載小説。獅子文六が膨大な自作の中で、最も良い作品と言っている。

 戦後はアメリカより、自由、平等、男女同権、民主主義が入ってきた。しかし、その解釈と実践は人により、特に男女により異なっていた。
五百助と駒子夫婦。夫が細君を迷惑に感じだしたのは、戦後のことである。
夫五百助の悲痛な嘆き。

「なにもかも、戦争がいけない。家が零落して、細君が働きぶり示しだしたら、とたんに、迷惑な女性に変化してきたのである。庭の掃除をしろとか、井戸水を汲めとか命じられるのを、苦にするのではない。場合によっては、細君の背中を流すことも、細君の靴をみがいてやることも、決して嫌わない。ただ、細君がそういうことを命じたり、ガミガミ怒鳴りつけたりするーその気持ちが、迷惑なのである。一方的、強権的、弾圧的な気持ちである。」

 男女平等、男女同権というのは夫婦の関係も50:50.五百助はアイコデヨイといきたいのに、妻駒子が封建的弾圧をかけてくる。奴隷に扱うようなことが常に起きている。

そして怒り心頭した駒子が
「出て行け」と叫ぶ。びっくりしたことに五百助「じゃあそうする」と家をさっさとでてゆく。それから、あの五百助が帰ってこない。

 その五百助はホームレスになり、そこで詐欺商売の助っ人をして、警察に捕まる。それを知った駒子が警察に弁当を持ってゆく。そこで何年振りかで2人はまるく収まるところで物語は終了。

 五百助がいなくなった駒子。何か、男が言い寄ってくる、デートもする、キスもする
しかし肉体関係にはならない。

 ここのところが、現代の小説とは大きく異なる。自由平等と言ってもまだ時代のモラルがよこたわって、学校で学んでいる最中。

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綾辻行人      「黄昏の囁き」(講談社文庫)

 大学生の津久見翔二が実家のある栗須市に帰ってくる。すると数日前に兄伸一が住んでいるマンションの7階のベランダから飛び降りて死んでいた。警察は事故死と処理したが、本当に事故死かどうか元予備校講師占部と翔二が事件の真相を追う。

 綾辻が面白いのは、事件の真相に係る話を文体を変えて挿入したり、大事な言葉を太字にして挿入し、読者を惑わし攪乱するところ。

 この物語、翔二と占部が調査してゆく最中、伸一の小学校の同級生が殺される。その被害者は、翔二が4歳の時、目撃した自動車事故につながる。

 しかし、何と言っても、4歳の時の出来事。翔二は殆ど記憶にない。

ただのり子という子が、仲間はずれにされていて、
「遊んでよ」
「ね 遊んでよ」
「これ、上げるから」
というのり子の声が耳にこびりついている。

この声が真相に近付くたびに、文体を変え、太字になって繰り返される。

 それが、挿入される場面が的確で、読者は知らず知らずに興奮してくる。

まるで映画「ゴジラ」のテーマ曲のように、徐々に強く大きくなり、恐怖感を生じさせる。

15年前、小学校同級生5人は地蔵丘で「だるまさんがころんだ。」の文句を変えた遊び「地蔵さんがわらった」の遊びをしていた。 そこにのり子もいれてあげていた。5人は、鬼ののり子は他の子を探すことはしてはいけない、「ころんだ」と叫ぶ場所から絶対動いてはいけないと言い聞かせた。

 そこに止まっていた車が無人で走ってきた。5人は逃げたが、動いてはいけないと言われていたのり子は車に轢かれて死んでしまう。

 更に綾辻得意の叙述トリック。のり子と言われれば、読者は当然少女と思い込む。確かに、何で、同じ年ごろの子を5人の男の子がつまはじきにするのかは不思議。

 実は、のり子は痴ほう症の老人。唖然。なるほどつまはじきにすることに納得する。
ホラーとミステリーの融合が見事。綾辻作品はどの作品もあっぱれだ。

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| 古本読書日記 | 08:15 | comments:0 | trackbacks(-) | TOP↑

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群よう子    「一葉の口紅 曙のロマン」(ちくま文庫)

 一葉の短い生涯を描いた小説。

樋口夏子、後に、樋口一葉の両親則義、たきは、山梨から駆け落ちして江戸にやってくる。そして江戸幕府の公用人として働く。その後、八丁堀同心の株を買い、身分が武士となる。夏子は士族の娘となるのである。

夏子は私立青梅学校高等科4級を12歳で首席で卒業。彼女はその後も中学、高等学校と進学したかったが、母たきが女性に学問はいらないと言われ、上位学校には進学できなかった。

