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2020年01月 | ARCHIVE-SELECT | 2020年03月

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虚淵玄・円城塔・辻村深月・他 「神林長平トリビュート」(ハヤカワ文庫) 

 SF第三世代作家として一部に神的存在になっている神林長平を尊敬する作家たちが、神林の代表的作品を選び、独自に想像力を拡げ、描いた作品集。本来なら、神林に最も作風が近く、神林を尊敬していた伊藤計劃が、このアンソロジーに参加する予定だったが、執筆中に急逝して、作品を提供できなかった。そこは、非常に残念。

 どの作品もSF的造語が飛び交い、難解。その中で、元長柾木の「我語りて世界あり」が琴線に触れた。

 主人公の高校生殲戮佳(せりか、SF作品は、登場人物の命名も難解。それが一層平凡な読者にはとっつきにくくなる)が、友達2人とともにコーヒーショップに行く。

 ここで、あたり構わず声をあげておしゃべりをする。
 するとそこに40歳くらいの白人が近寄ってきて、「まわりの人が迷惑するから、声をもう少し落としてくれないか。」とお願いする。
 3人はこの白人に対し「うざい」と思い、無視しておしゃべりを続ける。

 白人は再度お願いする。すると、殲戮佳は友達2人を帰し、白人と2人で対決する。なかなか白人を倒せなかったが、殲戮佳を支援する西村からウージー(うざいからきた薬品名という、破壊力が嵩じる薬品を投入してもらい、白人を破壊する。

 実は、殲戮佳は微分機構という組織に志願した兵。この機構は、個人の欲求や要望を守り、高めるための組織。これに対し、白人は尊厳プロジェクトに参加している。尊厳プロジェクトは公共を主張。他人との共生を大切としたプロジェクト。

 そして、世界や日本は、微分機構と尊厳プロジェクトの戦いの場になっていて、圧倒的に微分機構が強くなっていた。物語を読むと、人間は助け合いとか相互扶助という資質は本能的に薄く、個人や力の強い者が支配する世界を本能的に求めているように思われる。

 アメリカや中国など、確かに世界の潮流は微分機構の考えや行動に流れている。少し恐怖を感じる。

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| 古本読書日記 | 06:22 | comments:0 | trackbacks(-) | TOP↑

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小鷹信光    「アメリカ語を愛した男たち」(ちくま文庫)

著者の小鷹は、ハードボイルド小説の書評家であると同時にアメリカのハードボイルド作品の翻訳を多く手掛けている。ダシール・ハメットの「マルタの鷹」などを翻訳している。

 翻訳家というのは大変な仕事だ。言葉は生き物で常に変化している。その時代に生きていて、外国に暮らしているのなら、言葉の意味、雰囲気、用法を把握できるが、「マルタの鷹」のように1930年」に作品を翻訳するとなると、その時生まれた言葉もあれば、今は死語になった言葉もあるし、今と比べて意味や用法が変化したり、新たな意味が加わったりする。

 これらをすべからく調査、吸収して翻訳しないと間違った意味を読者に与えてしまう。

翻訳には幾つかの辞典や、多くの本を収集、そこから用法を調べてなされる。しかし、著者はまったくそれでは翻訳はできないと、言葉をピックアップして、それが使われている部分を収集して翻訳にあてる。膨大な量のスリップが集まる。

 本作品ではハードボイルドが固ゆで玉子から、こわもてのする、無情なにどのようにして変化していったのか。TOUGHはタフだけでは全く訳せないかを中心に多くの名小説の事例を使い提示する。

 驚くことにブタ箱を示す言葉だけでも56もある。それぞれ形態により異なる。これを「監獄」「ブタ箱」「留置場」だけの訳ではピタっとあった表現ができない。今度は日本語でどう訳すか日本語への旅が始まる。

 TOUGHは、頑固、こわもて、わからずやなどの意味が強い。

 ジョンロバートの作品に「TOUGH COP」という作品がある。主人公の警官が警官をやめるとき、バーでバーテンダーと会話する。

 そこに「自分はTOUGH COP」だったと主人公が言う場面がある。TOUGHの意味が、頑固、こわもて、したたかではピンと来ない。そして色々調査し、「まじめな」「誠実な」という意味なのだとわかる。

 主人公は自らのことを
「悪に染まらず、まがったことが嫌い、お役目ひとすじに、まっすぐへこたれず歩んできた。バカ正直でまじめなおまわり」と言っているのだ。ここがわかるまで10年の時間を要したと著者 小鷹は述懐している。

 翻訳の難しさ、奥深さをこの作品は教えてくれる。

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| 古本読書日記 | 06:47 | comments:0 | trackbacks(-) | TOP↑

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内田樹 鈴木昌   「大人は愉しい」(ちくま文庫)

 思想、哲学の碩学内田と精神分析者の鈴木がメル友となり、芦屋と鎌倉で交わし続けたメール交換日記。交わしたテーマは他者、ネット、映画、教育、イデオロギー、家族、天皇制など多岐にわたりいずれも重いテーマ。

 読者の私が年寄り過ぎ、集中力が継続しないで、十分理解できずに読了した。特に内田は難しい英語をカタカナにして多用するために、骨が折れた。

 その中で面白いと思ったのは教育について。

世の中には、科学的根拠はないが、人間には凡人と変人があり、その割合はニューヨークでは85%対15%だと考えられているそうだ。15%も変人がいると、無法地帯寸前にあり、混乱が起きても不思議でないそうだ。それが都市のダイナミズムを生んでいる。
 だから日本では変人の割合は4%程度ではないかと内田は言う。

凡人は常識、均質的なものを求めている。変人は混ざり合うことを求めている。

凡人にむかって「君自身の個性を発見して、独自な生き方をクリエイトせよ」とか「世の中や会社を大胆な視点で変革せよ」と言い、変人に対して「協調、協力を重視してひとりよがりな生き方を捨てろ」と言っても、これは悲劇を生むだけだ。

 教育の最も大切な視点は、変人をどう見つけて、彼らに対し、画一的な教育をやめ、個性を磨く徹底した自由な教育を施すようにすること。その抽出方法と教育方法を早急に確立することである。

 生徒を抽出することも難しいが、変人を教育する教師を抽出するのも難しい。教師はもちろん個性はバラバラだが、文部省の指導要領に基づき画一的な教育が求められているからだ。

 それから変人については、どの年代、段階から凡人と切り離して変人用学習にはいっていくかこれを決めるのも難しいかもしれない。

 実現には大きな壁が立ちはだかるが、面白い発想だし、読んでいてワクワクしてくる。

 教える教師も変革が余儀なくされる。ここで生まれた師弟関係は絆の強い、理想的な関係が生まれてくる予感がする。

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| 古本読書日記 | 06:13 | comments:0 | trackbacks(-) | TOP↑

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岩城けい   「さようならオレンジ」(ちくま文庫)

 岩城処女作。この作品は、処女作でありながら芥川賞候補になり、太宰治賞、大江健三郎賞を受賞。発表当時話題になった作品。

 物語は戦火を逃れてアフリカからオーストラリアに難民として2人の子供をかかえてやってきたサリマと同じ英語訓練校で学び始めた大学の研究者の夫についてきた日本人女性との齟齬から理解に至るまでの過程を、2人の視点から交互に描く物語になっている。

 互いの理解を味わう物語なのだが、サリマのある行為が突出して印象深く、強烈で、感動する。そこを紹介したい。

 サリマの子供の小学校で、親に「私の故郷」という題で、故郷を生徒たちの前で紹介する依頼がサリマにきた。サリマの村はいつも戦争に見舞われていた。砂地に粗末な家。サリマは思う、自分に故郷なんてあっただろうかと。でも、今までの人生のことをサリマは書いて紹介した。紹介文は「私の故郷」から「サリマ」に変わっていた。
 少し、長くなって恐縮だが、全文紹介したい。この拙いが、純粋な紹介が、日本人女性の心に深くつきささる。

