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2020年08月 | ARCHIVE-SELECT | 2020年10月

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宮下奈都     「つぼみ」(光文社文庫)

 悩み、屈託を抱える人物がたどり着く境地を物語にした10編の小説集。

主人公の晴子は、普通の高校、大学をでて、薬の卸問屋で地味な事務員として働いている。
同じように大学を卒業して、さっそうとマスコミや外資企業で活躍している人たちがまぶしく見える。しかし、近所や親せきの人たちが「いい会社に就職できてよかったね」とか離婚して女手ひとりで育ててくれた母親が安心したと言ってくれて、そのまま地味な会社で働き続けている。

 しかし、弟の晴彦は、頭が悪いわけではないのだが、一本芯がなくいつもふらふら揺れ動いている。進学校である高校を中退する。そして入った会社もすぐやめ、高卒認定試験を受けるといってみたり、やっぱり働くといってみたりして、自分の道が定まらない。

 その晴彦がコンビニのアルバイトを決めてきたと言う。
晴子とつきあっている祐介が、それは素晴らしい。就職祝いをしようといいしてあげる。
祐介が晴彦に言う。

「若いうちはいろいろやってみるといいよ。何事も続けてみないとわからない。千里の道も一歩より、って昔の人は言ったんだ。晴彦くんも、頑張って、今度は続けなよ。」
 コンビニのアルバイトに決まったことは、お祝いするようなことでもないし、夢のある仕事でもない。とても訓示をたれるような職場ではない。

 案の定、晴彦はアルバイトをやめて、また家でぶらぶらするようになる。

  そんな晴彦が、変なことを言い出した。自分にはとんでもない才能がある。

 それは、自分が店にゆくと、それまで客がいなかった店にその後たくさんのお客がやってくる。お客をひっぱってくる才能がある。だから自分を客として雇えば店は繁盛する。

 しかし残念なのだが、いくつか売り込みに行ってもだれも採用してくれない。姉の晴子に一緒に行ってほしいと。ばからしいとほっといたら、何と世の中には変わった店がある。晴彦を昼食付で雇う雑貨屋があった。

 晴子は晴彦のバイト初日、雑貨屋に行ってみる。晴彦は何もしないで、ふらふらしている。しかし客は誰もやってこない。

 夕方晴彦が帰ってくる。一日でクビになったと。晴子はどっと疲れがでて、大きなため息をつく。

 ちょっぴり意表をつく物語。大きな救いようのないため息が、本の中から立ち上がった。
「晴れた日に生まれたこども」という作品より。

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| 古本読書日記 | 06:17 | comments:0 | trackbacks(-) | TOP↑

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小川洋子   「口笛の上手な白雪姫」(幻冬舎文庫)

 表題作をはじめ、孤独と偏愛に生きる人々を描く8編の短編集。

表題作の「口笛の上手な白雪姫」の銭湯で働く不思議なおばさん。銭湯の壁に描かれているペンキ絵。どことも知れない森の風景。その絵にむかって、おばさんが口笛をふくと、木々が成長したり、動物の毛がしなやカになったり、鳥の産んだ卵が孵化したりする。小川ワールド全開で感動する。

 しかし何といっても、感動したのは、冒頭の作品「先回りローバ」で、家に黒電話が設置されたときの描写。

 「形容しがたい丸み、暗号めいたダイヤル、耳にフィットするよう計算された受話器のカーブ、可愛らしげにクルクルとカールするコード、そうした何もかもがどこかしら、おちゃめいていたが、僕は最初からそれが、ただものでないことにちゃんと気付いていた。
 とにかくその黒色は特別だった。一点の濁りもなく、濃密で、圧倒的で、気高くさえあった。・・・そこに一つの黒い塊があるだけで、階段裏の薄暗さが奥行きを増すようだった。」

また別の作品「かわいそうなこと」の補欠選手のライトは切ない。打っても、走っても、守ってもだめ。
いつも試合が決まったあと、最終回2アウトで守備交代でライトにつく。

守備位置に着くとき、誰からも声をかけられない。拍手も声援もない。誰も自分を見ていない。
そのときできるプレイはひたすらライトにボールが飛んでくるなと祈ること。

万が一ボールが飛んでくる。なすすべもなく見送り、それでも気休めに見当はずれな方向にグローブをさしだし、失笑と野次を浴びながら、一人皆に背を向けて遠くへ走りさる。

 右翼手はずっと重荷を背負って恐怖に耐えている。
かわいそうで、切ない右翼手。

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| 古本読書日記 | 06:37 | comments:0 | trackbacks(-) | TOP↑

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雫井脩介    「引き抜き屋1 鹿子小穂の冒険」(PHP文庫)

 社長というのは、企業規模が大きいほど、日本では、社員の中から選ばれ、社長となるのが一般的。しかし、現在は変化のとき、従来からのやりかたでは、国際競争に通用せず一気に振り落とされ、会社が傾くことも現実になってきた。会社から積みあがった人では、従来の方針や経験に引きずられ、思い切って会社の方向を変革するのは難しい。

 そこで必要となるのが、新しい方向に会社を導く新経営感覚の社長。

 これからは、企業の状況に応じて、社長を見つけたり、また、社長を専業とする人間を引き抜いたり、はめこんだりする社長売買市場が当たり前のように確立するだろう。

 ある方向にひっぱってゆく社長をつける。そして数年後その目的が達成する。すると次の変化に対応する社長を市場からみつけてつける。だから長期政権などはあまり存在できなくなる。

 この物語では、ある中堅文具メーカーが世の中IT化が進展して、文具の需要が細り、業績が急激に悪化してしまう。会社の業績が伸長していたとき、採用した人員がだぶつき、社員をリストラしないと業績回復ができないところまで追い込まれる。

 そこでヘッドハンター会社から、コストカッター、リストラ請負を得意とする社長をむかえる。

 巷間いわれているのは、希望退職を募ると、能力のある社員ほど、応募して会社を去ること。しかし、この作品によると、力があり人望のある人ほど、退職勧奨をする。

 そして、そんな人を退職させると、あんな素晴らしい人がやめさせられるのでは、自分など到底会社にはとどまれないと考える人が続出して、たくさんの従業員を簡単に退職させることができる。
 なるほどなあ、と思う。


 しかしリストラ請負社長は、それにより利益がでる会社に生まれ変えさせても、その成功体験に自信をもち、まだ削れるところがあるはずと思い更にリストラ依存症のごとくリストラを進めようとする。会社を反転上昇させる策も打ち出せないし、そんなことを頭に浮かべることもない。だから社長は、あるていど目的が達成したら変わらねばならない。

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| 古本読書日記 | 06:13 | comments:0 | trackbacks(-) | TOP↑

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雫井脩介    「犯人に告ぐ(2)(下) 闇の蜃気楼」(双葉文庫)

 世界では、幼児、子供の人さらいが、当たり前のように起きている。しかし日本では誘拐事件は殆ど成功することがない。その一番の理由は、身代金引き渡しがうまくいかず、結果誘拐された子供が最終的に遺体となって発見されるからである。

 この物語は、振り込め詐欺を生業としている天才詐欺師が誘拐計画をたて大金を奪取しようとする物語。

 資産家の子供が誘拐される。そんな場合、被害者家族にとっては、子供が何の被害がなく、家族にもどされることが最も大切なことである。そのために、身代金をとられることは構わない。