 しかし父親則義は、夏子の才能を惜しんで、中島歌子が主宰する歌塾「萩の舎」に入塾させる。この「萩の舎」でも夏子の才能は優れていて、歌会では特選や上位入選を果たす。
樋口家は家計が苦しく、夏子は小説家を目指し、家計に貢献しようと思う。しかし、その小説が書けない。それで悩む。

 そのうち、「萩の舎」の塾生、田村龍子が「藪の鶯」という小説を書き本になって出版される。

 そして牛鍋チェーン「いろは」の娘、岡本栄子、後の木村曙が「勇み肌」「躁くらべ」「わか松」などたて続けに5編の小説を新聞雑誌に発表、一世を風靡する。

一葉は、どれもひどい小説と評価し、自分ならもっといい小説を書けると思うが、どうしても書けない。そこで妹から東京朝日新聞専属作家の半井桜水を紹介してもらい、半井に師事を受け、小説家を本格的に目指す。

 著者群さんにどんな意図があったか不明なのだが、この作品、樋口一家の貧乏な生活が殆どを占める。

 一葉の名作「にごりえ」「たけくらべ」「十三夜」「大つごもり」が、どんな動機や環境で誕生してきたのか、読者は知りたいのだが、生活費のやりくりばかりで、最後にやっとこれらの名作を発表したとの1行で終わっている。

 何だか拍子抜けした作品だった。

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| 古本読書日記 | 06:21 | comments:0 | trackbacks(-) | TOP↑

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原田マハ  「20CONTACTS 消えない星々との短い接触」(幻冬舎文庫)

 面白いことを考えるものだ。原田マハに原田マハ本人から手紙が届く。今は亡き芸術家のところに行き、インタビューをしなさい。ただし質問は2問まで。それを3000から3500文字数にまとめてなさい。

 もちろん、質問も答えも原田マハが想像したものだが、本当にインタビューがあったのではないかと思わせる。

 私の故郷は、八ヶ岳山麓蓼科に近い。現在原田マハさんも、蓼科に居住地を移しているそうだ。

 かの映画監督の巨匠、小津安二郎も、諏訪で製糸業で財をなした、片倉家の別荘を借り受け住んでいる。想像のインタビューはこの別荘「無藝荘」で行われる。
最初の質問

「戦後はドーっとハリウッドの作品がアメリカからやってきた。その作品はスペクタクル、ファンタジー作品。日本人はそんな作品を求めていた。しかし監督はさりげない家族の日常をテーマにとりあげた。淡々とした日常、家族を取り上げた。けれど味わい深い一コマを描いた小津作品に、私たちは深い感動を覚えます。あなたの作品のどこが人々に感動を与えると思いますか?」

「永遠に通じるものこそ常に新しい。僕はそう思いながら映画を撮っている。それを観る人がわかっているんじゃないかな。」

そして
 「監督の映画は日常を描いています。しかしリアルではない。なにか日常の上澄みだけを掬い取って、透明で清聴。いろんな批判があったんじゃないですか。」

 「僕はいつもこころがけていることがあってね。どうでもいいことは流行に従う。重大なことは道徳に従う。芸術のことは自分に従う。映画はね、僕にとっては芸術。だから、ただ、自分に従っている。自分のスタイルを貫く。そういうことなんだ。」

全く原田マハはすごい。こんな回答を作り出すなんて。

蓼科にはたった一つ酒蔵、戸田酒造がある。銘柄は「ダイヤ菊」。蓼科の澄んだ水を使っている。生まれて初めて飲んだ酒が「ダイヤ菊」だった。
もちろん小津が最も愛した酒も「ダイヤ菊」である。

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中山七里    「ふたたび嗤う淑女」(実業之日本社文庫)

 この物語、自分では手をくださないが、詐欺の計画を立案してスタッフに実行させる首謀者として野々宮恭子という女性が登場する。

 最初の詐欺、恭子はFX(外国為替)トレーダーとして登場した手口が面白い。

 ある政治家の資金集めの団体の主宰をしている人が、思うように資金が集まらないで困っていた時に、詐欺集団の人に連れられ、恭子の事務所にやってくる。

 誘い人は、恭子をカリスマFXトレーダーと紹介。外国通貨の円との交換レートを15分単位にO.020円以内に当てることができる。そして今11時15分現在のドル・円の交換レートは1ドル=104.456円だが、11時30分には105.533円になると。

