石井洋二郎 「パリ 都市の記憶を探る」(ちくま新書)
パリはセーヌ河をはさんで、右岸と左岸に別れる。そして、その街の特徴が対象的に異なる。「保守/革新」「古典/前衛」「ブルジョア/庶民」「経済/文化」「金銭/芸術」というように。
しかし、パリジャンにとっての橋とは何だろう。
詩人、ギョーム・アポリネールの詩「ミラボー橋」では、「日々は過ぎ去り、私は残る」のフレーズが4回にわたり繰り返される。
何となく、橋は人々が通り、渡るためだけの存在ではないように思えてくる。
フローベールの最高傑作「感情教育」で、フレデリックがコンコルド橋でたたずむ。足下にはバスティーユ監獄の石があり、目の前の広場では、国王がギロチンにかけられた。
「月の面を暗い雲が走って過ぎた。彼は、宇宙の広大さ、人生のみじめさ、いっさいの虚無にうたれつつ、その月をじっと見上げた。・・・なぜひと思いに命を絶ってしまわないのか、と心に問うのだった。ひとつ身動きすればそれでいい。・・・自分の死体が水の上をただようところが目に浮かぶ。フレデリックは前にかがみこんだ。欄干の幅が少し広い。それを乗り越えなかったのは、ただもう体が疲れていたからに過ぎなかった。」
橋。その中間にたって流れる川を見つめる。それは、希望と絶望、期待と挫折、そして生と死、二項対立のはざまで宙ぶらりんの未決定状態になっているフレデリック。左岸でも右岸でもない場所、両者を媒介する橋の上で、欄干をとびこえられずに失意の底に沈んでゆく。
そう、橋は、人生の悩みのなかで、思い悩むためにたたずむ場所であってこそ、ふさわしい。
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| 古本読書日記 | 06:05 | comments:0 | trackbacks(-) | TOP↑