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2020年01月 | ARCHIVE-SELECT | 2020年03月

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司馬遼太郎   「街道をゆく25 中国・閩のみち」(朝日文庫)

 中国の閩とは、今の福建省のことである。旅行にしても、仕事にしてもあまり馴染みが無く、行ってみたいと思うところではない。頭に浮かぶことは厦門という大きなまちがあり、工場を誘致して、日本企業や台湾企業が多く進出していることと、台湾に近く、台湾内省人として福建省出身の人が多いくらいのこと。

 司馬はこの福建省を訪ねたいという願望を持っていた。

中国の古代中世の貿易といえば、シルクロードが浮かぶが、貿易といえば盛んなのは、シルクロードではなく、やはり船を使った貿易である。福建省は長いリアス式の海岸線があり、泉州という良質な港がある。マルコ・ポーロガ2か月滞在。その繁栄している港に驚いたと「東方見聞録」にも描いている。

 泉州は主にアジアの国々との交易場所だった。そして、特に宋の時代は日本との交易の窓口だった。日本での交易の港が堺。堺はそれで「泉州堺」と呼ばれた。

 福建省はその昔日本との結びつきが強かったのだ。だから司馬は福建省に行きたいと渇望していたのだ。

 中国は漢の時代を含め、上海より南、福建省を含めて漢民族が住む地域ではなかった。越、ベトナムから広がった民族の住む土地だった。越は、漢民族に圧迫され、福建省から逃げる人々が多かった。そんな人たちが舟で日本にわたり、農耕を行い定着させた。司馬は日本人の多くが、この福建省からやってきたと考えている。

 福建省は陶器の産地として有名。ここで造られる天目茶碗は、宋の時代、日本では室町時代に大変流行し持ち込まれた。天目茶碗とは、小型のすり鉢型の茶碗。特に曜変茶碗は貴重で日本では4点が確認され、うち3点は国宝になっている。

 漱石が坊ちゃんで、道後温泉の3階で休んでいるとき、女給が天目に乗せた茶碗でお茶をだしてもらう場面がある。司馬はそれを読んで、こんな田舎でも天目が使われていたのかと驚いたとこの作品で書く。

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司馬遼太郎   「侍はこわい」(光文社文庫)

 司馬の描いた多くの大長編小説の前段階として簡単にエピソードをまとめたような短編集。それぞれの主人公は実在した人物と思われるが、歴史上に名を残している人物ではない。

 その中でも「みょうが斎の武術」の主人公であるみょうが斎は思わずその通りと手をうちたくなるほど魅力的人物だ。

 幕末のころ、大阪鰻谷に剣の達人である和州浪人・久富源五郎という浪人武士がいた。街の人は源五郎とは呼ばず、みょうが斎と呼んだ。いつも部屋ではなく、土間に眠っているからである。

 家主の藤兵衛に対してみょうが斎が、彼の剣術について話しているが、その剣法が面白い。

「われの剣法はてんねんじねん流。在来の剣法というものは、道場に神号をかかげ、祭壇をつくり、神酒をそなえて、おのれが神になることをのみねごうた。これは大ちがいでな。剣法というのは犬猫畜生にならねばならぬ。犬や猫こそ、剣術使いの理想じゃ。たとえば、猫を見よ。
 猫は敵のまだ襲わざるときに、いちはやく予見して遁げだす。獲物を見れば呼吸(いき)をしずめ、氣をくらまし、一尺の近さまで接近して電光石火にとらえる。就寝中、人が近付けば、毛の先で相手の害意の有無をさとり、屋根より蹴落とされても、軒先で一回転して、軽く地上に立つ。
 人は大昔は、猫のごとくであった。習わずして、猫の性をそなえておった。着物を着、住居に住むにおよんで、猫の性を失のうた。剣法というのは、うしなわれた猫のさがをとりもどす術でなくてはならぬ。猫をよびもどすには、まず土のうえで寝る。土氣を吸う。」