 わたしの家は砂の上にあった。お父さんとお母さんと弟が2人いた。 
 朝おひさまがのぼるとおひさまといっしょに学校へでかけた。
 大きな木のしたで、砂に指で字をかいた。風で字はすぐ消えた。わたしはまたかいた。
 お日さまが空のいちばんたかいところにくると、家でおかあさんの手伝いをした。
 水をくんだり、お湯をわかしたり、それが終わると、弟たちを外で遊ばせながら、いっしょに自分も遊んだ。かけっこも、うたもうたった。おどるのも、いっぱいやった。
 お日さまが沈みそうになったら、弟たちをふろにいれた。せっけんの泡が目にはいると弟たちはぴいぴい泣いた。

 もう学校にいかなくてもいいと言われてからは、はたけを手伝った。
 もうすぐ食べられるよというときに、火だらけになった。火のたまが体のまえにも右にも左にも上にも下にも後ろにもふってきた。私はにげた。大きい弟の手をひいて、小さい弟を抱いて走った、走った。
 あとからおかあさんが追いかけてきた。
 お父さんはおいかけてこなかった。

 おとなになってけっこんした。
 すぐ男の子が生まれていそがしくしていたら、またさわがしくなった。
 だんなさんがにげた。私もにげた、赤ん坊を抱いて。
 きたならしい毛布のうえで、男の子がもうひとり生まれた。
 この子はきっと長く生きられないだろうとみんな言った。
 だから、大きな島にきた。

 砂の上で私は育った。
 お父さん、お母さん、弟たち。
 はたけの作物はぴかぴかしていて、もう食べられる。
 そんなゆめを見ていたと思うことにした。
 オレンジ色のお日さまがいつもうかんでいる、ゆめ。

日本人の作家から、難民を描く作家がでてきたことに感動した。、岩城に心から拍手を送りたい。

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| 古本読書日記 | 06:19 | comments:0 | trackbacks(-) | TOP↑

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大森望編  「謎の放課後 学校の七不思議」(角川文庫)

 学校を舞台に辻村深月ら今をときめくミステリー作家の短編を収録したアンソロジー。
完全にノックアウトされてしまった作品は、田丸雅智の「E高校生の奇妙な日常」に収録されている掌編「自転車に乗って」。田丸は東京大学大学院工学系研究科を修了している異才を放つ作家である。

 主人公の俺は電車で通えるが、電車は使わず毎日30分かけて自転車で高校に通っている。

 ある深夜、小腹がすいたので、コンビニまで行こうとして家をでようとすると、自転車置き場の自転車がガチャガチャ音をだしている。自転車泥棒かと思って、置き場に戻ると、何と自転車が誰も手を触れてないのに、勝手にガチャガチャ動いている。

 まさか幽霊?それで思い切って近寄ってみる。するとタイヤやハンドル、サドルなんかまで車体が生命体のように力の限り動いている。そう、自転車が生きていたのだ。まるでゲージの中のうさぎのように。思い切って鍵をはずす。自転車は大喜びで俺の周りをぐるぐる回る。

 それから気がつく。人前ではそんなことは決してしないが、誰もいないと自転車は俺に寄りかかってきて体をなすりつける。

 そして、時々帰宅しようと學校の自転車置き場に行くと、自転車がないことがしばしば起きる。それで、探すと必ず赤い自転車の横に移動している。

 ある日、自分の自転車だけでなく赤い自転車まで無くなっている。

 トボトボ歩いて帰る途中、向こうから俺の自転車がやってくる。そしてびっくりすることに、サドルのところに赤い自転車を乗せている。自転車同士の2人乗りだ。

 発想もユニーク。思わず微笑んでしまう愉快な物語だ。

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| 古本読書日記 | 06:34 | comments:0 | trackbacks(-) | TOP↑

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ビートたけし 「嫉妬の法則―はっきり言って暴言です―」

『おいらは自分に正直に生きているんだから。
 正直に生きてるから、カミさん以外の女と付き合いたいって、
 カミさんに言っちゃうんだから。
「おいら、お前飽きちゃったな」なんて言っちゃうんだよ』

だそうです。
離婚・再婚したニュースが記憶に新しい。
1980年に結婚した奥さんと続いていたというのは、意外だった(=゚ω゚)
ただまぁ、愛人や私生児はいるみたいですね。

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タイトル通り、
『三〇歳くらいまでじゃないの、女の人の価値が保たれるのは』
『処女よりは処女じゃないほうがいい。運転免許のようなもの。
 性生活においてよく作動するし、運転の仕方を教えなくていい』
『「女がどこにもいかないように、自分の支配下に置こうとする男」がいて、
 「最後まで男にたかってやろうとする女」がいれば、結婚制度はいつまでも残る』
『奥さんは家庭の中のいわば売春婦』
といった、荒っぽい内容です。

二世帯同居より同じマンションの別階がいいとか、
男の給料も社会にごまかされているから、家事労働を金額換算したらおしまいだとか、
なるほどと思うところもあります。

たけしだったらこれくらい言うだろう。ソフトな内容だったら、らしくない。
そんな感じです。

| 日記 | 13:36 | comments:0 | trackbacks(-) | TOP↑

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津村記久子    「ポースケ」(中公文庫)

 ヨシカが経営している、近鉄奈良駅近くの小さな商店街にある「キッサ ハタナカ」に勤める店員や、常連客たちのヒューマンドラマ短編集。

 タイトルの「ポースケ」とはノルウェーで行われる復活祭。物語ではヨシカが企画して常連客を含めて関係者が食べ物を持ち寄ったり、出し物を演じたり、最後にヨシカがこしらえる料理を楽しむパーティのこと。

 この作品は実に不思議。常識の逆張りをしている。一般社会の生活からこぼれおちる。それで生活は苦しくなるから、アルバイトでもなんでもして生活費を稼がねばならない。だから、普通は心は辛く、すさぶ。

 そんな底辺に近い暮らしをしている人々が多く登場するのだが、全くそれに悩んでいる姿は無く、そこから脱却するとか、更に落ちるということもなく、与えられた環境のなかで暮らし続ける。

 佳枝は28歳。会社でモラハラにあい、辛くて会社を退職。そして、「ハタナカ」に早番としてアルバイトで勤める。睡眠障害があり、家から2分で通えるのに、その間で寝込んでしまう。夢を見ると、会社をやめたはずなのに、会社でモラハラを受けている夢をみてうなされる。しかし、その悩みを病院に行ったりして何とかしようということは一切しない。アルバイトから脱却しようとも思わない。一般の人たちと違うのは、朝3時に起床してBSの国際ニュースだけが社会世間の情報源というところ。身近な情報から距離を置いている。

 十喜子は配送会社にパートで勤めている夫と他に息子が2人と一人の娘。長男は東京にでて暮らしているが失踪してしまう。次男はひきこもり。長女亜矢子は大学3年生で就活真っ最中。

 亜矢子は入社試験を山のように受けても一社もひっかからない。会社によってはSNSをみて受験者のことを事前に知識を得ていることもあることを知り、十喜子は内緒でSNSに受験が有利になるようなエピソードをあげて応援している。
 しかし、多分来年の今頃も同じように就活をしているような確信が読者に出来上がっている。

 夢だとか希望、成長だとか物語ではそこに向かって頑張る姿や逆に落ち込み、卑屈を描くが、現実はそんなことはあまりなく、現状を受け入れて懸命にもがきながら日々は通り過ぎてゆくものだとこの物語で津村さんは語る。

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| 古本読書日記 | 06:32 | comments:0 | trackbacks(-) | TOP↑

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逢坂剛    「アリゾナ無宿」(中公文庫)

 天涯孤独になった主人公マニータことジェニファ、賞金稼ぎを生業にしているストーン、
それから日本から漂流してきた日本人サグワロの三人組が、賞金稼ぎのために、凶悪なお尋ね者を追い対決する物語。