 ここが警察の目的と異なる。警察は何があっても犯人を捕まえること。

まずは手始めに、同族会社のボンクラ2代目社長を誘拐する。そしてボンクラ社長に1千万円の身代金を要求する。ボンクラ社長は個人的に管理している口座から部下にお金を用意させ、犯人に手渡し釈放される。

 警察は、警察の捜査に逃げきれないと悟った犯人が、身代金奪取を諦めて人質を解放したと公の場で嘘の説明する。

 淡野は、この警察の対応を試して、ある老舗菓子メーカー社長の息子を誘拐する。そして表向き身代金は3千万円にするが、実際は1億円。

 3千万円は社長が紙袋にいれて犯人の指定場所まで持ってゆく。同じ時間、社長の秘書が1億円の金塊を持って別の場所へ持ってゆく。

 もちろん3千万円の引き渡し場所には犯人は現れない。しかし、警察の捜査とは異なり密かに犯人と別取引をしたことがばれた時の会社の評判の悪化することを恐れた社長が犯人との密約をギリギリのところで警察に暴露。淡野の身代金奪取は失敗する。

 しかし淡野は失敗を見越して次の計画を用意していた。
この計画は、新米女性刑事の偶然の行動により発覚し失敗する。
警察と淡野の戦いに緊迫感があり、面白い。

「犯罪はアート」と豪語する淡野と警察をもっと読みたくなる。

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| 古本読書日記 | 06:36 | comments:0 | trackbacks(-) | TOP↑

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雫井脩介      「犯人に告ぐ(2)(上) 闇の蜃気楼」(双葉文庫)

 住んでいる地方都市の同報無線で、頻繁に振り込め詐欺の実例をあげて、詐欺にひっかからないようにと注意が流される。

 別に待っているわけではないが、これだけ振り込み詐欺の電話がはびこっている状態なのに、我が家にはまったく詐欺の電話がかかってこない。

 この作品を読むと、なるほどかかってくることはめったにないのだということがわかる。だいたい、どこに電話するかというのは、流出した個人情報リストによって決められる。このリスト、単に家族構成や仕事についているか、いないかなど一般情報だけが書かれているわけではない。対象者の性格、理性的な人間か、感情的にオロオロする人間か、過去に詐欺にひっかかり、騙されやすい人間かどうか詐欺のために有用かそうでない人間かどうかまでの情報が載っているのだ。

 そしてこれが我が家に電話がかかってこない理由なのだが、お金や大きな資産を有しているかまでリストに載っている。

 その中から、誰をひっかけるか、掛け子の元締めがリストから更に厳選して決める。
そうだよなあ、無差別に電話をかけていたら、効率が悪くてどうしようもないのだ。

 掛け子もオレオレと叫ぶ人だけではなく、被害者、会社の上司、そして最後は弁護士を登場させ今相手と交渉していると合わせ技でせめあげる。日本人は弁護士に信頼感を持っていて、それで信頼してしまう。そして、掛け子はその役割により役者を分けている。

 詐欺集団がなかなかつかまらないのは、詐欺が成功した直後に解散するから。そして、その組織をあやつる金主しか、誰がどの役割をしているか、わからないところ。だから掛け子受け子を現場で捕まえても、決して組織全体がわからないようになっている。

 物語で詐欺集団を組織している淡野がいう。「犯罪というのはある種のアートでありクリエイティブな領域にはいるもの、振り込め詐欺は、この世界での自己実現を可能にするための基礎トレーニングだ」と。

 そして淡野は、奪取金額が少ない振り込め詐欺からアートの階段をあがり、次の誘拐計画に進む。

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| 古本読書日記 | 06:33 | comments:0 | trackbacks(-) | TOP↑

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藤枝梅安 6&7

書店に6巻だけなく、先に7巻を読みました。
順に読んだほうが、気分は盛り上がったのか、わかりませんが。

梅安影法師
「影法師」は梅安を仕掛けようとした男を指しています。
一度目は患者に化け、二度目は女装して。
「うまい仕掛けを思いついた」「梅安に使う前に、別の相手へ試してみようか」等々、
読者の期待をあおっておいて、女装とな。
もっと、特殊な道具を使ったり、スパイ活動したり、凝ったものかと思っていた。
プロの目を欺くのだから、凄腕なのかもしれないけれど。
十五郎の登場は、タイミングが良すぎる|д゚)

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梅安冬時雨
未完です。
色々な人が出てきて、これから話が収束していくのかと思うところで、ブチッと終わる。
前々巻から出ているおしまは、おもんに代わって存在感があるのだけれど、
もしも話が続いていたら、この巻で亡くなっていた気がする。

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もう一人の仕掛け人である彦次郎、武器が吹き矢で、
直接ブスッとやる梅安に比べてインパクトが薄く、あまり凄そうに思えない。
梅安は、十五郎を仕掛け人にしたくないと言っているけれど、
すっかり頼りにしているし、本人もこの世界にどっぷりつかっていると思う。

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巻末の対談で、
「ハーレクインのヒーローはどう思いますか?」
「なにそれ?」
それはそれ、これはこれ、ですね。どちらも「こんな男いねぇよ」ですが。
北原亞以子さんの、池波さんは文章が独特という解説は、よく分かります。

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額賀澪    「夏なんてもういらない」(中公文庫)

私の住む地区で、昨年古くなった神社の建て替えが行われた。募金という名目だったが強制的に十万円/軒払わされた。

 建設中にときどき犬の散歩の途中で状況を見た。宮大工風の人もいたが、人を卑下しているようで申し訳ないが、ニッカーポッカーの若い人が数人いて、ロックを大音響でかけ、建築をしていた。とても神が降臨してきてしばし宿るような神社ができるとは思われなかった。

 この物語は、南方のちいさな島、潮見島で12年に一度行われる秘祭 潮祭の調査に、この島出身で主人公深冬を含む大学高校一貫の地方文化史ゼミの一行が行く物語。

 潮祭は、神女という女性が務める。この神女の条件が厳しい。
対象は13歳から17歳くらいまでの女性で、生まれてから神女になるまで一度も島からでたことが無い(ちょっとした用事で本土に行くことも許されない)こと。

 この条件にあてはまる女性のいない年には潮祭は中止となる。しかし今年はあてはまる女性に13歳の汐谷柑奈がいた。柑奈は13歳になるまで神女になることを肝に銘じて厳しい条件を守り通した。

柑奈には姉があり芸名渚優美といって、東京で女優をしている。

この優美は同じ13歳のとき神女になることがいやで島を脱出している。それで優美は村の嫌われ者なのだが、潮祭にあわせて帰郷していた。村人だけでなく神女になる妹柑奈も優美を嫌っていた。

 祭りは3日間ある。その間神女柑奈は神社内にずっといなければならない。その場所は霊界とされ、祭りの間中、村人は近付くことはできない。

 物語は、優美が島に到着するまでの描写は面白いが、島に到着して以降、祭りも含めて描写が平板で、つまらなくなる。島や、秘祭が著者額賀さんにイメージできていないように思えた。

 ところが、突然これは素晴らしいと思える場面が登場した。

姉の優美が3日間神となって一人で過ごす柑奈のために冷やし中華をつくり、主人公深冬に神社内に届けさせる。村人も近付けない、なのに村人以外の人間が神女に接する。こんなことがばれたら村人から袋叩きにあう。