 そして話題はユーロの今後がどうなるかに移る。

 しばらくすると、誘い人がそろそろ11時30分です。モニターに注目してくださいと言う。
モニターの時刻表示は11時29分30秒。1ドル=105.529円。そして11時半ジャスト何と105.533円になる。

資金集め団体の人が驚く。そして主宰者に言われてなけなしの20万円を主宰者に試しに預ける。すると3週間後346,525円になり、主宰者の取り分が引かれて手元に317.120円のお金が返ってくる。

 そして主宰者は言う。今度は本格的にやりましょうと。一週間以内に1億円預けてくださいと。

 そこで、依頼人は、政治家から6000万円、ノンバンクや街金融から4000万円を借り、主宰者に預ける。そして3週間後利ザヤが振り込まれる。数千万円までいかなくても、数百万円はあるだろう決算書をみると利ザヤはたった36,215円。

 うそだろうと主宰者に電話しても、電話は現在使われていないの空しい言葉。事務所に行くと事務所はすでにもぬけの殻。1億円をだまし取られた。

 モニターの表示トリックが素晴らしい。11時15分現在のレートを見せ、それから場所を移して、ユーロの話をして、その時11時30分現在のモニターを見させる。

 そのモニターには、105.533円に仕組んであるモニターを使っていた。

 ふーん、こんな風に詐欺が行われるのか。これは騙される。感心した。

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| 古本読書日記 | 06:09 | comments:0 | trackbacks(-) | TOP↑

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高山なおみ   「諸国空想料理店」(ちくま文庫)

東京吉祥寺にあった「諸国空想料理店クウクウ」でシェフをしていた著者。現在は料理家としてひっぱりだこ。その高山さんが感動した料理との出会いとその料理のレシピを載せた作品。

 最初から、南米やアジアの特殊料理が多く登場。レシピも載っているのだが、我が家の近くにある小さなスーパーではおいていない、食材がいくつもあり、再現は難しい。このまま最後までゆくのかな。これでは何にも役に立たない。4分の3を過ぎたころから、普通の内容のエッセイになり、すると我が家でも作れるレシピが登場、胸をなでおろした。

 ときどき食べ物番組を見る。不思議に思うのだが、出来上がった料理をみるより、料理をしている場面をみたほうが、美味しい料理ができそうと思うことが結構多い。

 高山さんの、そんな調理場面の描写を読むと、ごくんと生唾がでそうになる。

「彼が野菜を刻む時、音がきれる。ふっと横から眺めると、背中はまっすぐ伸び、穏やかな視線は斜めの下、包丁を持つ手は軽々トントントントントン・・・といつまでも続く。

 鍋をカンカン熱くしておいて、油をジュワッ!。シャカシャカと鍋をあおり、火はボウボウと燃えあがる。
 うっすらと額に汗した彼が、左手に鍋を右手にお玉を持ったまますっと振り返り、調理台の上に用意された白い皿に、しゃっと勢いよく移す。

 お玉でもって鍋の中身を移しおわるとき、空っぽの鍋をカンカンカンという高らかな音がする。
 すると、そのカンカンカンを聞きつけたホール係の女の子が、それまでやっていた仕事を中断して、くるっと振り返ったかと思うと、取り皿をカチャカチャ用意し始める。」

へえあのフライパンをカンカンカンと叩くのは、料理ができたぞという合図だったのか。

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| 古本読書日記 | 06:54 | comments:0 | trackbacks(-) | TOP↑

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森茉莉   「ベスト・オブ・ドッキリチャンネル」(ちくま文庫)

 森茉莉はご存じの通り、鴎外の2番目の妻於菟との間に生まれた長女。小説家でもありエッセイストでもあった。この作品は1979年から1985年まで週刊新潮に掲載されたエッセイを収録。当時はテレビの出演者をみんなで示し合わせてだます「ドッキリ・チャンネル」という番組が流行ったが、このエッセイはその番組とは関係ない。

 ただ、森茉莉もエッセイ執筆時はすでに晩年、ボーっと朝から寝るまでテレビの前にすわっている生活。それを反映して、芸能人やテレビドラマへの不満や悪口が多いエッセイとなっている。

 森茉莉は、山口百恵の白い歯をみせて笑う姿が嫌いで、百恵を嫌っていた。その百恵が谷崎潤一郎の「春琴抄」映画に出演。盲目の春琴を演じる。この映画では春琴は一度も笑わない。そして厳しい口調で丁稚の佐助に命令をする。この笑わないで、厳しく佐助にあたる百恵は素晴らしいと絶賛している。変わった評価だ。百恵の春琴のいじめに耐える佐助の役をしたのは、夫になった三浦友和である。