 西部劇は、ハードボイルド、緊張と興奮する場面が次々現れ、手に汗握る状態が止まらないのが特徴。その特徴が、この作品には全くない。

 インディアン スー族にマニータことジェニファは養われていた、そのスー族が白人との戦いに敗れ全滅。その白人の兵士ラクスマンに拾われ、彼に育てられたジェニファが、ストーンとともに賞金稼ぎを行うところまでに82ページを費やす。
 その経過も重要と思わないではないが、読者が期待しているのは、荒くれども同士の対決場面。前書き部分が82ページはいかにも長い。気持ちが萎える。

 それから意表を突こうとしたと思うが、物語が女性のジェニファの一人称で書かれているのが失敗している。西部劇を女性が語るのはいかにもあわない。どうしても、女性的表現になるから、場面に切れ味がでてこない。それに、3人組の一人が日本人というのも、西部劇にフィットしない。

 ストーンのしゃべり。
「そいつは気の毒な話だが、その事件とわたしたちとどんな関係があるのかね。」
こんなだるい言葉は西部劇では使わない。

 日本に根の張った作家が、無理に西部劇に挑戦しようとしている。無謀な挑戦だった。

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| 古本読書日記 | 06:41 | comments:0 | trackbacks(-) | TOP↑

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ももこ記念日

間に合いました。
ももこさん、我が家に来て18年目に突入します。

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スリムです。

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爺やの部屋のソファー

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もしくは、テレビの前が定位置。

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夜泣きはひどいですが、元気です。

おまけ:最近太ったさくらさん
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| 日記 | 21:50 | comments:0 | trackbacks(-) | TOP↑

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北方謙三    「楠木正成」(下)(中公文庫)

 正成は赤坂城、千早城を創り上げ、ここで鎌倉幕府軍と対峙する。正成の軍は500-100。これに対し幕府軍は最初は京都常駐の軍、六波羅探題で応戦、その数2-3000. 正成は、城に責めあがってくる六波羅探題の軍にたいし、大石を放ったり、火攻めにして、反撃する。とても拉致があかないと、数万の規模の軍を鎌倉より幕府は送ってくる。

 正成にはひとつの目算があった。幕府に対し抵抗を長く続ければ、やがて多くの武士が反幕として立ち上がり、自分たちに付くだろうと。しかし、現実はそうならなかった。

 一方播磨で正成に呼応した悪党赤松円心が、京都の六波羅探題を攻める。一進一退の攻防となり、あと少しで六波羅探題を打ち破るところまできたとき、反幕にたった足利尊氏の軍が登場して六波羅探題を破滅させ、京都に君臨する。第二次大戦のソ連軍に似ている。

 この物語でまたよくわからないのだが、足利尊氏と新田義貞が反幕に転じた理由。物語では、幕府が北条氏の手にわたり、これを元来源氏だった足利と新田が政権を源氏に取り戻すために立ち上がったと説明するが、どうにも首をかしげてしまう。

 楠木正成がなぜ帝のために戦ったのか、そして足利がなぜ反幕に転じたのか、この義について、正成と尊氏が語り合う場面が物語にある。
 そこに、高邁な言葉をちりばめ、情熱をこめて北方は描く。それでも、なかなか伝わり切れないと思ったのか、その部分が40ページにも及ぶ。

 その苦心が、長すぎて余計に読者の心を冷やす。

 何か学生運動のアジを彷彿とさせる。そういえば、北方も学生運動はなやかなりしころの団塊の世代だ。このころの世代は、中身が薄いものを、抽象的言葉を多用し、相手を圧しようとして議論するのに夢中だった世代だ。

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| 古本読書日記 | 06:13 | comments:0 | trackbacks(-) | TOP↑

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北方謙三    「楠木正成」(上)(中公文庫)

 私の小学生の頃は、学校には二宮金次郎、少し大きな神社には楠木正成の銅像があった。金次郎はともかく、楠木正成の銅像が何であちこちにあるのか誰も教えてくれなかった。

 この作品には登場しないが、銅像の元になった有名な正成のエピソードがある。

  有名な桜井の別れだ。
正成最後の戦場となる湊川の戦いに向かう途中で、嫡子の正行に厳命する。
自分は今度の戦いで死ぬだろう。そして天下は足利尊氏のものになるだろう。そうなってもお前は後醍醐天皇に最後まで忠臣を尽くせ。

 「忠臣蔵」もそうだが、主君のすることが納得できなくても、臣下にあるものは、主君のために忠臣をつくす。明治維新以降、主君とは天皇である。何があっても最後まで天皇に忠誠をつくした楠木正成こそ、国民がとるべき姿勢であるということを教え、刷り込むために楠木正成の銅像が至る所に建てられたのだ。戦後それが180度ひっくりかえって誰もが楠木正成を崇拝、尊敬する対象ではなくなり忘れ去られ、銅像も廃棄された。

 鎌倉幕府の組織に御家人という地位の武士がいた。幕府より領地が与えられ、そこで農民を使い働かせ、そこから年貢を取り立て生計をたてる。荘園主のような存在。御家人には、幕府に絶対忠誠を誓い、何か危急なことが起これば、即幕府のために駆け付けることが求められた。

 武士が御家人になるかいなかは、自由であった。幕府の力が及ぶ関東では武士は殆ど御家人になったが、関西以西では御家人になる武士は少なかった。鎌倉幕府は思ったほど武士から崇拝されていなかった。

 御家人にならない武士は、非御家人と言われた。非御家人は、御家人の領地を襲ったり、盗賊をしたりして生計をたてる。あるいは楠木正成のように大阪河内に勢力をもち、京都や奈良への物流を一手に握り、お米経済ではないところで、お金を稼ぐ者もいた。彼らのことを悪党と言った。

 上巻では。悪党である正成が、反幕となり、後醍醐天皇とその次男護良親王を主君として、幕府と戦う決意をするまでが主として描かれる。

 しかし、この物語を読んでも、何故正成が天皇に忠臣を尽くし反幕となるのか全然わからない。

 悪党として大きなお金を手に入れている。それができていれば、今の幕府にたてつく必要は全く無い。誰が、国を治めようが関係ない。そのことは、他の悪党たちにもいえる。

 それから御家人は武士だが、非御家人は武士でない。ここも理解ができない。幕府の中心となるかならないかの違いだけでどちらも武士のように思えてしまう。

 帝、公家勢力は、武士でないものを統率して国を統治する。その武士でないものが何であるかがよくわからない。鎌倉幕府を倒しても、また違った武士勢力が天下をとるだけに思えて仕方がない。

 北方は、情熱的な言葉で物語を進めるが、肝心な部分が茫漠としているため、情熱が伝わって来ない。

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斎藤美奈子   「吾輩はライ麦畑の青い鳥 名作うしろ読み」(中公文庫)

 名作の急所はラストにある。ということで、ラストを吟味しながら、古今東西の名作の解説をした書評集。

 斎藤さんの書評は、文学評論家や名作家と自認する一般の読者がそのレベルが届かないような評論と異なり、平易な言葉と心情あふれる評論で、かつ本当に本が大好きで、丁寧にどんな本も読んでいる態度が伝わってきてうれしい。

 この書評集で取り上げていて、以前読んだときは思わなかったのだけど、今の状況の中で」読むと、強烈な印象を受ける作品がある。

 一作目はブラッドベリの「華氏451゜」。

舞台は近未来。本は禁制品になり、読むのも所持するのも、印刷するのも一切禁止となる。見つかった場合はその場で燃やされ、違反した者は逮捕される。これは大変なことだ思い、びっくりするのだが、このことに不自由を感じたり、抵抗する者は殆ど無く、人々は無関心であるのだ。作家にとっては死活問題だから、結末は希望がもてるように変わるのだが。