 深冬が冷やし中華と一緒にゲームを持ち込む。神女柑奈と深冬はゲームを興奮して楽しむ。そして世間話や愚痴を夜明けまで語りあう。

柑奈は、どこにいても一人の女の子。神様になんかなるわけないじゃん。祭りの神事と現実の落差の描写がすばらしい。


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| 古本読書日記 | 07:28 | comments:0 | trackbacks(-) | TOP↑

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中村航   「赤坂ひかるの愛と拳闘」(文春文庫)

 北海道札幌からプロのボクサーを輩出したいと念願する、主人公赤坂ヒカルと父親。

もちろん、北海道出身のプロボクサーはいただろうが、全員が東京にでて、そこにあるジムに通いプロボクサーになった選手ばかり。ひかるの念願は、札幌のジムからプロボクサーを出すこと。

 その念願に応えた高校生の畠山雅斗と日本で初めての女性トレーナー赤坂ひかるの奮闘物語。

 畠山は赤坂ひかるとともに、日本ライトフライ級チャンピオンになる。世界ランカーにもなり、世界チャンピオン戦への挑戦権を得るのだが、そのとき網膜剥離がみつかり、ボクシング選手を続けることを断念している。

 この物語はスポーツ物語としては異色だ。スポーツ物語は戦う前の心理描写や駆け引きを詳細に描き、実際の戦いも言葉の限りを尽くして、これでもかというくらいに内容をデフォルメし読者の感動をよびおこそうとする。一分で終わる戦いが数ページにわたり繰り広げられる。

 しかしこの作品では、戦いの場面もその前の苦しい練習や駆け引き戦略も淡々とあっさりしている。作者の中村航が理工系の出身だからなのか。

 うまいなと思ったのは、多くは赤坂ひかるの視点から描かれているのだが、同時に畠山の視点からも描いているところ。赤坂が感じたことと、畠山が思うことは違っている。一方的ではないところが物語に膨らみを持たしている。

 勝利する度に、興奮して嬉しさを爆発する、赤坂。全日本タイトルマッチでレフェリーがダウンをスリップとして判定し、畠山がタイトルをとりそこねる。赤坂の怒りと悔しさは頂点に達する。しかし畠山は、淡々としている。

 畠山は元々サッカー選手だったが、すごい選手がいることを目の当たりにしてサッカーを諦め、ボクシングに転向している。畠山はちょっとトビラを突き破れば、やり切ったことになるはずなのだが、いつもその手前でやめていた。
だからボクシングでは目の前の扉をやぶることを目標にしていた。

 前座の試合であっても、そこでやりきったと感じたらボクシングをやめてもいいと考えていた。だから、チャンピオンになることに関心は無かった。

 赤坂ひかるスポ根一点ばりの姿勢と畠山の思いの違いをくっきりと描いたところは本当にうまいと感心した。


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| 古本読書日記 | 07:24 | comments:0 | trackbacks(-) | TOP↑

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額賀澪    「屋上のウィンドノーツ」(文春文庫)

 例えば恩田陸の名作「蜜蜂と遠雷」という名作がある。この作品は、恩田さんがあるピアノコンクールに通いつめ生まれた作品だ。だから観客の立場から作品ができあがっている。演奏者の表情と立ち振る舞いから、演奏そのものを恩田さんの表現能力の極限まで発揮して迫真の作品になっている。

 それは感動ものなのだが、私には少し物足りなさが残る。視点を変えて、演奏者の立場から演奏にいたるまでの、行動、心の動きを描いてほしかった。そこは、何も拘束するものは無いから、恩田さんが思いのたけ妄想を膨らまし、自由に描くことができる。私は作品を読むとき、作者がどれだけ妄想をめぐらし、妄想が本筋から遊離していなくて、物語がどれほど豊かになったかを意識して読む。

 紹介した額賀さんの作品は高校のブラスバンドの色んな大会への挑戦物語である。

このような作品は、団員の人間関係の問題や、猛練習を克服して、ダメ楽団が最高の栄冠を勝ち取るか、途中で勝ち上がれず残念な結果になるが、高校生には未来があり、ブラスバンドの経験により未来にむかってあゆんでゆくという2つのステレオタイプの物語になる。

 額賀さんのこの作品は、ステレオタイプの物語にもうひとつの重要なテーマを差しはさんでいる。

 主人公の志音は、引っ込み思案で、誰とも交わろうとしない。それを心配した母親が瑠璃という子に志音と仲良くなって友達ができるように助けてやってほしいと幼稚園のとき頼む。それから瑠璃は志音の友達として、常に志音といるようになる。

 志音は有難いと思うが、例えば中学校のとき、昼ごはんはいつも5人で食べていたが、会話は瑠璃と志音、瑠璃と他の3人でなされるだけ。他の3人は、瑠璃が変わり者の志音といるのかと瑠璃を非難する。

 私たちは、一人で、誰とも交わらずに孤独に見える人間を、常に変わり者、気の毒と思うが、志音自身は少しもそんなことは思っていない。気にしていない。

 素晴らしいと思ったのは、市内高校が集まってブラスバンド研修が行われたとき、孤独の志音を気にして、色々瑠璃が気を遣う。すると志音が声をあげ「もう放っておいてよ」と大声で叫んで瑠璃から離れようとする。

 瑠璃は幼稚園から懸命に志音を支え、最大の友達として振る舞ってきた。志音は自分に寄りかかってここまでやってきたと思っていた。

 衝撃を受けた。そして驚くことにそれからは瑠璃が志音によりかかるようになる。
ステレオタイプのありきたりの物語を打ち破り見事な世界を額賀は読者に提示してみせた。

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額賀澪   「小説 空の青さを知る人よ」(角川文庫)

 今最も注目を浴びている若い女性作家額賀澪の本を何冊か購入して読んでみる。

 額賀は、書くことが大好きで、いつでも何かを書いていないと気が済まない作家ではないかと感じる。

 額賀の別の作品で書いていたが、作品を書くときには、担当編集者と何を書こうかと議論をして、小説のプロットを決めると言う。プロットさえ決まれば、そのプロットに従いながら、どんどん書けると。

 この作品も、角川得意のメディアミックスで売り込みをはかる作品。まずアニメで映画化されることが決まっていて脚本も出来上がっている。そこで、小説でも売り込もうとしてノベライズを角川が額賀に依頼する。

 額賀はアニメの内容が予め知っており、その流れに従ってひたすら小説にするのは得意だ。スラスラ仕上げたと思う。

 いつもなら、物語の簡単な筋を紹介して感想を述べるところなのだが、とてもこの作品ではできない。
 ただひたすら書くことが好きで好きでたまらないというだけで書いているだけ。とても読むことに耐えうる小説になっていない。
 これを本にして売る出版社の意図がわからない。

 主人公あおいが生霊である真之介と手をつなぎあって空を飛ぶところがクライマックスなのだが、アニメでは感動的場面を提供できると思えるが、額賀の描写は、平凡であり、面白いとあまり感じることはできなかった。

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豊崎由美 岡野宏文   「百年の誤読」(ちくま文庫)

 明治時代から現在までの著名な作家とその作品をとりあげ、対談形式で書評を展開した作品。明治時代、大正時代ではその作品が読まれたかどうかわからないまま名著と評価されている作品から、現在はベストセラーになった作品の書評、「羅生門」「城崎にて」から,「チーズはどこへ消えた?」「気配りのすすめ」など文学作品とは異なる作品まで書評する。