 家主藤兵衛が家から去ると、おもむろにみょうが斎も家をでる。

ひょいと軒のひさしをつかむ。そのまま腕一本に力をいれると、眼にもとまらず体が宙にはねあがり、屋根瓦の上にのった。やがてスラスラと屋根の上を這い走り、ごろりと身を横たえたとたんに、ころころと体が落下してくる。加速度のついたみょうが斎の体を屋根が吐き出すと、きらりと閃くように空中で半回転してストンと地上に降り立つ。

 面白いと思ったが、どこに剣や槍などを使う術法があるのか首をかしげた。

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| 古本読書日記 | 06:26 | comments:0 | trackbacks(-) | TOP↑

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司馬遼太郎   「街道をゆく13 壱岐・対馬の道」(朝日文庫)

 江戸時代、朝鮮と琉球王国は正式に国交のある「通信国」として扱われた。一方中国やオランダは国交はなく「貿商国」として扱われ国交は無かった。

 1392年に朝鮮が李氏朝鮮に統一され、日韓併合まで続く。李氏朝鮮は中国同様の中華思想を基礎におく。この思想は、世界で最も優秀な民族、国家は朝鮮で、あとは野蛮人の国であるという考え方。流石に中国は巨大だから、自分たちは小中華と称した。当然日本は下等な野蛮国家として扱う。

 朝鮮通信使は室町時代から行われていたが、秀吉の朝鮮出兵で国交は断絶し、交流は行われなくなった。しかし秀吉との戦争で多くの捕虜が日本に連れられてきた。彼らを解放させるために、李氏朝鮮から代表団を日本におくり、幕府と交渉する。ここから、朝鮮通信使が再開する。

 朝鮮と幕府の仲介をしたのが宗氏の対馬藩。従って江戸へのルートも対馬に入りそこから江戸に向かう。そして将軍に謁見する。

 日本は江戸への入京を許したが、日本から派遣された通信使は、日本を低く遇するため、釜山までしか行かせなかった。

 13世紀から16世紀にかけ、中国、朝鮮沿海では、倭寇という日本の海賊が略奪行為を頻繁に繰り返し、中国朝鮮を悩ませていた。李氏朝鮮では、これは対馬藩が貧しくて食えないからと考え、対馬藩に毎年200石のお米提供と、通商貿易を認め、更に宗氏に対し、李氏朝鮮の官僚に任命(実際には何の仕事も無かったが)辞令を発布した。

 第二次大戦が日本敗戦で終了する。韓国を支配した李承晩大統領は、李氏朝鮮の対馬に対する対応を背景に、当時日本を統治していたアメリカに対し、対馬は韓国領土であることをしつこく主張。これはダレス国務長官により退けられたが、日本は属国、野蛮国の位置付けはずっと続いており、この優越的思いが何かにつけ韓国では発生する。

 司馬は日本に対する優越思想を貫いている韓国との善隣友好は困難だろうと、この作品で言う。

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青木祐子   「派遣社員あすみの家計簿」(キャラブン!小学館文庫)

 飲食店会社社長であると偽っていた恋人理空也に結婚しようと言われ了解し、勤めていた大会社を寿退社した主人公のあすみ。結婚後、広い部屋が欲しいとマンションに引っ越す。費用はすべてあすみ持ち。

 ところが理空也は単なるフリーターとわかり、結婚どころではなくなる。部屋代9万2千円が引き落とされると銀行残高がたった428円となる、

 友達仁子の指示でハローワークへ行ったり、派遣会社にも登録。そこでの仕事を待っていたら生活できないとアルバイト求人雑誌で日雇いの仕事をする。

 シャンプー配り、倉庫作業、絵画展の受付など。

 シャンプー配りで一緒になったミルキーという女の子が素晴らしい。ミルキーは中卒。ずっとアルバイトで暮らしている。飾らず、ストレートな物言いの性格に、あすみも大卒、大企業勤めだったのにとじくじく悩むわけにはいかなくなる。