 恐ろしいのは、今このようなことが起きても、同じ状態になるのではと思ってしまうところ。

 それから、誰でも知っていて教科書にも載っている芥川の「蜘蛛の糸」。

生前極悪非道の限りを尽くして地獄で苦しんでいるカンダタ。そんな極悪カンダタも蜘蛛を踏みつけるのをとどまったことが生前に あった。それを思い出した天国にいるお釈迦さま。カンダタを救ってあげようとして天国から蜘蛛の糸をたらす。カンダタはその糸にすがって昇りだすが、途中で下をみると無数の人が同じように糸にとりつき昇りだす。そして途中で糸は切れ、元の地獄に落ちてしまう。
 お釈迦様は、蓮のまわりを気まぐれに散歩していた。そしてほんの気まぐれに、蜘蛛の糸を垂らした。糸が切れる。するとお釈迦様は何もなかったようにまたぶらぶらと歩きはじめる。」
 お釈迦様はほんのからかい、遊びで糸をたらした。セレブ、最近流行の言葉でいえば「上級国民」は下層の人々など関心もないし、眼中にもないのだ。
 お釈迦様の視点から作品を読んだことがなかったので、斎藤さんのお釈迦様からみた解説はいたく印象に残った。

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養老孟司    「毒にも薬にもなる話」(中公文庫)

 孔子の時代には自然科学が存在しなかった。人道はあっても天道はなく意識にも上らなかった。だから、自然科学、天道は意識に上ることは無かった。だから孔子は天道のことについては「語らない」とするしかなかった。

 雷はなぜ鳴るのかと問われれば「怪しい力」としか答えない。生老病死について問われると「我いまだ生を知らず、いずくんぞ死を知らん。」と答える。

 社会のことは「意識的」だから、脳すなわち意識で統御できる。意識で統御できることを養老は脳化と言う。自然は脳化できない。だから孔子は自然を意識の外へ置く。

 この考えは都市住民の思想である。都市は自然をできるだけ排除する。

今、日本は、自然を基盤としてとりくんでいる人たち、場所を排除しようとしている。テレビで里山とか人生の楽園など一見地方の田舎ぐらしを讃えているように思える番組もあるが、それらはすべて都会というフィルターを通して作られ、語られる。「ポツンと一軒家」などは殆どブラックジョークの域にはいる。

 養老は自身を毛沢東主義者だと言う。毛沢東は文化大革命で、「批孔批林」を訴え行動する。毛沢東は農民の出身で、都会を否定する。毛沢東を批判したことで有名な本はユン・チアンの「ワイルド スワン」。ユン・チアンはロンドンに住み、典型的な都市の住民である。

 地方再生などスローガンを唱えるのではなく、毛沢東がやったように都市住民を一定サイクルで地方に住まわせ、農業や里山の暮らしを実践させる下放政策が必要なのかとこの本は読んで感じさせた。

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辻嘉一    「味覚三昧」(中公文庫)

 14歳で包丁を握り、その後懐石料理一筋。名店「辻留」の二代目主人となり名代の料理人となった辻嘉一が、日本中を旅し、古今の文献を渉猟して美味真味を追求した作品。

 私の住んでいる隣町に、まだ若いのだが、金沢で修行して、店を持っている人がいる。いつも12月になると、また香箱ガニが入ったのでおでかけくださいとのお知らせが届く。

 この香箱ガニが本当においしい。香箱にカニが盛り付けてあるので、その様から香箱ガニと料理名をつけたと思っていたら、この本で越前ガニの雌のことをコウバコガニと言うことを知り驚いた。

 おむすびはその形状からイメージして結びという漢字をあてると信じてきたがこれが間違いだと知った。古来より万物が生じることを産巣日(むすび)と言い、温気、塩気、湿り気によって生まれるものだそうだ。この3つにより作られる基本飯のことを産巣日と言う。これが正しい表現だそうだ。間違ってもこんな崇高な料理のことを「握り飯」などと言ってはいけない。

 カボチャはカンボジアから伝来したので、なまってカボチャとなった。

 正月のおせち料理に黒豆の煮物がある。この本に作り方が紹介されている。

 三倍量の米のとぎ汁に水洗いした黒豆をつけ、12時間おく。次に最初のとぎ汁と同量の水に、約1割強の木灰を混ぜ入れ一晩そのままにしておいておく。その上水を鍋に注ぎ入れそこに黒豆をいれ3時間コトコト煮る。

 3時間たち黒豆を壁にむかって投げる。それが壁にあたって落ちるのではなく、クチャっとつぶれて張り付いたら、煮え具合がよいことがわかり、火をとめ冷やす。

 水道にとりつけたゴムホースを鍋の底にいれ、少量の水をいれる。水が澄んできたら、また火にかけ、お湯がにごってきたらそのお湯をすて、新しい熱湯をいれ、十分間にて火をとめる。

 次に0.9リットルの水に750グラムの砂糖をいれ火にかけ、アクを丁寧にとりながら佐藤蜜を作る。

 次に黒豆を取り上げ布巾にくるみ蒸し、中心まで熱が通ったら、砂糖蜜の熱いところに漬け込む。セロハン紙で蓋をピッタリとして一晩寝かせる。これで出来上がり。

 あの黒豆をみんなこんな手順に従って創っているのだろうか。本当に作り方を読んで腰が抜けてしまった。

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| 古本読書日記 | 05:58 | comments:0 | trackbacks(-) | TOP↑

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クラフト・エヴィング商會プレゼンツ 「猫」(中公文庫)

 昭和29年に発刊された、小説家、エッセイストたちが猫について書いたエッセイ本の復刻版。

 科学者でエッセイストの寺田寅彦が不思議に思うのは猫のしっぽ。なんの役にもたたないのに、なんであんなものが猫にあるのか。邪魔でしょうがないのではないかとエッセイで書く。

 それを読んだ谷崎潤一郎は、寺田と異なり、あのしっぽが欲しいと強く願っている。猫が座布団に座り、半目をあけながら眠っている。そんな時猫に声をかける。

 いい気持ちで眠ろうとしているのに、うるさい奴だと思う。一鳴きするのは面倒。しかし何もしないのは不愛想。それで、尻尾を振ってこたえてあげる。

 妻が、小説執筆中に部屋にはいってきて、何かいいつける。うるさい、忙しいんだなんて言って反応すると、妻からまた文句がかえってきてちょっとギスギスした雰囲気になり、気まずくなり後に引く。

 そんな時に、猫のようにしっぽがあって、しっぽを振ってうるさいよと応える。そんなことができたら平和なのに。本当にしっぽがあったらと思う。

 谷崎は他人との面会、面談が嫌い。編集者と自分の書いている作品について打ち合わせをするのは仕方ないとして、特に用向きも無いのにやってきた客に対応するのが辛い。

 先方の話に最初は「はい」とか「ええ」とか適当な相づちを打っているが、その間は全然違うことを考えている。

 そんな時、谷崎には自分のしっぽが相づちを打っている姿がうかんでくる。
だから、谷崎は猫のしっぽが欲しいと熱望する。

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今野敏    「赤い密約」(徳間文庫)

 1993年、ソ連が崩壊してロシアになりエリツィン大統領が統治していたが、国は混乱と混とんの時代だった。そして翌年オスタンキノテレビ局占拠事件が起きる。

 エリツィン派にたいして議会派がクーデターを起こし、テレビ局を乗っ取ろうとした事件だった。議会派は、瓦解した旧来の共産党と何と右翼が結びついた。これにマフィアが台頭して世の中の中心にのしあがってきていた。

 作者今野は空手道場の師範で、その当時ロシアに彼の弟子がロシアを含め旧東側諸国の空手連盟から招聘され、たまたまこのテレビ局占拠事件に遭遇したらしい。

 その時の模様をロシアの人間がビデオに撮っていた。それを弟子に預け、日本で放送してほしいと要請した。
 帰国した弟子は、テレビ局をまわったが、このビデオの価値がテレビ局ではわからず、唯一TBSのNEWS23だけが興味をしめし、いろんな経緯を経て大幅に手を加え放映した。
その放映に至るまでの弟子が被った危険を軸に描いたのがこの作品だ。