 都会暮らしの喧騒から逃れて、田舎暮らしをするがその暮らしの憂鬱さを描く佐藤春夫の「田園の憂鬱」。田舎暮らしの描写が実に不潔。

 「彼の単衣はへなへなにしとって体にまつわりつき、彼の足のうらは油汗のためにねちねちして坐っている時には、その汗と変な暖かさが彼の尻に伝ってきて、蚤はそこに集まってきた。」

 本当にいやだと思える田舎暮らし。読んでうんざりしてしまう。

私は若い頃ゴーストライターがいるということを知らなかった。だから山口百恵の「蒼い時」を読んだとき、山口百恵は大作家になれるのではと思った。単に煙草の火を消しただけなのに、

 「無風状態の空間に漂う白い煙の源を指先で押さえつけながら、母が言った」
こんな表現が満載。本当に山口百恵は天才だと思った。

 村上春樹の「ノルウェイの森」の次の表現に匹敵すると思った。
「僕とTVの間に横たわる茫漠とした空間をふたつに区切り、その区切られた空間をまたふたつに区切った。そして何度も何度もそれを続け、最後には手のひらにのるくらいの小さな空間を作りあげた。」

 「蒼い時」は村上春樹が書いたのではと一瞬頭をよぎった。

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板野博行    「眠れないほどおもしろい やばい文豪」(王様文庫)

 日本の文豪、大作家36人をとりあげ、彼らの生きざまを描写、さらにそれが背景となって、彼らの作品のどこに表現されているかを明らかにしている作品。

 著者の板野さんという人がどんな人なのかよくわからないが、36人の作家の作品や関連資料をよく読んでいて、そうだったのかという部分が多く感心した。

 この作品をガイドブックにしてまた文豪作品を読み直そうかと思うような作品だった。
それにしても、文豪、大作家は社会的破綻者、特に女性関係(男性関係)にルーズだったり、奇人変人だったり、死病に侵され苦しんでいたりする人たちのオンパレード。

 その中で、室生犀星だけがまともな人物。彼の紹介文を読んで、ああ常識人もいるんだとほっと一息ついてしまった。

 何年か前、金沢の室生犀星の記念館を見学に行ったことを思い出す。

犀星は加賀藩の足軽とその女中の間に私生児として生まれる。すぐ近くのお寺室生家に養子として出される。高等小学校を中退して働きにでるが、給料は殆ど養母にすいとられる苦しい生活を強いられた。

 北原白秋の詩集「邪宗門」に触発され、詩人になろうと決意し金沢と東京を往復する。
その中で萩原朔太郎と昵懇になり生涯親友として交友する。

 犀星は他の作家と違い、小学校教師浅川とみ子と結婚し、一生を添い遂げている。
犀星が最晩年に書いた絶筆の詩「老いたるえびのうた」が私は好きだ。

 けふはえびのように悲しい
 角やらひげやら、とげやら一杯生やしているが
 どれが悲しがっているのかわからない。

 ひげにたづねてみれば、おれではないという。
 尖ったとげに効いてみたら、わしでもないという。

 それでは一体誰が悲しがっているのか
 誰に聞いてみてもさっぱりわからない。

 生きてたたみを這うているえせえび一疋。
からだじうが悲しいのだ。

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原田マハ   「アノニム」(角川文庫)

 香港の17歳の高校3年生、張英才は自分を天才アーティストだと思っている。絵画とはイーゼルのキャンパスを固定して真正面から描く。そのキャンパスを床に置き、真上から刷毛で動きながら描く。こんな絵の描き方をする画家は世界で自分しかいない。これを発見した自分は天才だと思う。

 ところが、アノニムという聞いたことのない組織からメールでジャクソン・ボロックという画家の「ナンバーゼロ」という作品が送られてきて、彼がすでに自分が考え付いた方法でそれも圧倒的に自分の作品より素晴らしい作品を描いていることを知り衝撃を受ける。それもボロックはその画法を1950年代から採用していた。

 アノニムは、張にこの「ナンバーゼロ」を描いてみないか。そうすれば本物の「ナンバーゼロ」をかわりにあげようという。
実はアノニムというのは、有名な美術品を展覧会や個人宅から盗む窃盗組織。
香港でサザビーズのオークションが開かれ、そこに「ナンバーゼロ」が出品される。
これを盗んで、張の作品と入れかえようとしていたのだ。この「ナンバーゼロ」が2億3千万ドルでフランスの大富豪が競り落とす。これをトラックに即積み込み、途中張のアパートに立ち寄り、張の作品と入れ替え、」フランスに航空貨物で運ぶ。

 内容は単純だが、オークションの模様や、窃盗団の行動が詳細に描かれ面白い。

更に、張は関心がなかったが、アノニムにそそのかされ、香港の民主化運動で、参加者の前でスピーチをすることになる。

ジャクソン・ボロックは、新しい芸術を創造したいと考え、作品を造ったが、すでにその手法は天才ピカソが使っており落胆した。しかし、目の前にある壁の扉を開けようと繰り返し挑戦し、とうとう扉をあけ、キャンパスの上で動きそれを絵画にする手法をあみだした。

香港は今大きな壁の前に立たされている。そしてドアをあけようと皆もがいている。ドアは必ず開けられる。がんばろう。
 大きな拍手を浴びたスピーチになった。香港が今真逆な方向にむかっているのが悲しい。でもまた必ずドアは開けられる。

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池波正太郎 『梅安針供養』『梅安乱れ雲』

主人公がひいきにしている「おもん」、
しょっちゅう「少し太ったのではないか」と言われている。
もちもちしているんでしょうね。

IMG_9586.jpg

「梅安針供養」
記憶喪失の若侍を、梅安たちが保護するという話。
梅安ができるのはここまでなんでしょうが、
実母も異母兄も暗殺され、家来の間にも派閥があって、
記憶が完全に戻らないこの次期跡取りが大丈夫なのか。
これからはもう、スーパーマン(梅安)が邪魔者を消してくれない。
分かりやすく血なまぐさいです。

「梅安乱れ雲」
「針供養」の後書きを書いた人が、
『今度、お前をモデルにして書くぞ。若くてかっこいい殺し屋だぞ。
 かっこよく死なせてやるからな』
と言われたそうです。
その、かっこいい殺し屋が出てきます。
どちらの側にも立てず、どちらにも義理があり、身を亡ぼす。
鬼平の密偵にも通じるものがありますね。

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林郁    「家庭内離婚」(ちくま文庫)


 この作品は1985年の作品。少し今とは見える風景が異なる。「家庭内離婚」という言葉はこの作品により生まれた。

 この作品では、夫は家庭のことは一切せず、妻に押し付け、こんなはずでは無かったと妻は落胆し、夫と殆ど会話、関係を持たず虐げられたまま老年を迎える人生を描く。

 特に夫の親の介護をおしつけられたり、育児は妻の仕事と夫は頑固な信念を持ち、絶対協力しない。こんな中で妻は絶望する。

 夫は土日はゴルフや付き合いで家庭にはいない。妻が苦しんでいる間、外に女性を造り、帰宅時間も午前様。しかし妻は子供の世話、介護で離婚できない。

 今は女性の働く環境は当時より変わり、社会進出はどんどん拡大している。確かに子育ては妻に労力が偏るが、子供が小学校にあがれば、負荷は極端に減る。夫の親の介護など何故自分がせねばならないのか強烈に夫に文句を言う。