 森茉莉は15,6歳になっても、父鴎外の膝の上に抱っこしてもらうほどの父親っ子だった。

 そんな森茉莉が16歳の時、見合い話が持ち込まれる。相手は山田珠樹。これが美男子で格好が良い。しかも何と東大銀時計をもらっている。今は知らないが、東大卒業時成績が一番だった学生には銀時計が授与された。すごい相手である。
 そして、山田側から結婚応諾の話がのちにくる。

鴎外は本当に喜ぶ。しかし、それは見合い相手が素晴らしいからではない。鴎外の家では7人のお手伝いさんがいた。茉莉は何もしないまま育った。

 髪はお手伝いさんが結ってくれる。着物も着せてくれる。飯は焚けない。薬缶に水道の水の入れ方も知らない。

 山田の家が結納金を今のお金で6000万円も持ってくる大富豪。それで茉莉も、何もしなくてもよい家庭にゆけると鴎外は安心したのである。

 この森茉莉が80歳近くなってテレビを観ていう。山田は冷たかった。暖かく優しい人がいい。そして、自分の旦那にはB&Bの島田洋八がふさわしいと。

 わがままだなあ。洋八に我慢が茉莉はできっこないのに。

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| 古本読書日記 | 06:51 | comments:0 | trackbacks(-) | TOP↑

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茂木健一郎   「生きて死ぬ私」(ちくま文庫)

 ニューロンの機能を追求する、脳内学第一人者の著者が人間の脳について語る作品。

ニューロンとは何か読んでもよくわからなかった。強いて言えば、心の世界のことを指しているように思えた。人間は物体である身体と心が一体となって存在する。

 例えば薔薇の認識は、全宇宙の認識→薔薇を除いた全宇宙の認識→薔薇の認識の経路をたどって行われる。
 このあたりから、内容がよく理解できなくなる。

そして最近報告されている体外離脱体験の説明。寝ている時、自分の心が身体から離脱して、天井から心が自分を見つめている体験。体験者は、自分の心が天井から自分を見下ろしているが心と身体は紐でつながっているそうだ。

 しかし、心が遊離してしまった身体はいったい何だろう。つながっている紐が切れたら人間はどんな存在になるのだろう。まったくわからない。

 更に過去には、臨死体験が多く報告されている。

これもよく理解できない。人間は物理的に死んでも、実質即死ぬことはなく、脳死の世界を彷徨う。その世界から死ぬことは脳内世界から、ある境界を越えて本当の死の世界へ行くと完全な死となる。その境界を過ぎる前にまた、生きた世界へ戻ってきて生き返る。

 その境界手前の世界がどんな世界だったかを生き返った人が語る。それが臨死体験。

しかし何となく理解できない。完全に死んだ人が、死の世界から帰還するなら、死ぬ直前に経験した世界はどんな世界かを語るのなら納得いくが、死んでいない人が体験したことが、死の直前の体験を語る。その人はどうしてそれが死の直前の体験だとわかるのだろうか。

 完全に死んだ状態から蘇られなければ、死の直前を語ることは不可能に思える。

それに、事故などで即死した人間は臨死状態があるのだろうか。茂木先生の書かれていることは、最早硬直した私のような老人の頭では殆ど理解不能。

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ジョーン・G・ロビンソン   「思い出のマーニー」(ちくま文庫)

 イギリスやアイルランドには妖精が登場したり、幽霊が登場する名作があまたある。霧がたちこめ、古い城や館があり、そこでは妖精や幽霊がでて活躍する雰囲気が醸し出されるからだろう。

 この作品は、ジブリで映画になっている。ジブリアニメにぴったりの作品である。

幼くして両親を失い孤児となった主人公のアンナは、引っ込み思案で友達もできず、孤独な生活を送っている。多くの人達が交わる場所には枠があり、自分は枠の外にいる人間と自分に言い聞かせている。

 そんな無気力なアンナがある夏、海辺の小さな村で過ごす。ペグさん夫婦に世話になる。ペグさんの家をでて、船着き場の近くの入江に古い館がある。直観的にこここそ自分がいるべき館とアンナは思う。アンナはその館を「湿地の館」と名付ける。

 その館は無人の館なのだが、アンナはそこには住んでいる人がいて、その人は特別の人と思うようになる。そしてある日、その館に住んでいるマーニーに出合う。

 マーニーは会う約束をした場所にやってきてもいたことがない。で、アンナがふてくされてふりむくと、そこに不思議、マーニーがいる。また、一人で散歩していてちょっと休憩すると、ふっとそこにマーニーは現れる。