 主人公の空手家が千堂。ニュース番組ディレクターが向井田。実際の報道にあたる人物は向山。これに女性キャスター植村真弓が加わる。

 今野は、これは作品にしなければと使命感にかられ執筆したとされているが、迫力も無く、凡庸な作品になっている。

 千堂は帰国した日本で、何回も暴力団に襲われるが、その場面に切れ味がなく、読んでいてまったく緊張しない。

 千堂が対決しているヤクザの耳の下に手刀を振り下ろし倒す。その後に続いて今野は書く。
「ヤクザの首は太い、それは生まれつきの体型のせいもあるだろうが、ボクシングで鍛えたせいでもあった。
 首を鍛えると、顔面へのパンチで脳震盪を起こすことが少なくなる。・・・銃などの鈍器で頭部や、耳の下などを殴ると、比較的簡単に人は死ぬ。脳を取り巻く硬膜の内外に血腫ができるからだ。」

 ひとつひとつのアクションの多くにこんな解説がついている。こんなこと説明する必要は無いのに。これがスピード感、シャープさを著しく損なう。

 それから、ビデオの内容が暴力団が人殺しまでして報道を阻止するほどのものか、あまり説得力が無かった。

 やっぱし、今野も作品を書きすぎ。それが質の低下を招いている。

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玉村豊男    「食客旅行」(中公文庫)

 私だけが知らないことのような気がして、紹介するのが恥ずかしいのだが。

 麻婆豆腐という料理は、初めて作られたのは130年前という比較的新しい料理。中国四川省の成都で油屋をやっていた夫に先立たれた陳さん、家が油を収めに行く人たちの通り道にあって、そこに油運びの人たちが休んで、お茶を飲んだり弁当を食べたりする休憩所になっていた。そこで妹と何か食べ物を作って商売できないかと考える。右隣が豆腐屋、左隣は肉屋。この2つの材料を使った料理を作ろうということになってできあがったのが麻婆豆腐。陳麻婆豆腐というのは最初に料理を作った後家さんの名前が陳さんというところからきている。この陳さんの店は今でもあって流行っているそうだ。

 玉村さんがフランスの小さな田舎町を訪れる。レストラン付きのホテルに泊まる。早速到着してレストランにゆく。グルヌイユ(カエル)のソテーを注文すると、今日はないと主人から言われる。で、主人が、もう一泊してくれ。明日の晩は用意しておくから、と言う。

 それでもう一泊して、グルヌイユのソテーを食べる。これが本当においしい。大皿一杯に盛られたカエルを、お替りまでしてしまった。

 腹一杯になり部屋にもどってごろんとなる。と、何か部屋が昨日と違う感じがする。何が違うのだろうかと考えると氣がつく。

 そういえば、昨日の夜は、庭のカエルの鳴き声がすさまじかったのに、今夜はカエルの鳴き声が聞こえないと。

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安田依央    「出張料亭おりおり堂 ことことおでんといばら姫」(中公文庫)

 この作品はシリーズ化されていて、すでに4作が刊行されている。知らなかったが、結構売れている作品のようだ。

 橘仁は京都の老舗料亭「こんの」を経て、橘桜子の経営する骨董品屋の一部を改装して「出張料亭おりおり堂」の料理人をしている。そこに勤めているのが主人公の山田澄香。澄香は30歳になる。密に仁に恋している。

 「出張料亭」とは、お客に呼ばれて、お客の家などで、出張して料理をするサービスである。

 アミーガという2Mも身長のある大女とか、鈴子という怪女が登場して、笑いを誘う行動、言動をする、ラブコメディとなっているが、中身はかなりヘビーだ。
 

 仁は無口で、無駄なことをしゃべらない。客の藤村が、「言葉は相手に理解してもらうためにある。だまってちゃあ誰もわからないぞ。」と忠告する。

 しかし、この作品を読んでいると、しゃべることが解決しない問題が多く、しゃべることが新たな摩擦、問題を引き起こし、泥沼にはまってしまうことがしばしばあることがわかる。 

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| 古本読書日記 | 06:36 | comments:0 | trackbacks(-) | TOP↑

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藤沢周平    「闇の歯車」(中公文庫)

 物語の設定と、背景の提示が実に印象的で素晴らしい。

 博打で身をもちくずし、危険な仕事をしながら、日々を送っている主人公の佐之助。その佐之助に連れ添っていたが3年前に家をでてしまった妻きえを思い出すと佐之助の心がちくりとするというところから物語が始まる。

 さらに、佐之助がいつも行く飲み屋「おかめ」。

 ここに、佐之助を含め、いつもやってくるが、誰とも交わらず、一人で酒を飲む3人の男が登場する。武士浪人の伊黒、人殺しをして島流しになり30年も放浪してきた白髪の老人弥十、それに結婚を真近に控えているのに、情婦との縁が切れないで弱り切っている若旦那仙太郎。毎日のように顔を合わせる4人が、それぞれに苦悩を抱えているのに、全く交じり合わずに、酒をひたすら飲む姿が強く印象付ける。

 そして登場するのが表向きは金貸しだが、裏稼業で押し込み泥棒稼業をしている伊兵衛。この伊兵衛が、「おかめ」のバラバラ客を束ねて、商家近江屋に押し込みで入り、お金を奪うことを計画して実行する。奪ったお金は2か月後に、伊兵衛から4人に分ける。この企みは成功したように見えたが、がたがたと崩れてゆく。

 最近は、日本にいると感じないが、やたら世界ではデモが多い。この原因は3つある。強い権力で人々を縛り付け、犯行する者は容赦なく逮捕し、場合によっては殺害する。そんな権力に対する抗議デモ。それに、多数の最下層においやられ最早くらすことが困難になった人々が起こすデモ。更に地球規模で危険が迫っていることに対しその反対の施策を続けるリーダーたちへの抗議デモ。

 リーダーたちは、完全に自分に従わない人たちは人間ではない、動物か機械のように振る舞う。

 この物語のタイトル歯車。人間はすべて歯車で当然自分の命令に忠実に従い行動するものとリーダーは考えるが、人間は思いや感情がありそれぞれ違い、現実は思い通りにはいかないということを想起させる。

 佐之助のもとから消えたきえ。実は押し込みに入った近江屋で働いていた。そこで押し込みに入った佐之助を見ている。

 しかし、目明しがきえに佐之助を見ただろうと面通しするが、きえが「こんな人知らない」ときっぱりと言うところが印象的だ。

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| 古本読書日記 | 07:19 | comments:0 | trackbacks(-) | TOP↑

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南英雄    「異常犯 強請屋稼業」(祥伝社文庫)

 この前、住友重機械工業の労働組合経理課の女性が、6億円以上の会社の金を横領、乗馬用の馬を6頭所有、ポルシェカイエンを所有し、超セレブの生活を楽しんでいたというニュースがあり世間を驚愕させた。記事では、お金の管理、経理を全部彼女にまかせておいたために起こったと書かれていた。

 しかし横領金額が6億円以上。いくらなんでも、組合が気が付かないなんてことは信じられない。組合か会社かはわからないが、横領はわかっていても、何か表面化できない弱味を握られていて、ずるずる横領が続いていたと思うのが普通だ。その弱味が消えたか、が、影響力が少なくなったと判断したから、事件が表面化したのだ。

 会社の社長というのはおおかれすくなかれ、会社の金を私的な消費、行動に使う。それが、度が過ぎると表面化し事件となる。ゴーンの横領がその典型。しかし、横領したお金がすべて横領者のものになるということは少ない。

 かなりの金額が、社長のスキャンダラスを知った、黒い人たちに知られてそこに流れるからである。ゴーンのお金もそういった人たちに多く流れていたように思う。何しろ、金をむしりとろうとする人たちが国際的に散らばっている。ひょっとすれば日本の彼についた弁護士も弁護費用より大きなお金が得られると、今回の逃亡劇に加担していたかもしれない。