 女性は交友、趣味に積極的に取り組む。この作品集にもあるが、休日の昼間、妻はいなくて、夫が家にいたり、ウィークデイに夫が帰ってきても、妻は遊びで家にはいない。午前様で帰ってくる。

 こうなると、当然妻が恋に陥るケースが一般的になる。
ある日突然「好きな人ができたから離婚したい」と言われる。妻から三行半をつきつけられる離婚が当たり前になる。

 ちり、ごみのごとくにバタバタ捨てられる男ばかりになるのはもうすぐだ。

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古関裕而    「鐘より鳴り響け 古関裕而自伝」(集英社文庫)

 NHK連続テレビ小説でもドラマ化している戦前戦後を通じ日本を代表する作曲家古関裕而の自伝。

 ある人が古関を訪ねてきて、曲をくちずさむ。そして聞く。これは古関さんが作られた曲ですかと。古関は自分が作ったようにも思えるが記憶にないのでわからないと答える。
すると質問者が驚く。「自分の作った曲もわからないのですか」と。

 古関は戦争などがあり、スコアが散逸して、自分が作った曲もかなり忘れているためわからない。それもそのはず、正確にはわからないが生涯4000曲くらい作曲したらしいのだ。
 社歌とか校歌をおびただしい数作っている。

戦後「君の名は」をはじめとして、脚本家でもあり、演出家でもあった菊田一夫とコンビを組み、菊田のラジオドラマ、舞台の音楽を担当する。

 菊田は音楽に対し、理解不能の要求をしばしば出した。そしてそれが思い通りでないとよく大きな癇癪玉を破裂させた。
「西遊記」では「音もなく門がしまる音をだしてほしい」とか「右へ曲がってゆく音楽」「うまそうな匂いのする音楽」「くすぐったい音楽」など。

 これを古関をはじめ音楽スタッフは、菊田の思いを想像して懸命に音楽、音にする。
よく皆ついていったものだと感心する。

 「君の名は」は大ヒット、今でもそのすごさを表現して、「君の名は」が放送されると銭湯が空っぽになったと聞かされる。すごいことだとずっと感心していたが、これは作品を企画制作した松竹の宣伝部が流したデマであったとこの自伝で古関が明かしている。

 なんだあの有名なエピソードは嘘だったのかとショックを受けた。

戦後早々に作られた「長崎の鐘」短調で始まり最後に明るい希望溢れる長調への鮮やかな切り替え、東京オリンピックの「オリンピックマーチ」高校野球の歌「栄冠は君に輝く」は名曲だと思う。

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| 古本読書日記 | 06:10 | comments:0 | trackbacks(-) | TOP↑

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桜木柴乃    「砂上」(角川文庫)

 これはすごい小説だ。小説家と編集者の関係をテーマに描いた作品。しかも、中身は強烈な2者の葛藤がリアルに描かれる。こんな作品真面目に書いたら、作家は出版社から干される可能性がでてくる。とても恐ろしくて書き得るテーマではない。

 主人公柊令央の母ミオは20歳の時に令央を生む。父親はそのときカメラマンとして戦場へゆき、行方不明となっていた。一方、令央は15歳のとき妊娠する。男は逃げる。そのとき母ミオは令央に子供を産めと要求する。その子は母ミオの子として育てるからと。

 そして令央は女の子を浜松で産む。生まれた子は美利と名付けられ令央の妹として育てられる。
 もうこの内容だけでも、十分に小説になる題材だ。

令央はこの題材を小説にして、文学新人賞に2年間応募するが全くひっかかりもしない。同じ内容を月刊誌「女性文化」のエッセイ大賞にエッセイとして応募。大賞にはならなかったが、優秀賞に選ばれ、賞金は無いが、「女性文化」に掲載はされる。

 その令央の目の前に「女性文化」を出版している翔文館書店の編集者小川乙三が現れる。
そして、もっと主体的になり、この内容で300枚の小説に書き直してくれ、文体は3人称で3か月後を期限にして書き上てくれと要請される。

 令央は主体的を意識して300枚の小説を書き上げ乙三に送る。しかし乙三は全面的に最初から書き直せという。そして乙三は 本当の嘘」を書けという。

「本気で吐いた嘘は、案外化けるんです。嘘ということにして書かないといけない現実があります。大嘘をつくためには真実と細かな現実が必要なんです。書き手が傷つきもしない物語」が読まれたためしはありません。」

 そして以前お願いしたように3人称で書けと。一人称だと、書き手の思いだけで書かれ、中身が平板になり、つまらないものになる。3人称だと、思いが広がり、大嘘がつきやすくなり、物語の幅が広がると。

 この指摘に従い、令央は母のたどった道を新宿坂場から浜松までたどり、ゼロから作品を書き直す。乙三に送ると、全ページ真赤なペンがはいる。

 うんざりしたが、1ページずつ書き直して原稿を完成させる。そして、そこで本になることが決定される。

 編集者である乙三のきつすぎるストイックな姿勢、それにしがみついてゆく令央の姿がすさまじい。
 編集者と作家とはこんなに作品を造ることに情熱をささげるものだろうか。

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| 古本読書日記 | 06:37 | comments:0 | trackbacks(-) | TOP↑

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岡崎武志    「昭和三十年代の匂い」(ちくま文庫)

 岡崎は昭和32年生まれ。そんなに昭和30年代をありありと覚えているわけにはいかない。なつかしそうに書いているが、殆ど耳学問や誰かの書いた書物からの引用。全くリアルに迫ってこない。何とかノスタルジックな雰囲気をだそうとしているが、失敗している。こういう少しあざとい本を出版するのはまずいなあ。

 そのリアリティのなさが、巻末の岡田斗司夫との対談になると俄然リアリティがでてくる。

 岡田は父親が工場を経営していて、一般家庭より裕福だった。
テレビも町内では最初に買った。驚いたことに最初のころのテレビはチャンネル式でなく、チャンネルは押しボタン式で選ぶようになっていたという。しばらくするとつまみを回すチャンネル式になったという。

 駄菓子屋には、雑誌の付録だけが売られていた。紙を切り抜いて組み立てる付録。しかし、組み立て方法は本誌に書かれていて、買ってみても、決して組み立てることはできなかった。
貸本屋が雑誌をたくさん仕入れる。本体だけを古本屋に売り、付録は駄菓子屋に売っていたのだ。

 それからびっくりしたのは、京阪電車。朝夕の混雑時には、座席が天井に上がって、多くの人が乗車できるようにしていたそうだ。

 岡崎の書いた作品の中で印象に残ったのは、昭和30年代の話ではないけど、「戦争を知らない子供たち」のフォークデユオは杉田二郎、森下次郎の二人組だが、実は森下次郎の本名は森下悦伸。ジローズ加入のために改名させられた。少し驚いた。

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| 古本読書日記 | 06:35 | comments:0 | trackbacks(-) | TOP↑