 目指していた派遣社員。2度とも縁がなかったと言われ派遣かなわず。その夜、元会社の同僚の子に誘われ合コンをする。
 ダメな自分に嫌気がさし、落ち込んであすみはミルキーにメールする。

ミルキーへあすみ
明日のシャンプー配り代わってくれない。
もう飲みすぎで、死にそう、吐きそう

いいよ代わるから、死ぬのはやめなよ

いま目黒なの。これから帰るの面倒くさすぎる。
女子にむいてないかも、わたし

むいてないって言ったって、女子じゃん


こんなミルキー。あすみが派遣社員に受かったとき、バイト仲間や友達の仁子とともに祝い会をあすみの部屋でやる。

 ミルキーはやって来ないんじゃないかと思ったが、やってきた。ドアの前に緊張して立って、はいこれ「お祝い」と言って手渡したのがポッキー。じんと読者がする瞬間だ。

 あすみはこのポッキーを食べずに、大事な宝物として机に飾ったままにしてある。

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今村夏子    「星の子」(朝日文庫)

 主人公のちひろは、生まれたときから病弱。しろいうんちをしたり、湿疹が全身に発症、あらゆる病院で診てもらい治療を受けたのだが全く効果がない。弱った父親は、会社の先輩である落合さんに相談。落合さんは「金星のめぐみ」という特別な水を持参し、この水は水自体が生きていて、これを水道水の代わりに使えばすごい効果を発揮するから使ってみたらと言う。

 そして、その水を息子ちひろのためにありとあらゆるところに使うと、4歳になるときには、すべての症状が消え健康な体になる。
 このことに感動した両親は、その奇跡の水を扱っている宗教団体を信じ込み入会をする。

 そうして両親は、奇跡の水でしめらしたタオルを頭にかぶせるという奇怪な行動を家だけでなく外の公園でも行いだす。

 宗教団体というのは一旦信じ込んでしまうと、脱会することは難しい。むしろどんどんのめりこみ、執拗に他人に入会するよう迫る。自分たちの行動が、常識からいかにはずれていようがお構いなし。

 宗教が生きることのすべてとなることはすさまじい。ちひろにはまーちゃんという姉がいるのだが、宗教を嫌って家出をして全く帰ってこなくなる。それで、両親は心配して揺れ動くかと思ったら、すっぱりとまーちゃんのことは諦めて、揺らぎは全く起こらない。

 雄三おじさんが、目覚めろとちひろの両親を繰り返し説得するが、全く効かない。それで、雄三おじさんが、奇跡の水を捨て、公園の水と入れ替える。それでも奇跡の水だと思っている両親は頭から水をかぶったり、濡れたタオルを頭に乗せ、暖かくて気持ちがすっきりするとうるんだ瞳で水にひたる。

 それが普通の水だとわかると、おじさんに発狂したように襲い掛かり出入りを禁止する。

主人公のちひろは、学校では孤独となる。あの両親の子とはつきあってはいけないと家で言われるから。それでも、まっすぐでめげないちひろは、少ないが友達もできたり、恋もどきもする。そのちひろの言動が生き生きと描かれる。

 でも、毎年行われる宗教団体の研修会が楽しみ。そこには、たくさんの友達がいる。宗教的なことも行われるが、それがあっても貴重だ。

 ちひろがこれからどうなるかわからないが、揺れながらそれでも生きるよりどころは宗教団体になるのだろう、人生のすべてが宗教しかなくなるから。

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司馬遼太郎   「街道をゆく5 モンゴル紀行」(朝日文庫)

司馬遼太郎には、「草原の記」というモンゴル紀行を扱った別作品がある。その作品では、モンゴルからベトナムに贈った馬が、ベトナムからモンゴルまで自分で帰ってきたというくだりがあってとても驚いた記憶がある。