 この作品は、たかり脅しの構造を描く。
 警官、私立探偵、元陸自のレンジャー部隊崩れ、それから、まとわりつく女性群れなど。
そういえばゴーンの逃亡にも元アメリカの特殊部隊の隊員が含まれていた。

 南さんの作品には、BGMが無い。心象や効果的に風景を切り取った表現、効果音が無い。ひたすら起こっていることを描写する。それが読みやすく、読者を引っ張る。

 この文体は読書家や書評家には評価されないが、これもりっぱな文学だと思う。だから長い間多くのファンをつかみ放さない。

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山本一力    「まねき通り十二景」(中公文庫)

今朝の新聞に私とほぼ同い年の主婦のかたの作文が掲載されていた。

近くの小学校一年生の授業で昔の遊びに取り組みたいので教えていただきたいとの依頼がありでかけた。もう60年も前のこと、久しぶりにお手玉、あやとり、おはじきなどをした。心配していたが、体や手がちゃんと覚えているもので、自然にできる。ちょっぴり心配もあったので事前に図書館から本を借り、勉強もすこしした。

 お手玉からやる。生徒が挑戦するがうまくできない。やっと少しできたら大声で「できたー。」と声があがる。

 途中から校長先生も加わり、みんなで熱中して遊びにとりくんだ。帰るとき子供たちに「また教えに来て」と口々にせがまれた。
 昔は毛糸一本、石ころひとつでいろんなことができた。
 と、なつかしむ。

紹介したこの本も、そんな昔の香りがする作品。

江戸時代、街単位に毎月のように行事があった。豆まき、子供の節句、神社の桜や紅葉や、花しょうぶを見るのも日が決まっている。それから炬燵いれ、餅つき、花火大会も日が決まっていて、段取りもすべて決まっていた。

 もちろん、季節に直結している行事は、天候の不具合により前倒ししたり後ろ倒しもある。そんなときはお触れがまわる。

 行事の開始は、寺の時間を教える鐘の音か、場合によっては街の半鐘をならして知らせる。

そんなとき、家で作ったお惣菜を持ち寄ったり、幾つかの屋台がでる。だから、子供たちはその行事が待ち遠しく、その日が来ると一斉に通りや神社にくりだす。

 この作品は、そんな毎月行われる行事にからめて、街の人情噺を語る。
今は望むべくもない風景だが、子供たちが元気に走り回りそれにおとなたちも楽しく混じる。こんな風景が再現できれば、いじめやトラブルがなくなる。

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| 古本読書日記 | 07:24 | comments:0 | trackbacks(-) | TOP↑

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山本一力   「サンライズ サンセット」(双葉文庫)

 著者が愛するニューヨークを舞台にした短編集。

アメリカ アリゾナ州の小さな都市セドナ。先住民族の保護区になっていて、パワースポット地として有名な観光地となっている。主人公のマック一家はそこで、小さな旅館インを経営している。

 9.11事件が起き、セドナへの観光客が減る。そのため、事件を起こしたイスラムテロリストへの反発もあったし、何よりアメリカ人としてのプライドもある。マックは米国軍に志願する。旅館は弟デイヴィスに譲ると決断して。

 セドナをマックが去るとき、デイヴィスはマックに縋り付き、泣いて行かないでと止めた。それを振り切って、出迎えの軍のバスに乗る。

 マックはその後、研修、訓練をして、食品衛生兵としてイラクに派遣される。イラクでは何回も戦闘場面に遭遇し、目の前で殺害された同僚もいた。マックも危ない場面を経験した。

 3年後に除隊して、アルバガーキ陸軍基地に到着。そこから、軍が手配した航空券でアリゾナ フェニックス空港に到着する。

 マックはイラクで活動しているとき、どんな時でも弟デイヴィスのことばかり思い出していた。

 そしてフェニックス空港にはそのデイヴィスが迎えにでていた。感激するはずの再会のはずだった。ところが、あの見送ってくれたときと弟は全く雰囲気が違った。

 ハグすることもなく、おざなりに握手をし、軍から支給された大型トランクをデイヴィスはころがして、前にどんどん進んでいく。

 その弟の姿をみて、おまえもかとマックは思った。

驚いたことなのだが、アメリカでは戦場から帰還してきた一般兵士は、死臭がして、気持ち悪い人として、高級将軍以外は差別されるのだ。

 マックはがっくりきて、数日後ニューヨークへ去る。

マックはニューヨークで偶然「オークス・ダイナー」という店のオーナーに拾われ仕事を得て、ゆっくりだがはいあがってゆく。

 しかし、これは幸運なケースで、軍隊経験者の多くはホームレスになったり、貧困生活を強いられている。

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| 古本読書日記 | 06:22 | comments:0 | trackbacks(-) | TOP↑

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堂場瞬一   「垂れ込み 警視庁追跡捜査係」(ハルキ文庫)

 追跡捜査係というのは、犯人がつかまらないまま捜査が打ち切られた後、捜査を引き継ぎ行う部署のこと。迷宮入り状態の事件を捜査追及する部署である。

 その係の沖田のところに、15年前上野で起きた通り魔殺傷事件について話したいとの電話がくる。ところが待ち合わせ場所に通報者は現れない。しかし、しばらくするとまた彼から電話がくる。そのとき彼は山岡と名乗る。新百合丘駅で待ち合わせたが同じようにすっぽかされる。

 交番で山岡という男の住所を確認。山岡の住む一軒家を発見する。

  10年前新宿でも同じような通り魔殺傷事件が起きていた。当時捜査に当たった元刑事によると、やはり上野事件と同じように垂れ込みがあったが、垂れ込み者との接触はできなかった。

 沖田は近所の聞き込みから、山岡が大手食品会社LGフーズの宣伝課長だと知る。
そしていよいよ会社に乗り込み山岡を追求しようと思っていた矢先、この山岡が殺害される。更に池袋でも通り魔殺傷事件が起きる。

 堂場の物語にはミステリー謎解きを求めてはいけないと再確認した。

  これらの多くの事件。山岡の周囲の人間を調べていくことで、犯人らしき人間が浮上してくる。しかし、結局は謎解き証拠の発見もなく、拘束した人間を取り調べすることで犯行自白を得て逮捕となる。

 その動機も、普通のサラリーマンにも拘わらず、誰でもいいから人を殺したいという衝動を抑えきれず犯行を実行したと。

 堂場は、どんな人間にも犯罪を犯したいという心の闇を抱えているということを作品で言いたかったのだと思う。

 しかし、たくさんの殺傷事件が起き、これはどうなるだろう、それぞれの事件のつながりはと読者の興味を高めた上での、自白させたという結論は無いだろう。完全の肩透かしだと思った。

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| 古本読書日記 | 06:48 | comments:0 | trackbacks(-) | TOP↑

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保坂和志    「季節の記憶」(中公文庫)

 谷崎潤一郎賞、平林たい子賞、ダブル受賞作品。購入して少し悔いがでた。保坂は超純文学作品を書く作家。更に解説が難しいことをさらに難解に表現する解剖学者の養老孟司。
これは読み終わるのに数日かかるか、理解不能で途中で投げ出すんじゃないかとすでに読む前から身構える。

 登場するのは、会社をやめ地元鎌倉で、コンビニ本をせっせと書いているライターの中野。
コンビニ本というのは、安直なハウトゥー本で、主力の販売先がコンビニ。最近中野が書いて出版した本は「セックスと快楽の関係」。

 それから彼の息子で5歳の圭太。名前がうまく発音できず「クウ」と発音するからクウちゃん。必要ないということで保育園、幼稚園には通っていない。母親は離婚しておらず、家はクウと父親中野の2人暮らし。

 中野の家から3軒隣の、松井は便利屋をしている。20歳年下の妹美沙が便利屋を手伝っている。
 これに離婚して鎌倉に戻ってきたナッちゃんと娘で圭太と同い年のつぼみが登場する。

物語は、中野親子に松井兄妹、それにつぼみが中心になって描かれる。
 これに、かっての中野の会社の同僚の二階堂と学生時代の友人で今南紀白浜の宿泊施設の清掃会社をしている蛯乃木が加わる。