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池波正太郎 『ないしょ ないしょ』

「雲ながれゆく」や「夜明けの星」と同じく、女性主人公の話。

基本的に、主人公の知りえたことしか書かれていない。
だから、何やら過去にありそうな人物が、主人公に何も言わずに死ぬと、
読者にもわからないままです。

IMG_9563.jpg

これまた、「襲った男を憎めない」というパターン。
最初は憎んでいて、男へ出す汁ものにネズミの糞なんかいれちゃうんですが、
男が死んだ後で、「あの人があんな風に荒れたのは、原因があった」と知る。
元凶というか、もっと大きな悪の存在を知って、
加害者だった男を被害者と認識したらもう、情というか母性というか、
憎めなくなっちゃうんですな(;'∀')
最期には、優しい夫のある身ながら、「もうすぐそちらに行きますよ」と、
夢の中でその暴行男に声をかけている。

時代ものだから、ね。
いや、現代でも、「あの人は私がいなきゃだめだから」と暴力的なパートナーに
添い続ける人はいるか。
でも、美談じゃないですね。

| 日記 | 00:47 | comments:0 | trackbacks(-) | TOP↑

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仕掛人・藤枝梅安(再読)

ブログに書いた覚えはなかったけれど、ちゃんと書いてありました。
3年前なので、内容はほとんど覚えていませんでした。

>3巻で梅安が、「女を仕掛けたのは一人だけ。実の妹だ」と言っています。
これは、仕掛人(暗殺者)の道に足を踏み入れたばかりの知人に、
「今なら引き返せる。女を仕掛けたら、もう戻れない」
などと諭している中でのセリフでした。
自分の経験を誇張して、相手を躊躇させようという考えかもしれない。

IMG_0691.jpg

印象に残るエピソードは、一回目と同じですね。
「蔓(仲介人)を信頼できなければ、仕事は受けられない」
「○○の持ってくる仕事に間違いはない。必ず、生かしておいてはならない人間だ」
と説明が入るんですが、仲介人が騙されていたり、私利私欲で動いていたり、
危なっかしいこともある。

あと、雑誌に連載された連作娯楽小説(byウィキペディア)なだけあって、
毎回サービスのように濡れ場が入ったり、人物のおさらいをしたり。

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長編も興味あるのですが、鬼平や剣客商売ほど人気が無いのか、
近所の本屋にはありませんでした。残念(*´Д`)

| 日記 | 00:28 | comments:0 | trackbacks(-) | TOP↑

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鈴木日出夫   「百人一首」(ちくま文庫)

 「百人一首」は、百人の歌人について、それぞれ一首ずつを選んだ秀歌集である。その中でも、特に有名なのが歌人藤原定家が京都小倉山の山荘で平安時代から鎌倉時代初期の作品秀歌を集めた「小倉百人一首」である。かるたにもなっているので、一般でも馴染深い。

 この作品では、その選ばれた秀歌のすべてについて歌の意味とそのすばらしさを解説している。

 その中で最も有名な小野小町の歌。
「花の色は うつりにけりな いたずらに わが身世にふる ながめせしまに」
この歌の意味。

 「桜の花はすっかり色あせてしまった。むなしく春の長雨が降り続いていた間に。そしてむなしく私が世に生きていることの物思いをしていた間に。」

 びっくりした。この歌からどうして長雨がでてくるのだ。おかしいと思ってしまう。
解説によると「降るー経る」「眺めー長雨」と2つの掛詞がかかっている。自然の景を述べる文脈と、心情を述べる文脈が二筋重なりあっているように構成されている。

 今年の桜は長雨のために、色あせてしまい、美しさを見せずに終わってしまった。そのことがそのまま、女の盛りをむなしく過ごして、やがて老いさらばえるしかないわが身の悲しみを歌っている。薄幸な人生を歩まざるをえないことを嘆いているのである。

 すごい。この歌の内容はそんなに深い?
 少し小野小町が詠んだときの思いを、後年の評者たちが深読み過ぎる解釈をしているのではと思ってしまう。

こんな深い解説が百首全首になされている。
 歌の世界を見直した。目からうろこの一冊だった。

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| 古本読書日記 | 06:15 | comments:0 | trackbacks(-) | TOP↑

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篠田博之    「ドキュメント死刑囚」(ちくま文庫)

 月刊誌「創」の編集長として関わった死刑囚たちを描き、極刑というのは本当に「死刑」なのかを問う作品。

 「幼女連続殺害事件」の宮崎勤、「奈良女児殺害事件」の小林薫、「付属池田小事件」の宅間守など5人の死刑囚を扱う。

 永井均という哲学者の書いた「子どものための哲学対話」という本がある。その本にはヘネトレという猫がでてくる。

 学校でいじめにあう。学校という枠にはまらなければ、学校にゆくことをやめればいい。家族とうまくいかなければ、ひきこもりになり家族から外にでればいい。しかしそうしても社会という枠にはめ込まれている。この枠にはまることがいやになればもう行く場所は無い。そうなれば死ぬしかない。

 上記3つの事件の凶悪犯は行き場のなくなった人間。死ぬしかない。通常そうなると自殺するのが普通。だからいじめにあって世をはかなみ自殺する子供があとを絶たない。
 しかし、凶悪犯の3人は、自殺はできないで、殺人を犯し、社会に死刑にしてもらい国により殺してもらうことを撰ぶ。
 社会はそんな人間がいることが想像できないから、精神鑑定したり、おおくの学者が殺人の動機、背景をつきつめようとする。

 一貫して犯人は死刑を望み、判決が確定すれば即死刑の実行を望む。法務大臣あてに「刑の執行の早い実行」を願う手紙を書いたりしている。

 この思いには驚愕する。たびたび無差別殺人事件が発生する。その背景には国に殺してもらうために引き起こしている犯人の思いがあるとは。

 こんな人間を死刑を廃止して、更生させる手立てなどあるのだろうかと暗澹たる気持ちになる。

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篠田節子   「竜と流木」(講談社文庫)

 どんな種類の小説でも、見事に描いてみせる篠田の長編SFホラー小説。

主人公は日米ハーフのジョージという青年。一年の半年は東京で暮らし、残り半年をミクロネシア群島の小さな島ミクロ・タタで暮らす。ミクロ・タタには淡水湖があり、そこにカワウソに似ている両生類のウアブという15CMほどの動物が生息している。このウアブは愛くるしく、ジョージは魅せられる。

 ところがミクロ・タタのインフラ開発で淡水湖が消えることになる。隣の外国人富裕層むけの大リゾート施設のあるメガロタタ、その施設にある人造淡水湖にウアブを移すことになる。

 しかし移したウアブが大量に死に、更に施設の客が得体の知らない生物に噛まれ瀕死の重傷を負う事件が次々発生する。しかも、同じような事件がフィリピンや沖縄でも発生する事態となる。

 ウアブというのは、成虫になる前に幼虫のまま生涯を終える生物。例えば蛙がおたまじゃくしのままで生涯を終えるような生物。だからその姿行動が愛らしい生物となる。

 ところがこのウアブが環境の変化で成虫になって生きるということが起きる。この成虫になったウアブが共謀な生物になり、人間に噛みつき猛毒を吐き出す。

 それによりリゾートの人間を恐怖に陥れる。

  環境の変化。実はリゾート内にはたちの悪い肉食アリがいて、しばしば人間に被害を与えていた。この肉食アリを年2回薬を散布し駆除をしていた。この薬がウアブには天敵だった。

 淡水に棲めなくなったウアブが陸にあがり成虫に変異したのである。
淡水湖に住んでいたときには外へ排卵して、それに雄が精子を発射し、子ができていたのが、陸に上がると、雄と雌は交尾することにより、子供は雌のお腹にできるようになる。