 あんな大きな館に1人で住むマーニーは自分と同じような人間だとアンナは思い、どんどん仲良くなる。そして2人は永遠の友達となる誓いをたてる。

 ある風雨の激しい日、アンナは村の風車小屋にゆく。その風車小屋の中に怖がって震えているマーニーがいた。アンナは怖かったが、マーニーを助けようと、マーニーがいる2階に梯子をあがる。しかし怖くて降りられない。その2階で2人は疲れて眠ってしまう。アンナが目覚めると、何とマーニーがいない。誰かがマーニーを助けて連れ去ったのだ。

 アンナは裏切られたと思い、衝撃を受ける。
次の日アンナが「湿地の館」に行くと、マーニーが館を離れ遠くに行くことになったと言う。「でもアンナが一番好き」と叫んで、マーニーは消えてゆく。アンナはやっぱりマーニーは本当の友達なんだと嬉しくなる。

 無人だと思っていた館にリンジー家族がやってくる。アンナは、マーニーは自分が想像した少女だと思っていたが、リンジー一家の少女から、アンナに秘密にしている名前が砂浜に書いてあるといってアンナを砂浜に連れてゆく。すると、そこにはアンナが誰にも言ったことのないマーニーの名前が書かれていた。

 リンジー一家の少女は、館の中でマーニーが書いた日記を見つけていた。そこには、50年前マーニーはある夏アンナという少女にであい、アンナがとても大切な子であったこと、もちろん水車小屋の出来事も書いてあった。マーニーはアンナのお母さんだったのだ。

 アンナはそれから心を開く、少女に生まれ変わった。そしてアンナは思う。自分は枠の内側に入ったと。

 亡くなったお母さんに、少女時代に出合い、生涯の友達でいることを誓い合う。

いい物語だなあと思う。

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佐野洋子   「私はそうは思わない」(ちくま文庫)

 童話、絵本作家で辛口のエッセイストである佐野洋子のエッセイを集めた作品。

佐野さんのエッセイを読むと、イメージで申し訳ないが、クレラップのCMに登場するおかっぱ姉妹の妹のアサダ ハロちゃんが浮かんでくる。純真で可愛いのだが、一度思ったり、決めたことは、誰がなんと言おうと信念は曲げず、主張し、行動する。

 人間はセックスをするからできるのではない。ちゃんと神様がおられて、神様が創るのである。

 通常神様は忙しい。なにしろ何十万年もの間、人間を創っている。その単純作業に飽き飽きしてくる。だからぺちゃくちゃ喋りながら創る。

 朝は、真面目に人間造りをして、美男美女や、頭の優れている人を創るが、作業がおわりころになるとかなりいい加減になる。鼻は品格を表す重要な部分にもかかわらず、ええい面倒ということで小指でほじくって穴を開けたりする。

 唇も小さなヘラを使ってくっきりと線をいれて仕上げるものなのだが、ポテポテと指で肉を重ねつけて、たらこのような唇を創る。

 むやみに脚の材料を節約したりするので、武田鉄矢のようなものをほっぽりだす。(私が言っているのではなく、佐野さんが言っているのである。誤解しませんように。)

 これに淫乱、強欲などもおまけにつけるから、地上が混乱するのは当たり前。そして、最近はいくら真面目に作っても、人権だ、平等だ、アイデンティティーだとうるさくなって神を信じる人も少なくなっている。しかも、神を冒涜しているのか試験管で人間を創るようなことまでする。

こんなエッセイを読んでいると、私など、神様人間造りの終了間際に造られたいい加減な作品に間違いないと、深いため息がでる。

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早川茉莉編    「玉子ふわふわ」(ちくま文庫)

 玉子ふわふわは日本で初めて私の住んでいる袋井で作られ、大名行列の藩主や付き人にふるまわれた料理。

 何年か前に街おこしでこの玉子ふわふわを再現させて、宣伝したが、まったく有名にならず失敗してしまった。

 その玉子ふわふわがタイトルになっている本があった。びっくりして購入する。しかし、いくら読んでも全く玉子ふわふわが登場しない。どうなっているんだ、この本はと思ったら、やっと最後から3番目にエッセイストの林望が、子どもの頃風邪をひいたとき母親が作ってくれたとレシピ付きで登場。最後に宇佐美真理のタイトルが「玉子ふわふわ」の短編が登場した。