 中野も松井も36歳。普通の社会人だったら30代半ばは家庭も仕事も多忙で、日々を必死にこぎ抜き頑張っているとき。
 しかし、誰もが、そんな世の中とは遊離して、超然とした暮らしを営む。

中野と圭太は毎朝7時に起床、朝食を食べ、そして美沙や松井を誘い、近場の海や山に散歩にでる。更に松井やナッちゃんを含めしょっちゅう夕食を共にする。これに時々二階堂が加わる。そんな中でなされる会話の内容が哲学のようであり、個々の人間の世界観、自然観がテーマとなる。ここが保坂の真骨頂。しかし36歳で、こんな会話を楽しむ人を、凡人の私には想像がつかない。

 こんな会話が果てしなく展開される。
「自分を『自分』だと思っているのは、たんに自分が自分でない者の感じていることを感じられない」からだろう。俺が蚊に喰われたって美沙はかゆいと感じないだろう?俺という個体と美沙という個体が別々だかだよ。そういうことを知っていく過程でうまれたのが『自分』なんだよ。」
 しかし、この本のタイトルにもなっている「季節の記憶」についての説明は説得力がある。
「年を重ねるっていうことは季節の記憶の層が増えていくことなんだよ。

 『自分にはまだ若さがある』とか『青春のシッポが残っている』とか思ったとしても、それは逆なんだよ。年をとっての季節の記憶―そういう種類のズレなんだよ。」

 春に恋をする。恋をしたときのときめき、感情のたかぶり、そして恋が安定期にはいる。その時のことは記憶に残らない。しかし秋に恋が破綻する。そのときの嘆き、辛さ。

 恋が生まれた時、破綻したときそのことだけは季節を背景にして、年老いてもずっと心に強く記憶される。それがズレ。
 よくわからないところもあるが、思わずその通りとうなずく自分がいる。

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| 古本読書日記 | 06:45 | comments:0 | trackbacks(-) | TOP↑

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『カメの甲羅はあばら骨』

先日、同僚が「ペンギンは膝を曲げて歩いている」というトリビアを披露してくれました。
コウペンちゃんの腹の中、短い大腿骨と膝があるのです。

KIMG0100.jpg

動物の骨格と進化の話をする、「カメの甲羅はあばら骨」にも、
ペンギンは登場します。

IMG_9261.jpg

生物に関する雑学の本は好きです。

IMG_9262.jpg

「へんないきもの」や「ざんんねんないきもの事典」に比べると、
今回の本は真面目ですね。
絵はインパクトありますが、笑いや皮肉は一切なし。
余分な文章はなく、図に対する説明も簡潔で、視覚で理解させる。

文の区切りが変だったり、「中手骨が1つ」とあるのに絵では2つに見えたり。
既出のネタを整理した部位別比較より、別の動物を出してほしかった。
ちょっとしたモヤモヤはありましたが、予想通りの面白さでした。
千円で、新書サイズで、これだけカラフルで、いいんじゃないですか。
↑なんか偉そう。

IMG_9263.jpg

これも雑学の本。ビートたけしは博学ですね。
「きれいなおネェちゃんが~」「ストリップの踊り子が~」と例える一方で、
最新科学のニュースも理解しているという、バランスが絶妙です。

| 日記 | 00:42 | comments:0 | trackbacks(-) | TOP↑

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司馬遼太郎    「微光のなかの宇宙」(中公文庫)

 司馬は大学を卒業して、京都の小さな新聞社で、絵画、芸術を担当していた。だから、その頃、画集を鑑賞したり、たまに個展などをまわり、記事にしていた。それが基礎になり、美術、芸術を観る感性を養った。

 この作品は、美術、芸術について考察したエッセイを収録した本である。

 私たちが学生時代に習った世界史は、その発生はアラビアではあったが、その後は欧州の歴史や中国の歴史であった。しかし、それで世界の歴史を習ったといえるのだろうか。

 釈迦の仏教は紀元前5世紀より始まっている。釈迦の仏教は、戒律を守り、行をおこない、やがて仏教の究極の目的である解脱するまでを説く。しかし、解脱した行者がどんな姿でどこへ行くかは全く無関心。従って、そこには言葉しかなかった。現在の仏寺にあるような神をかたどった仏像や、絵画は釈迦の仏教には存在してなかったし概念もなかった。

 しかし、仏教に帰依し、すがる多くの人々は文字を知らず、仏の姿が欲しかった。

  一方アレクサンダー大王がアジアに侵入してきたのが期限前3世紀。彼らの持つ文化は彫像の文化。それがアレクサンダーの死後も残り、ガンダーラ美術となった。

 西暦5-6世紀。西欧とアジアの交易が盛んとなった。それを担ったのがアラビア商人。もちろんシルクロードもあったが、それ以上に大きな交易ルートはインド洋をめぐる航海貿易だった。

 インドでは世界で初めてダイヤモンドが発掘され金剛と呼ばれた。それにルビーもあったし貴重な皮や、黒檀、紫檀もあった。アラビア商人は、これらの品々を大量に買い付け、アラビアの国々やヨーロッパの国々に運んだ。

 だからインドにはとんでもない金持ちがたくさん誕生した。彼らは解脱した後の世界をすでに現実で享受していた。釈迦の説いた仏教のころは、飢えと暑さと病に苦しんだ人々が解脱を願い仏教によりかかった。

 しかし、もう解脱した世界を享受している人たちは、即身成仏を願う。ここに密教が生まれ、曼荼羅絵や、華麗な菩薩像が生まれる。

 それが証拠の多くの菩薩像は、宝石や宝冠をいただき、耳にはイヤリング、手にはブレスレットをまいている。現生の贅沢をこれ以上にないほど纏ってこの世に現れてくる。

 まだ知らないが、このころのインドではどんな暮らしが営まれていたのか、大いに興味がつきない。

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| 古本読書日記 | 05:14 | comments:0 | trackbacks(-) | TOP↑

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司馬遼太郎    「酔って候」(文春文庫)

 幕末の混乱期、幕府壊滅のための志士を多く抱えたときの藩主の対応を描いた中編集。
土佐、山内容堂、薩摩 島津久光、宇和島 伊達宗城、肥後 鍋島閑叟の有力藩主を描く。
 本のタイトル「酔って候」は、大酒飲みの山内容堂について描いた作品。

 新聞を3紙毎朝読んでいる。言葉が大切、本や新聞を読まない人たちが増加し、この傾向は危険と声高に新聞は叫ぶ。しかし平和が大切とか、国民的議論をするべきとか、交渉によって解決する努力をすべきとか、決まり文句だけが踊り具体的に何をして解決するのか方法は示さない。誰も反対できないような言葉をちりばめて、正義顔しているだけ。

 そんな空疎な主張や記事では読む人たちが減っていくのは当たり前。きれいな言葉を羅列して、何も解決に到達しないむなしい遊びから脱却しないと、新聞は本当に見放されるのではないかと毎朝ため息をつく。

 この作品では、肥後の鍋島閑叟にシンパシーを感じた。

閑叟は幕末、口角泡をとばして、天下を論じる志士や藩主たちに辟易。もう、彼の領地の長崎には多くの海外の艦隊がきている。隣清国は、欧州の列強に踏み荒らされている。そんなときに、尊王攘夷だとか、無意味な議論をしている場合ではない。

 彼は日本で初めての戦艦を建造する。最新式の銃を輸入して、配下の武士に持たせる。砲門を築き外敵に備える。
 その費用を長崎を通じて、貿易することで得る。

彼は問う。頼朝と清盛でどちらをとるか。みんな頼朝をとる。しかし閑叟は清盛だという。
 「清盛は貿易を開き世を富ませようとした。」と。

そして、武士とは何かについて言う。
 「世間に横行している二本差しの侍まげは、あれは当人は武士だとおもっていても、実は300年前の武士の亡霊で、武士とは言わぬ。
 武士とは戦いに勝てるものをいうのだ。今佐賀藩百人と他の武士千人と合戦してみよ。佐賀藩が勝つのに四半時かからぬ。」