 この雌が海にたまったプラゴミに乗り、遠くまで流される。流れる間に成虫の雌は亡くなることもあるが、お腹の中の子が生き延びて、流れ着いた新しい土地で狂暴な生物となって人間がかって経験してことない猛毒で苦しめることになる。

 こんな恐怖がドキュメンタリー風のタッチで描かれる。コロナの後は、こんな恐怖が世界を襲うのではないかと思わせる物語だった。

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Gガルシア・マルケス   「エレンディラ」(ちくま文庫)

 Gガルシア・マルケスはノーベル文学賞を受賞しているコロンビアの作家。

ガルシアカルケスの作品は、この作品集もそうだが、天使や大男、大きな蜘蛛が登場して死人がでるのだが、作品は乾いていて、じめじめした悲惨さは全くない。そして、不思議なのだが、我々には怪物などありえないと思っているが、アマゾンの奥地には実在しているのではと思わせるリアリティがある。

この本には、6つの短編、1つの中編「エレンディラ」が収録されている。

 エレンディラは14歳の女の子。お祖母さんと2人暮らし。お祖母さんはエレンディラを召使のようにこきつかう。ある日、疲れ切って燭台の火を消し忘れ、それが倒れて家が全焼する。

 お祖母さんはすべてを体を売って取り戻せと命令してそれは8年はかかるという。お祖母さんはテントを背負って、その中でエレンディラに男をとらせる。そのテントは人気がでて男の長い行列ができる。男の客が少なくなるとまたテントを背負って違う町にゆく。

 途中で、未成年の女性が体を売るのは法律で禁止されているとエレンディラは保護され、修道院に匿われるが、そこを飛び出してお祖母ちゃんのところに帰り、また体を売る生活にはいる。

 その放浪の途中でウリセスという少年に出会う。ウリセスは「君のためなら何でもする。」
と言う。エレンディラは「お祖母ちゃんを殺して」と言う。

 ウリセスは毒物や爆発物を使ってお祖母さんを殺そうとするが悉く失敗する。
「あんたはお祖母ちゃんを殺せないのね」と非難する。しかし、ウリセスは包丁でお祖母さんを刺し殺す。

 その瞬間、エレンディラは駆けだす。ウリセスは追いかけられない。
エレンディラの過去なんて誰も知らない。エレンディラはまだ青春時代にはいいたばかりだ。解き放たれて自由に向かって走る。

 話は全く悲惨な話だ。しかしエレンディラは無垢で全く悲しさを感じさせない。不謹慎かもしれないが、どことなくアルプスの少女ハイジを彷彿とさせる。

 知らぬ間にガルシア・マルケスの魔術に読者は取り込まれてしまう。

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円より子   「再婚時代」(ちくま文庫)

 私の子供時代は、家庭での平均子供人数は4人以上。それで平均寿命はほぼ65歳。それが今や85歳。人生百年と言われる時代。私たちの両親は子供を5人ちかく育て一人前にして、残り寿命は10年ほど。しかし今は一人か二人の子供を育て上げ、その後30年以上も人生を残している。もう一度新しいパートナーとの結婚ありかなと思う。

 人生二度結婚が当たり前で、社会もそれを当然と認識する時代になってくるのではと思ったりする。だから二度目の結婚は、こそこそ式をあげるのではなく、一回目より豪華で派手な披露宴が行われるのがいい。

 この作品を読んでいると、女性は再婚するためには、男性と対等な家庭であり、何よりも女性に愛情をもって接してくれる男性を求めていることがわかる。

 しかし男性は救いようがない。
少し年齢が高い人は、自分の老後の面倒をみてほしい。つまり介護を第一に求めている。
ある49歳の男性。

 離婚して8年間、男として筋を通し、正義を貫き、2人の娘を育てた。仕事、炊事、洗濯、学校の面談、とにかく多忙だった。遠足の弁当、林間学校の支度、運動会、修学旅行、すべてが終わり、あとは卒業式だけ。
ここまでやった俺は偉い。こんな素晴らしい男に、新しい伴侶がやってこないはずがない。

 あーあ、これがバカ男の典型。もうすこしすると、自分には誰も伴侶が来ないことを知る。
そのとき大声で叫ぶだろう。世の中の女は男をみる目がない。社会が悪いと。

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| 古本読書日記 | 05:44 | comments:0 | trackbacks(-) | TOP↑

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なぎら健壱    「下町小僧」(ちくま文庫)

 なぎら健壱は私と一歳違い。生まれが東京と田舎の私とでは見るもの、経験は少し違うが、同じ空気を吸って育ってきたので、この本は昭和30年代、40年代の描写がなつかしく、郷愁をそそる。記憶力によるものなのか、調査を綿密にしたのか、当時が余すところなく描写されており、なぎらの昭和の時代を残したいという情熱がこもった作品になっている。

 今は、料理の味の決め手としてふんだんに使われているチーズ。家で初めて食べた時すえたような匂いと腐ったような味に驚き、腹を壊すと大騒ぎして捨てたことをこの作品を読んで思い出す。

 昭和34年白土三平の「忍者武芸超」横山光輝の「伊賀の影丸」で忍者遊びが流行した。特に「忍者武芸超」では色んな技を白土が詳しく説明するので、その説明に従い、忍者のまねをしようとした。すべて漫画のようにはいかなかったが。

 小さな穴を掘り、そこに布をかぶってかくれたつもりになって、隠れた子を探す鬼ごっこをよくした。かぶった布が、ごそごそ動くものだから、隠れ場所がすぐにわかる。しかし知らないふりをして、その布を踏みつけてみんなでさがしまくった。少したつと、布の下の忍者が耐えられなくて顔をだす。

 みんなで「えー、そんな所に隠れてたの。全然わからなかったよ。」と言う。忍者が「本当にわからなかったの。」目に涙をいっぱい浮かべて得意そうに言った。

 なぎらが小学校の頃、月光仮面がブームになり、誰も彼もが月光仮面に扮し遊んだと描く。
しかし、私の田舎では「赤胴鈴之助」だった。月光仮面がする独特の形をしたメガネが田舎では手に入らず扮装ができなかった。

 赤胴鈴之助は昭和33年福井福田英一の漫画で「少年画報」に登場した。福井英一は天才漫画家で、手塚治のライバルだった。福井の「イガグリくん」が登場したとき、手塚が「負けた」と語ったことは有名。ところが福井が赤胴鈴之助を発表した直後に急死。2回目からそれを武内つなよしが継いだ。

 赤胴鈴之助には「真空切り」なる必殺技があり、ライバル竜巻雷之進のイナズマ切りとの対決にはいつも手に汗をにぎった。
 映画で赤胴鈴之助が真空切りをすると画面全体が紫色に変わり風が吹きあがった。

テレビでも放映され、子役で有名になる前の吉永小百合、五月みどりがでていた。
 こんなことをなぎらのこの本から教わった。少し幸せ気分になった。

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外山滋比古   「思考の整理学」(ちくま文庫)

