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2019年05月 | ARCHIVE-SELECT | 2019年07月

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恩田陸   「蜜蜂と遠雷」(下)(幻冬舎文庫) 

 この作品は、恩田7回目の挑戦で念願の直木賞を受賞している。しかも同時に本屋大賞も受賞。恩田は、「夜のピクニック」でも本屋大賞を受賞していて、2度目の本屋大賞受賞。こんなことはかって無かった。

 この作品には4人の際立ったコンテスタントが登場。彼らのどの演奏も恩田の卓越した表現力で読者は素晴らしさを満喫できるが、それでも存在感は圧倒的に風間塵にある。

 風間塵がどんな行動をして、次にどんな曲を選択、どんな驚愕な演奏を披露するか、その興味と興奮が読者を引っ張ってゆく。

 彼が師事し、芳ケ江国際ピアノコンクールに送り込んだ、逝去したばかり巨匠音楽家のユウジ・フォン・ホフマンが彼に言っている。
 「狭いところに閉じ込められている音楽を広いところに連れ出せ」と。

 殆どすべての演奏者は、作曲家の意図を理解して、曲の方に自分を引き寄せて行く。作曲家が何をそのときイメージしていたか、当時の時代風景や、作曲家自身が何からインスパイアされたのかを調べ、作曲家のイメージにできる限り近付こうとする。

 しかし風間塵は全く異なる。曲を自分に引き寄せようとする。というより、曲を自分の世界の一部にしている。曲を通して自分の世界を再現する。

 コンクールの審査員をしている一流音楽家たちは、クラシック音楽の伝統的岩盤の視点から審査をする、その伝統を破壊する演奏は、強く拒絶する。

 しかし、困ったことに、風間塵の演奏をもう一度聴きたいという衝動に襲われる。彼を落としてしまうと、最早彼の演奏を聴くことはできない。
 その逡巡が、何とか彼の予選通過を実現させる。
そして、恩田はクライマックスでとんでもない衝撃を創る。

 第3次予選で、風間塵は大きな曲の初めと途中にエリック・サティの「あなたが欲しい」を差しはさんだ。同じ曲を何回も弾くことは、ルール違反になる可能性が強い。

 第3次予選の審査結果の発表がなかなか始まらない。結果発表を待つ間に聴衆に「失格者がでたらしい」との噂が流れだし、だんだん大きくなる。

 ここを読んで、私は衝撃を受け胸が縮んだ。失格になるとしたら風間塵しかありえない。風間が最終本選に行けない。コンクールのクライマックスは最終本選。そこに風間がいないなんて気の抜けたビール状態になってしまう。

 そこで、遅れに遅れた審査発表。固唾を飲みながら読み進む。そして失格者は別のコンテスタントで、風間塵は最終本選に残る。まったく脅かさないでよ恩田さん。

 最終本選は、結果発表場面はなく、審査員だった元夫婦の、イサニエルと三枝子のバーでの場面に切り替わる。
 だから結果はわからないが、風間塵が3位だったことだけが明かされる。

 そして、最終シーンは夜明けの砂浜にいる風間塵である。音楽、ミュージックは、神々の技ミューズが語源である。そして風間こそが、ミュージックであると高らかに宣言されて物語は閉じる。やはり、この作品の主人公が風間塵だったことを再確認して幸一杯の気分で本を閉じる。

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恩田陸    「蜜蜂と遠雷(上)」(幻冬舎文庫)

 私は現在袋井に住んでいて、浜松の会社まで通っていた。浜松はオートバイと楽器の街で、浜松市主催で国際ピアノコンクールが3年に1度開催されている。

 作者恩田さんは、第6回の浜松国際ピアノコンクールから4回、全スケジュールを鑑賞しこの作品を仕上げたそうだ。全日程は2週間ほどあり、これを4回鑑賞するとはその情熱に感心した。

 この小説は上下巻にわたる大長編小説なのだが、全編が第6回芳ケ江国際ピアノコンクール予選から本選までを描き、他の描写は殆ど無いという特異な小説になっている。

 この小説によると、私にはそんな印象は無いのだが、オーケストラやクラシック音楽の市場は毎年減少していて、年齢層の高い人たちには固定ファンはいるが、若い層ではクラシックを楽しむ人たちは殆どいないそうだ。