 そのほかは、思い出の玉子料理、玉子に関するエッセイが収録されている。

向田邦子のエッセイが印象に残った。
小学校のとき、向田のことを先生に告げ口したということで、ある友達と口をいっさい聞かなくなった。その友達は3軒長屋の真ん中に住んでいてとても貧乏だった。彼女は歌が上手だった。合唱をしていたが、いつもセーラー服は汚れていた。

 クラスで遠足があった。

その友達が、向田のところに昼食時走ってきた。そして弁当箱からゆで卵を向田に向かってつきだす。向田がいらないと言う。友達がおいかける。

 よくみると、そのゆで卵が黒く汚れている。その黒ずんでいるところに「わたしはつげぐちしてないよ。」と書いてあった。

これできっと向田にとってまた大切な友達なったのだろうなと私は思った。
それはないか、ほろ苦いささやかなゆで卵の思い出が残っただけかな・・・。

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福田恒存    「私の幸福論」(ちくま文庫)

 評論家であり、翻訳家、演出家でも活躍した、知識人としての大家、福田が描いた「幸福論」。福田は保守派の評論家としても活躍、産経新聞社発行のオピニオン雑誌「正論」の発行にも加わっている。1994年に他界している。

 この「幸福論」福田は深い思索とともに情熱をこめて書いている。

これは何?と思ったのが、恋愛について語る章。

 恋愛は逃避によって生まれる。例えば、新しく新入社員として会社に入る。最初は満員電車の通勤や、休憩時間にコーヒーをすする、仕事もおもしろく、すべてが新鮮で刺激的。しかしこれも数か月もするとマンネリになる。すると、段々会社がいやになる。帰れば一人部屋か、マンネリ化した家庭。

 こんな暮らしから逃避したいという動機から恋愛が始まる。
すごい暴論。こんなことを書いてどう落とし前をつけるのだろうと思っていたら別の内容にすりかえられて、逃避から恋愛は始まるということはよくわからなかった。

 教養と知識は異なる。教養とはエリオットがいうところの文化。文化とは生き方を言う。
知識は教育や本から受け、それが教養の中に刷り込まれてゆく。

 だから、読書は教養を構築するのだから誠実に行わねばならない。

福田は読書方法について書く。

「本は距離をおいて読まねばなりません。早く読むことは自慢にはならない。それは、あまりにも著者の意のままになることか、あるいはあまりにも自己流に読むことか、どちらかです。どちらもいけない。本を読むことは、本と、またその著者と対話することです。本は、問うたり、答えたりしながら読まねばなりません。要するに、読書は精神上の力くらべであります。・・・・自分を主張しながら、行間に割り込んでいかねばなりません。それが知識に対して自分の居場所を打ちたてるということです。本はそういうふうに読んで、はじめて教養となりましょう。」

 こんな読み方に値する本は現在では殆ど無い。しかしこの福田の作品は正座して、真正面から向かい合って討論しながら読まねばならない本なのだろう。

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苅谷剛彦   「学校って何だろう」(ちくま文庫)

 「どうして勉強はするの?」から始まって、学校に対する疑問を社会学的に分析して学校の矛盾、役割を明らかにしてゆく作品。

 この本を読んでいると、学校の先生は大変な仕事を負わせれているのだと深く思う。

先生は教科指導の他に、校務分掌という仕事がある。生徒指導を担当したり、進路指導を担当したり、時間割を作ったり、試験のスケジュールをたてたり、図書の係、保健衛生の仕事、PTAへの対応、学校内の授業以外の仕事が先生には割り振られる。

 それに、学校通学域内の見廻り、生徒の服装、持ち物検査、受験を意識した教科の指導、生徒と交わり遊ぶこと、クラブ活動の指導。

 面白いことに調査によると、これらは先生の仕事であると思っているのは先生の半数以下であること。

 更に不祥事が起きると、先生の仕事は際限なく広がってゆく。
学校がりっぱな大人を育成するための場所だと社会が思っているからである。しかし子供の教育は家庭や地域も担っている。しかし今はその責務は学校だけに偏っている。
なにしろ、正しい雑巾やモップのかけかた 、ほうきの掃き方まで学校が指導するのだ。
こんなことをするのは日本の学校だけ。

 アメリカでは、クラブ活動には専任の人間があたるし、心のケアのために、専任のカウンセラーがいる。掃除は専門業者が行う。

 この本によると、先生、教師は日本人の130人に1人いるそうだ。これだけいれば、先生のなかには、生徒指導など授業以外の仕事を行なえない先生がいてもおかしくない。

 先生の本来の仕事は教科を教えること。他は、外部に委託すべきような気がする。
事実アメリカでは夏休みの6月から9月までは、先生に給料は支給されない。

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斎藤孝      「質問力」(ちくま文庫)