 2008年東大・京大の生協で売上1位になったことで有名となった作品。
先ごろ外山が亡くなり、名著としてまた脚光を浴びている作品。

日本の教育はグライダー型の人間を育てるための教育、これを変革して飛行機型人間を生み出す教育にせねばならないと力説する。

 グライダーの練習に、エンジンのついた飛行機が混ざっていてはいけない。ひっぱられるままに、どこまでも従順についてゆくことが求められる。勝手に飛び上がるのは規律違反。
こんな人間は排除せねばならない。ひたすら、先生の教えることを記憶し受け入れる教育。
知識詰め込み型が日本的教育。

 これに対して、自分の力で空を飛ぶ飛行機を造ってみようとする人間を育てるのが飛行機型教育。個人の能力を発揮させるための教育である。

 この考えは、耳にすると一瞬その通りと思う。

しかし、ゆっくり歴史を振り返りながら考えなおすと、世界を変革するような発明を行う人は極めてまれ。殆どの人間は、知識を詰め込まれながら、社会へでてゆく人間である。何か新しいことを発明したとしても、すでに解明済の内容が殆ど。つまり変革者というのは何百万人に一人いるかどうかの確率。

 だから教育は多く知識を持ち、常識的な人間を作り上げることが社会にとっては重要なのである。

 この作品を書いている外山にしても、社会を一変するような発明を創造しているわけでは無いし、また教育者として創造的人間を造っているわけでない。

 しかし、創造的人間を発見し、その人に見合った教育はせねばならない。その発見は若年になればなるほど難しい。創造的人間を育成する教育は大学が受け持つべきだと思う。ノーベル賞受賞の中山教授が作られるのは大学である。
 今のノーベル賞受賞は一人では成しえない。そのバックに多くの従順な人たちがいることによって実現される。

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| 古本読書日記 | 06:32 | comments:0 | trackbacks(-) | TOP↑

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養老孟司   「猫も老人も、役立たずでけっこう」

「なんかこの本、読んだことあるような気が。
 まぁ、エッセイだし。先が読めて困るようなものでもないし」
と思いながら読了。

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「六十過ぎたらどこかしら悪いんだから、病院なんて行かなくて結構」
これはまぁ、そうでしょう。
壁に便を塗る老人も、床にお尻引きずる猫も、けっこう……とは言えない。
頭がしっかりしている老人や、可愛げのある老人なら、
猫と同列で「けっこう」なのかもしれない。

「生きているだけで迷惑」「私は猫と同じで役立たず」と言ったら、
「いえいえ、そんなことおっしゃらずに」と言ってくれる人が
大勢いるからこそ書ける本でしょうね。
ボケてきたら、「先生の衰えた姿は皆さん見たくないでしょうから」と、
尊厳死させてもらえそう。

この本読んだ後で、シングル介護や遠距離介護の記事なんか読むと、
「筆者みたいな老後が送れるのは一握り」と思うわけだ。

| 日記 | 00:45 | comments:0 | trackbacks(-) | TOP↑

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矢川澄子   「兎とよばれた女」(ちくま文庫)

 主人公の兎は、世界の隅の小さな島に、神様と一緒に暮らしている。しかし神様は見えない。兎はどんな理不尽なことが起ころうが、辛い状況になろうが、すべては神様が起こしたことで正しく、神様に何があっても従順につきしたがうし、どうして神様がこんなことをするのか、懸命に考え、納得できる答えを導き出す。

 しかし、不思議だ。現実には神様はいないのだ。神様は兎が作り上げた偶像。何を神様が行うかも兎が創造したもの。

 神様は、著者が愛し焦がれていた男のことだろう。そして兎は作者自身だろう。

愛する男は神様なのだから非は無い。だから付き従うのは当然。しかし理屈は欲しい。そうでなければ苦しくてやりきれない。何だか、昔の男尊女卑の社会のように思える。

 作者矢川は「不思議の国のアリス」などを翻訳した有名な翻訳家であるし、詩人であり小説家でもある。そして、作家澁澤龍彦が最初の恋人で結婚もしている。
この作品での神は澁澤龍彦と思われる。

 澁澤は、矢川に4度も堕胎をさせていて、矢川は子供を産めない体になってしまった。だから、自分を何も抵抗できない兎として心のバランスを保たねばならなかった。

 この作品の半ばに突然「竹取物語」のパロディが展開される。

登場するかぐや姫は、男女の性交によりできた子供ではない。竹から生まれてきた子供である。おじいさんとおばあさんは姫を懸命に育てる。おばあさんは自分の母乳を姫に与える。しかし、かぐや姫はこの母乳が大嫌いで飲まない。でも心配はいらない。育児期間は一年にも満たずかぐや姫は大人になる。ということはかぐや姫には子供時代は存在しない。子どもの頃覚える社会規範や道徳もなく、まったく友達もいない。

 ただひたすら何もなく、あるのはこの世のものとは思えない美貌。高貴な男たち帝までもがかぐや姫に言い寄る。しかし、子供、思春期を経ず一気に大人の女性となったかぐや姫はすべての男性をはねつける。このなかにはあの光源氏も含まれている。

 著書矢川はかぐや姫になりたかった。そうすれば澁澤龍彦はただ言い寄るだけの男と達観できただろう。

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恩田陸    「七月に流れる花/八月は冷たい城」(講談社文庫)

 2016年に出版された本だが、今の新型コロナウィルスの襲来を予感させる内容だ。

夏流城にある林間学校に夏休み、少年少女が招待される。「七月に流れる花」は少女たちの視点から描き、「八月は冷たい夜」は少年の視点から描く、2編が収められている。

 新型ウィルスにより「緑色感冒」が流行っていた。通常高熱が続き、感冒に侵されていることが検査により認識されるが、身体全体が緑色に変化する前だったら重症化することは無いが、緑色に変化してしまうと、感染力が強大になると同時に、当人も助かる見込みは殆どなくなる。

 この夏流城には、「みどりおとこ」という緑色の変化した男が案内してくれるが、この「みどりおとこ」はウィルスに対する免疫を持った希有の存在。

 夏流城の地下にはシェルターがあり、緑色感冒にかかり体が緑色になってしまった人が隔離されている。
 林間学校に集められた少年少女は、家族の誰かが感染し隔離されていてもうすぐ死んでしまう状態の少年少女が招待されている。

 鐘が3つ鳴ると、地蔵がある場所に集まる。地蔵の後ろにある鏡に自分の関係ある患者番号が点滅すると、その人が死んだことが知らされる。そして、番号が点滅しているとき、
遺体が通過する。だからそこで皆で合掌する。しかし鏡はマジックミラーになっていて、こちらからは全く遺体を見ることはできない。

 また夏流城には脇に川が流れていて、その川に赤い花が流れてくると女の人が、白い花が流れてくると男の人が亡くなったことを示している。

 蘇芳という女の子と光彦との会話が胸に残る。
「わざわざ夏休みに子供たちだけ集まらされる。確かにいつ亡くなるか明からでないんだから待機するってのはわかるよ。だけど、それはどこにいたって同じだ。現に、夏流市街地とこのお城はそんなに遠く離れていない、電話で連絡してもらって駆け付ければいい。どのみち僕たちは親たちと会えるわけじゃない。」

「そうよ、あたしたちは親の死に目に会えない。会わせてもらえない。亡くなったら遺体は病理解剖に回され、研究に使われ、外に出ることなく焼却される。この世から親が亡くなったことをどうやって実感するの。どうやって確認するの。どうすれば納得できる?」

 志村けんさんが亡くなったとき遺体に会えなかった家族のことを思い出させる。

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