 ピアノコンクールは、町おこしには効果があるということで、最近著名なコンクールだけでも56もあるそうで、無名なコンクールを入れれば、100以上はあるだろう。

 やはり、ピアノを習う層が岩盤のように厚くいて、多くの練習生がそこからピアニストを目指そうとしているからだ。
 しかし、ピアニストとして生活ができるのは、ほんの少し。殆どがピアノ講師などをしてコンクールを目指す。

 無名のコンクールでは、コンクールに係る一切の費用、新聞広告やチラシなどの費用も主催者に負担させられて持ち出しの場合が殆ど。

 市場縮小のあおりを受けて、CDの作成販売は殆どなされることは無い、もしCD制作販売があれば殆ど自主制作になる。

 この物語では、いろんな人生を歩んできた4人のコンテスタントが登場する。

  今までのピアノ演奏家の殻を破り、完全に自由で独創的な演奏をする風間塵、天才少女としてデビューしたが、母の死で全くピアノを弾けなくなった栄伝文亜夜。ピアニストを諦め楽器店に勤務している高島明石。完璧な技術と優れた音楽性を持つ優勝候補のマサル。

 クラシック界は、自由で独創的な演奏をすることを嫌う傾向があり、また誰に師事しているかで評価されるという伝統的に固定化された古い体質がある。

 この4人のコンテスタントの中では、風間塵が圧倒的に聴衆、読者も魅了しているし、恩田さんの表現も風間の部分に圧倒的に力が籠っている。

 しかし、審査員の評価は極端に分かれ、やっとのことで第一次予選を通過する。
まさか、恩田さん風間が2次、3次予選で落選させるなんてことはないでしょうね。祈りながら下巻に進む。

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小杉健司   「検事・沢木正夫 自首」(双葉文庫)

 18年前、女子大生だった岡林さやかがアパートの部屋で殺害される。懸命の捜査でも犯人はみつからず、ほぼ迷宮入りの状態になっていた。

 ところが、驚くことに突然梶川という男が自分が殺害者だと警察に自首してくる。さやかの両親が、警察の捜査が終わりこのままでは犯人はでてこないとチラシを街頭で配布する姿をみて、懺悔の気持ちが強くなり自首したのだと梶川は言う。

 なぜ今頃になって自首する?5年前にたったひとりの家族だった母親が認知症になりその介護をしていたが、その母親が亡くなり自首に足かせとなるものが無くなったからだと言う。

何となく変だと検事の沢木は思う。母親が認知症になったのは5年前。それ以前だったらいつでも自首できた。事件直後に自首していたら、死刑はなく、10年の刑が妥当となり、母親が認知症にかかったころには出所していることになる。

警察は、被害者の部屋にあった両親の写真たての指紋と梶川の指紋が一致したため、犯人は梶川であると断定して、梶川を検察に送致しようとするが、沢木はそれを止めようとする。

そのうちに不思議なことだが、学生時代さやかの親友で、今は老舗レストランの社長夫人になっている南亜矢が、梶川は全く要求しないのに私選弁護人として徳大寺逸郎を任命する。

梶川の18年後の自首。南亜矢の弁護人の任命。残された指紋が梶川と一致。この難問が沢木によりどう解明されてゆくか。

謎解きだけでなく、それぞれの人物の背景もいつものようにみっちり描かれ、読み応えのある小説に仕上がっている。

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石井好子   「バタをひとさじ、玉子を3コ」(河出文庫)

 名エッセイ「巴里の空の下オムレツのにおいは流れる」から続くお料理エッセイシリーズの一冊。

 ヨーロッパから帰ってきた友人が石井さんに言う。
「フランス人ってケチですね。レストランで驚いてしまいました。肉か魚にかかっているソースをパンにつけて、まるでお皿をふきとるみたいにして食べるんだから、けちくさいし行儀もわるいな。」

 最近では日本人もフランス人をまねて多くの人が皿の残りをパンにつけて食べる人が多い。

 フランス人は確かにけちである。流行の発祥地にも拘わらず、着ている服は地味だし、食品も安いものを求めて行列までするし、石井さんが親しくしていた売れっ子歌手でも、無駄使いはしないで貯金をしていた。