 話し上手の人は、ネタも面白いが、相手をうまく引き出す質問力に優れている。
その質問力を身につけるにはどうするか、その方法について書かれている作品。

 会社時代にコンサルタントがよく使う、座標軸論が頻繁に登場する。
縦軸と横軸を真ん中で交差させ、右上が優れた質問力を持つグループ。右下と左上は質問力はそこそこあるが、その方法に欠陥があるグループ。左下は全く話にならないグループ。それを色んな角度から座標軸を駆使して説明する。

 何だ、ハウトゥーものか。これはたまらん本だなあ。だいたい座標軸を頭に浮かべながら、右上に分類されるような質問なんてできるわけがない。

 ところが、この作品、後半になると、ハウトゥーから離れて、実際の質問力が優れている実例を紹介している。この部分は読みごたえがあった。ハウトゥーなどやめて、事例紹介を増やし、一冊にまとめてほしかった。

 その中で、以前読んで感動した対談の抜粋が紹介されていた。山田詠美の「メン アットワーク」。その中の、作家水上勉との対談。

 山田が、男の子と海岸のリゾートに遊びに行く。すると隣の部屋から旧式のタイプライターを打つ音がする。こんな海辺で、タイプライターの音が聴こえるなんて小説だなあと思う。

すると水上が言う。
「私個人の暦の話になりますが、タイプの音を聞くと、セックスが恋しくなるんですよ。」
「私は長く京都府庁に勤めていました。その時、昭和初期は、奈良女子大とかお茶の水をでた女性がタイプをうってました。上司の課長はタイプは打てないので、彼女たちを丁寧に扱っていました。うちの課にいたのは、ハセさんと言う美人で、私は少年のように憧れていました。」

山田が
「何だかエロティックですよねえ。タイプライターの音を聞くたびにしたくなるなんて、パブロフの犬みたい。」
答えて水上が
「何にでも個人の暦、記憶がまといついているものですよ。文芸というものは、そこを見逃さないんですよ。」

 山田詠美の海辺の話から、水上文学の本質が引き出されてくる。これが意識してなされているのならすごい。山田詠美の質問力には感服する。

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井野朋也  「新宿最後の小さなお店」(ちくま文庫)

 新宿の一等地ルミネの地下一階で個人商店カフェとして生き残り成長している小さなお店「ベルク」。大手大チェーン店がひしめきあう場所で、なぜベルクは生き残っていけるのかを、店主の井野さんが綴った作品。

 書評の前に、ネットで調べてみた。驚いた、個人商店で、確かにセルフサービススタイルではあるが、コーヒー215円、カレー504円など価格が安い。よくこの価格で新宿で喫茶店ができるものだ。ベルクの最大の特徴は朝から、終日アルコールを提供していること。

 この点が、他店と異なる。
それ以外、この作品を読んでも、目を見張る特徴は無かった。
ただ、井野さんも含め、働く人々全員が店を盛り上げ一体になって、情熱をこめて業務にあたっていることはこの本でよくわかった。

 そんな中で、面白いと思った特徴は以下あった。
接客する際、できるかぎり客がYESと答えられるように伺う。

 「セットのお飲み物はコーヒーでよろしいですか。」「アイスコーヒーになりますと、50円増しになりますがよろしいですか。」「三分ほどお時間をいただけますか。」

 お伺いする場合の悪い例。
「セットのお飲み物は何にしますか」「アイスコーヒーになりますと50円増しになりますが・・・」「3分ほど時間がかかりますが、よろしいでしょうか。」

 また野菜など材料は手であらう。ビニール手袋をはめない。材料が冷たい、温かい、硬い、柔らかいは直接手でふれないとわからない。料理は、人と人の間に食材があり、人の手にかかって、口の中に届けられるもの。人の手を拒絶した料理で、どうして食事ができるものか。井野は熱く語る。もちろん手の消毒は細心の注意をして行っている。

  こんな多くの質の高く、行き届いた業務が積み重なって今の「ベルク」ができあがっていることがよくわかった。

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福本武久   「新島襄の青春」(ちくま文庫)

 同志社大学を開校した新島襄の青春時代を描いた作品。

 新島襄は1843年1月14日に生まれている。祖父である、新島弁治が、孫が4人女の子だったところに、初めての男の子が生まれたことに大変喜んで、まだ正月松の内でしめ縄がとりつけられていて縁起がいいということで、名前七五三太(これでしめ太と読む)と名付ける。