 日本もいつからか、ビジネスプロセスやリーダーのありかたを議論することばかりになり、空論がとびかいその間に経済的地位が落ちた。戦略とは現実を熟知しそこからの飛躍だ。

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司馬遼太郎   「歴史と風土」(文春文庫)

 司馬遼太郎全集のために語り下ろしたものを中心に集めたエッセイ集。司馬の名作についての物語の背景や、想いが描かれる。

 仏教はお釈迦様が始めたことは言うまでもない。そのお釈迦さまが亡くなって、火葬を行い、その骨を、お釈迦様の遺体の一部としてみんな大事にすることはあったが、しかしお釈迦様のお墓がどこにあるかということには誰も関心がない。つまり仏教はお墓とは関係が無い。死ねば全部空となる。霊魂というのは仏教には存在しない。

 だから、法隆寺でも東大寺でも葬式が行われることはない。

空ということがよくわからない。仏教には空という概念はもともとない。空とはインドで初見された0ということである。人間は0から生まれて、やがて亡くなり0に帰る。

 戒名ということも仏教にはない。
墓地はヤマト時代には古墳で大掛かりだったが、奈良朝廷により火葬にしなさいというお達しにより遺体を埋葬することはほぼ無くなる。そして墓地も簡素で規模も小さいものになった。

 お寺の斡旋で墓地を創ると100万円以上する。戒名代も20万円からとられる。
 すべては、本来の仏教とはかかわりなく、お寺を儲けさせるためにしていることである。

こんなふうに、司馬は怒っている。

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| 古本読書日記 | 06:28 | comments:0 | trackbacks(-) | TOP↑

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司馬遼太郎   「馬上少年過ぐ」(新潮文庫)

 短編集。タイトルになっている作品は、伊達藩主で名君の誉高い、伊達政宗の生涯を描く。

司馬遼太郎の短編を含めた作品は、残存している史料に従って描かれる。もちろん司馬自身の想像も多く含まれるが、史実、史料を逸脱することは避けるため、どうしても作品の切れ味がやや欠ける。

 それでも、まれなのだがこれは鋭いと思う作品にであうことがある。その場合は、現代社会の矛盾、摩擦を歴史物を通して描いた作品の場合である。

 この作品集では「重庵の転々」である。

重庵は南伊予の山の中の村、深田で医者をしている。土佐から入ってきたが、今の自分の状況に不満で、いつか武士になり、そこで立身出世することを強く望んでいる。伊予は四国でも有力の藩だが、幕府は、そのうちの宇和島を中心として十万石の藩を分割する。分割してできた藩は仙台伊達藩の支藩として、伊達藩より藩主を含め統治者がやってきた。この宇和島藩には4人の男子がいたが、長男、次男が亡くなり、結果三男が継いだが、四男が可哀想ということで、小さい藩にもかかわらず、宇和島の隣の吉田町を分離して、三万石の藩を作り、四男宗純が藩主となる。

 この宗純が、背中に肉腫ができる病気になる。いろんな医者が治療してみたが、治癒できず重庵に治療の要請がくる。これを見事に快癒させ、重庵は侍医として吉田藩に抱えられる。

 さらに流れてきた剣術師との果し合いに、吉田藩の武士がたたきのめされたが、重庵が剣術師を打ち殺す。そして打たれた味方の武士を、てきぱき治療しけがをなおす。

 この結果武士に抱えられ、しかも一気に藩主の側近家老に就く。
 重庵は、山を削り、海を埋め立て、耕地を拡大し、結果藩は財政難から脱する。同時に高禄を食んでいる4人の以前の側近の地位をめしあげ、彼らの家を取り潰す。

 重庵は、自分こそ吉田藩を立て直した功労者と自負。全く周りが見えなくなっていた。そして、彼は前の家老が住んでいた大屋敷に住む。それ以前は小さな平屋に住んでいて。大屋敷に移るのはやめたほうがという側近もいたが、一切耳をかさなかった。

 ここから転落が始まる。

 今では盛んにおこなわれている希望退職という首切り。どの会社でも部門別に首切り数のノルマがある。これを冷淡に断行して、その成果を踏み台にして出世の上昇運に乗る人がいる。重庵がその典型だ。そして天下をとったように実行者はふんぞり返る。

 「希望退職募集」というのが一番会社をゆさぶる。しかしその後遺症はずっと続き、会社を腐らせてゆく。

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| 古本読書日記 | 07:15 | comments:0 | trackbacks(-) | TOP↑

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司馬遼太郎   「戦国の忍び」(PHP文庫)

 忍者というのは、伊賀甲賀のまわりの国から3歳くらいの男の子を買ってきて、上忍という庄屋も兼ねている者から修行を受け、10歳くらいで物になると判断されたら、下忍として抱えられ忍者となる。厳しい修行に耐え抜いて忍者となるのは10人中2人程度。

 忍者雇用の要請は上忍のところにくる。上忍は、要請内容に応じて下忍から選出し藩に派遣する。その任務が終了すると、また伊賀や甲賀の里にもどり、百姓小作として働く。

 上忍は藩より雇用給金を入手、その中からわずかなお金をぬきだし下忍である忍者に与える。
 小作と給金だけではとても家族は養えないため、忍者は生涯独身で過ごす。ある年齢に達し、忍者ができなくなっても、上忍は年金のような小金を支給して生活を支えてあげる。

 忍者は映画やテレビなどで、恰好よく描かれるが、実態は最下層の暮らしを生涯続ける辛い身分である。

 徳川家康は、敵の調査や攪乱のため忍者を多用した。姉川の合戦や関ヶ原の戦いで服部半蔵率いる伊賀忍者200人を使い、戦を勝利に導いた。

 その忍者の貢献に報いるということで、200人は直参の武士として雇い入れた。そしてそのリーダーは服部半蔵が継続してなった。

 直参だから俸禄は個々の忍者に徳川幕府が直接支払う。半蔵が亡くなり、リーダーを息子の小半蔵が引き継ぐ。
 この小半蔵がひどく、部下である忍者たちに嫌われる。その対立が激しくなる。小半蔵は部下の忍者に殺されるのではないかと不安になり、忍者たちをしめあげる。

 年がら年中屋敷の普請を行うのである。普請作業をする忍者たちには給金は無いどころか、普請用の材料費まで忍者に負担させる。

 これでは忍者は江戸での暮らしが成り立たない。さりとて、伊賀に帰ってもみじめな暮らししかない。それでヒダリという忍者をリーダーにして小半蔵を殺害することが計画実行される。忍者版「忠臣蔵」である。

 殺害実行の前に、忍者たちは幕府にいかに小半蔵の行為がひどいかを訴える。
通常はこんな訴えは無視されるのだが、幕府はこの訴えを取り上げ、小半蔵を最後に服部家を潰す。忍者側はリーダーのヒダリが死刑になったが、他の忍者は無罪放免となる。

 司馬は昭和30年代にこの小説集を書いている。当時彼は小さな新聞社に勤めていたが、どんなにスクープ記事を書いても、記事は無記名で単なる物になってしまう。評価もされず、こきつかわれるだけ。その悲惨な状態をこの物語集に込めた。

 しかし、我々が現役のころは、上司への批判を直接上司の上司に訴えることはありえず、またそんなことをすれば自分を滅ぼすだけ。

 忍者が幕府に直訴するようなことは、昭和30年代の職場ではありえなかった。今は、パワハラとかモラハラなんて言葉が流行して、訴える道は細いながらできるし、対応を間違えれば、訴えられて上司が、その身分を破滅させられるようにもなった。

 江戸時代、昭和30年代から比べれば、状況は変わってきた。

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| 古本読書日記 | 07:12 | comments:0 | trackbacks(-) | TOP↑

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