 この作品は1973年にモンゴルを訪れた紀行記だ。当時はまだ東西冷戦の最中。モンゴルはロシアに続いて世界二番目に社会主義国になった。数か月前に日本と国交を樹立。まだ大使館設立準備の段階だった。更に、モンゴルは中国と国境紛争を抱えていて、中国経由でもではモンゴルにはいれず、ソ連経由しかなかった。地図上では近い国なのに、実にモンゴルは遠かった。

 この作品でもモンゴルのウランバードルに入るまで99ページも費やしている。まず新潟からハバロフスクに飛び、そこで貧相でサービス最低のホテルに泊まり、そこからシベリア中心都市イルクーツクまでゆきそこで宿泊。そしてやっとウランバードル行きに乗る。

 当時のモンゴルの飛行機は有視界飛行。だから、雨や曇りだとたちまち欠航となる。この作品ではウランバードルからゴビ砂漠にゆく。驚いたのは、飛行場らしきものはなく、砂漠に飛行機が着陸して、宿泊するパオの前で止まる。他には絶対無い。ホテル前に飛行機が止まるなんてことは。

 着陸するとき、パオの周りに馬が数十頭いた。すると操縦士が操縦席の窓をあけ、「馬が邪魔だ。どかせ。」と声をあげる。

 モンゴルは騎馬民族。従って野菜など植物は食さない。しかし大丈夫。駱駝や馬、ヤギの乳を大量に飲む。これらの家畜は自然の草木を食し、乳のなかにビタミンがたくさん含まれているからだ。日本のように飼料や枯れた藁ではだめだ。自然の食物を与えるからビタミン欠乏にならないのだ。

 驚いたことに、ホテルの食堂で司馬が食べたラム肉に少しだが野菜がついてきた。そこで司馬がガイドのツェベックマさんにこの野菜は何かと聞く。

 するとノゴだと答える。ノゴはモンゴル語で野菜という意味。それで司馬が、野菜であることはわかる。何という名前の野菜かと聞き直す。

 するとツェベックマさんが答える。「ノゴガンとも言うのよ。」さらに「アヘ・タリヤンとも言うわ。」と。
 司馬が何だろうと部屋に帰り辞典でしらべる。
いずれも「野菜という意味」と書かれている。

 騎馬民族では、動物はそれぞれに名前があるが、野菜に名前などつける必要は無いのだ。

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司馬遼太郎  「湖西のみち、甲州街道、長州路ほか 街道をゆく1」(朝日文庫)

 全43巻もある「街道をゆく」シリーズの最初の作品である。全編司馬のこのシリーズにかける意気込みがみなぎっている。

 長州人は多士済々である。吉田松陰、乃木希典、河上肇、高杉晋作、山県有朋、寺内正毅、宮本顕治、佐藤栄作、それにここに並べていいのか躊躇するが、安倍晋三首相。

 長州人は、切れ味はするどいが革命や政治をするには怜悧すぎ、多くの人にかつがれてリーダーとして指導力が発揮できる人はいないと司馬遼太郎はこの作品で言う。

 何となくあたっているように思う。

「日本書紀」「古事記」は神代の時代から描かれているので、最初の記載部分は、かなり神がかり、全く信頼できないものだが崇神帝のあたりから、現実味がでてくる。

 出雲族という種族があったが、実態は影のようでよくわからない。今は出雲といえば地理的名称になっているが、種族名であったにちがいない。そして、出雲族の活躍の中心は島根ではなく、大和盆地であった。

 大和朝廷以前、大和は三輪山や葛城を背景にして、稲作でミワ族とカモ族が共存していた。カモ族の活動の地は地名で残る。鴨川、下賀茂、蒲生というように。

 この平和な土地に突然崇神帝が屈強な武装集団を率いてあらわれる。ミワ族もカモ族も戦闘ということを知らないし、簡易な農作業用の器材しか所有していなかったから、わずかながらの武装集団が、彼らを征服することは容易だ。