 幼少のころから勉学にいそしむ。父民治が、安中藩の下級家臣で、藩主屋敷に毎日出勤して祐筆係(文書を筆記したり、手紙を清書する係り)をしていて、当然七五三太もその仕事を引き継いだが、しょっちゅうさぼっては、勉学塾に通い、藩主から叱責を受けるが、その後もたびたびさぼり勉強を続ける。

 そこで友人からアメリカの政治制度を知り、宣教師から聖書をもらい、それを読んで福音に興味を持ち、アメリカに行きたいと強く願うようになった。

 当時は、アメリカの要求で、下田と箱館が開港されていた。
そこで、箱館に行けば、アメリカに行かれるかもしれないということで、箱館に向かう。

 そして、箱館で密航のチャンスを伺う。そこで、上海に向かうベルリン号にもぐりこみ上海まで行く。上海でワイルド・ローヴァー号に乗り換え、アメリカに向かう。箱館をでて、一年半をかけて、ボストンに到着。

 それにしても、勉強と宗教の力は強い。当時密航がばれると、当人は死刑、家族にも刑罰の累は及ぶ。まさに決死覚悟、家族破滅覚悟の決行である。

 ボストンではワイルド・ローヴァー号の船主A・ハーディー夫妻の全面的援助でフィリップス・アカデミーに入学する。当初、七五三太が日本人のため、ハーディーの妻は七五三太の援助に難色を示したが、七五三太の熱心な手紙に心を打たれ、援助を受け入れた。

 その後七五三太は教会で洗礼を受ける。この時洗礼名がハーディー夫妻からジョーと命名され、そこから七五三太は新島襄と名前を変える。

 そしてアーマスト大学に入学。日本人初のアメリカ留学生、卒業生となる。このアーマスト大学でクラーク博士と知り合い、その縁でクラーク博士は北海道大学に行くことになる。

 新島襄のアーマスト時代、岩倉具視使節団がアメリカにやってくる。この使節団について、新島襄はアメリカ各地をまわり、その後使節団についてヨーロッパに行き、通訳としてヨーロッパ各国を回る。使節団の団員木戸孝允より明治政府の一員になるよう勧誘されるが、断り、ヨーロッパで使節団と別れ、新島襄はボストンへ帰る。

 そしてアーマスト大学を卒業。

 日本帰国前、教会の総会で演説し、「日本で伝道と、キリスト教を教える学校を創ると言う。アメリカはすごい。全額かどうかしらないが、多くの寄付金がそれにより集まる。

 日本に帰国し、その意志を押し通して同志社大学を設立する。
江戸幕府が滅ぼされ、明治維新に変わったとき、アメリカに居住していた日本人がいたことに驚く。

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池波正太郎   「剣の天地」(下)(新潮文庫)

 かの柳生一族総帥が剣の師と仰いだ、剣聖、上泉伊勢守の人生を物語にした長編小説。

 解説で佐藤隆介が言っているが、この作品を読むと現代日本で最も必要な教育が欠落しているとしみじみ感じてしまう。

 この作品で、明治末から大正、昭和まで活躍した、直心影流免許皆伝の山田次郎吉の言葉が紹介されている。

 「剣道は、外形の技術と内面の精神に別れ、この二つが混然と溶け合うところに本義がある。内面的成熟を極めぬと、剣道は魂のない木像のような死物となってしまう。
 剣術は、まず、わがままな心を捨て、虚明な心を養うことを持って、不動の目的とする。
不動心というのは、いかなる狂乱怒涛が身にせまって来ようとも、我は大磐石のごとく動揺しない、このことである。
 剣道は社会、日常の百般において存在するものであり、それでなくては、この道をきわめたことにはならない。
 剣は太刀・・・・すなわち断つ、という言葉にあてた文字であって、これはすなわち善悪を裁断することである。
 世に、十悪という。すなわち我慢、我心、貪欲、瞋恚、危殆、嫌疑、迷惑、侮慢などを言い、この悪心を切断すれば、人間本来の清明心に帰するものである。」

 実利としてPCや英語を学ぶこともいいけれど、やはりその前に一本芯の通った人間を育てるべきだと思う。それには剣道はうってつけ。剣道の精神の上に、各実利教科はある。

 こんなことを言うと、戦時中に回帰だとか、右翼だと言われそうだけど、やはり、有用な人材を創るには、剣道の精神が必要と池波は主張する。

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