この崇神帝の名前は、ミマキイビリコという。このミマというのは、南朝鮮の任那国のこと。

 崇神天皇は任那の騎馬民族として日本にやってきて、大和農耕民族を征服したと歴史学者江上波夫は主張する。そして、司馬もこの説で間違いないとこの作品で言う。

 こうなると、日本の天皇は朝鮮からやってきたことになる。
こんなことを今言うと、韓国の人たちがそっくりかえり日本にたいしいばりそうだ。
できるだけ黙っておこう。

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司馬遼太郎  「台湾紀行 街道をゆく40」(朝日文庫)

 台湾紀行だが、台湾の特徴が、あまり実感を伴って迫ってこなかった。

司馬が台湾にでかける前に、十分な知識と思考をまとめていなくて、台湾関係の書物を携帯して、旅行と並行してそれらを読み、あまり咀嚼なしに、紀行記が書かれているからだと思う。

 仕方ないとは思うが、旅程に従って紀行文が書かれるから、時代が前後したり、話題が飛び見聞が未消化のまま終了してわかりにくい。

 主な内容が、日本との関わりについての話が多い。だから、その事柄に関わった日本人がおおく登場する。司馬はその日本人について詳しいし、事前によく調べている。そうなると、その日本人についての描写、歩んできた人生に対する記述が長くなり、台湾での出来事がつけたしのようになってしまっている。

 例えば、嘉義農林学校の甲子園野球大会の活躍がすごかった。と始まるのだが、その後甲子園球場は大正13年甲え(きのえ)の子の年にできたから甲子園という話題に移り、嘉義農林高校の活躍した姿は描かれない。唯一その時遊撃手だった上松少年の今の姿の描写とその高校の野球を上松が指導したという指摘のみ。

 日本の教育に音楽を科目にすべきと主張して東京芸大音楽取調掛を創設した伊沢修二のことが詳しく書かれている。伊沢は長野県高遠藩の出身。ハーバード大学で理化学を学んだ、理系の人物である。

 アメリカでの理化学の現場をみてこう思う。
「人間は一個の精神の中に、子供と大人を同時に持っている。子どもの部分で恋をかたり、芸術に接し、科学技術や芸術を創造する。」

 その信念のもとに、子供に対する音楽は重要として、小学唱歌を編集する。その音楽は西洋のものが優れている。特にスコットランドの歌を編集作品に多くいれた。「てふてふ てふてふ、菜の葉にとまれ」もスコットランド古曲に詩をつけたものだ。

 その後、伊沢は志願して台湾に行く。そして、同じ教育をする。だから台湾の古いひとたちは今でもなつかしく日本唱歌を歌う。

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司馬遼太郎   「郡上・白川街道・堺・紀州街道ほか 街道をゆく4」(朝日文庫)

 飛騨から山峡を経て富山までいたる街道と堺・紀州を歩き著した紀行記。

篠山を旅している。

 ここはあまり目立った活躍のない篠山藩がおさめていた。篠山城主は江戸初期には頻繁に変わったが、青山氏が藩主になってからは、維新まで青山氏が続く。特に戦功はなかったが、実直な性格の城主が続き、特に家康の近習を務め、それが認められ代々徳川将軍の養育係をつとめた。

 豪傑のリードにより藩を治めるのではなく、典型的な官僚型統治だった。

青山が少し歴史上に名がでるとしたら、一つだけ。

 家康が江戸にはいったとき、青山氏に、馬でここを駆けろ。その駆けた土地をすべておまえにあげるという。
 青山氏めいっぱい草原を駆ける。

 その結果、広大な土地を手に入れる。その土地が今東京で青山という名前になっている。 

 名もない小藩だったが、江戸屋敷はどの藩より大きかった。

 ところでこの紀行記では、京都で造られるお惣菜、おばんざいを「お晩菜」と表記しているが、「お万菜」や「お晩菜」という表現もあったと思う。
 どうちがうのだろう。少しひっかかったままでいる。

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