 そんなフランス人でも、食べることにはぜいたく。しあわせは食事から生まれることを信じている。それでも、確かにフランス人は、皿に残ったソースをすべて食べてしまう。

 ドーバーで獲れた舌平目を、何日かかけその昔パリまで馬車で運んでくる。パリに到着した時には殆ど腐りかけている。

 こんな材料をどのようにして美味しい料理にするか。腕によりをかけて料理名人が料理する。魚に塩コショウして、レモン汁、バタ、白ワインをふりかけ蒸し煮にする。魚を取り出し、皮と骨を取り除く。残りの汁を漉して、それでおいしいソースを作る。

 煮汁に玉子の黄身またはチーズ、生クリームなどを加え仕上げる。

 フランス料理の決め手はソース。中には数日間かけ作り上げるソースもある。

 こんなソースを残しておくことなどあり得ない。フランス人が食べた後の器は、すべて洗浄したあとのようになる。

 フランス人のソースを最後まで食べる仕草は様になっているが、どうも同じことを日本人がやると、みすぼらしく、がさつに見える。

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真梨幸子   「おひとり様作家、いよいよ猫を飼う」(幻冬舎文庫)

 真梨さんは、2005年に「孤虫症」でデビューしたが、その後さっぱり売れず、アルバイトをしながら、極貧の生活を送る。そして6年後「殺人鬼フジコの衝動」が大ベストセラーになり、貧乏作家を脱却する。

 貧乏時代の6年間と大ベストセラーをものにした際の経験を描いたエッセイ集。

暇なときは、面白いことが浮かぶ。
「別れても好きな人」という有名なカラオケのデユエット曲がある。この歌最初は松平ケメコという歌手により歌われ、次はパープルシャドウズ、そして最も売れたのがロス・インディオス アンド シルビアが歌った時。いろんな人がカヴァーしている。

 この曲で、渋谷で2人が再会、傘もささずに雨の中歩く。
 原宿→赤坂→高輪→乃木坂→一ツ木通り
歌と同じように歩こうと真梨さんが挑戦する。これが大変。

 何で、渋谷→原宿→乃木坂→一ツ木通り→高輪にしないんだと真梨さんは怒る。
 そして調べると、当時人気のある場所を単純に並べただけと知りがっくりする。

人間100歳時代がそこまでやってきている。100歳になると、辛さ、恐怖、不快感などいやな記憶は全く消え、幸福の記憶しか残らず、毎日が幸福に包まれる。

 しかしこの100歳に生きて到達するのはまだまだ難しい。これを可能にするのは、「満足感」。「満足感」が、人を老化となる「「慢性炎症」を防ぐのだそうだ。

 しかし、「満足感」には2種類ある。
「食欲」「性欲」「物欲」「金銭欲」など利己的「快楽」につながる「満足感」は「慢性炎症」を増加させ、とても100歳までは生きられない。

 それに対し、「社会的貢献」「家族の世話」「芸術や仕事」のように他者に対して行った「満足感」こそが100歳以上に生きることを実現させる。

 私はとても長生きはできないと自覚した。真梨さん、これからも読者にベストセラーを贈り続ければ、100歳は軽々とクリアーできる。ぜひ頑張ってください。

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柚木麻子   「奥様はクレイジー フルーツ」(文春文庫)

 不思議なことである。恋人時代は寝ても覚めても互いに相手のことばかり考え、会えばむさぼるように互いの体を求めあう。

 それが結婚をした途端、急激に体の求めあいは減少し、いつのまにかセックスレスになってしまう。

 主人公の初美は結婚して約3年。編集者をしている夫とは仲が良く、優しい彼には不満は無いが、夜の営みがなくなってから2年たつ。夫が浮気でもしていれば、怒った感情をぶつけることもできるのだが、それも無い。

 欲求不満となる初美は、昔の同級生と浮気しそうになったり、高校生の義弟に妄想したり、浪人生を誘惑したり、さらに、胸を触診してくれる女医に欲情を感じたりする。そして、最後には、「男にだかれにゆきます」と書置きをして、寝台夜行列車に一人乗り旅にでる。

 旅から戻る。さすがに夫もまずいと思ったのか、それから2か月後、初美の誘惑により2人は久しぶりに抱き合う。

 ベッドの中で夫がしみじみと言う。
「結婚して俺たちは家族になったんだ。家族だから初美は妹のように思ってしまう。」
なかなか味わいのある言葉だ。

 そうだけど、久しぶりの体の交歓。めいっぱい愛し合おうと初美は頑張る。しかし、どうにも快感は高まらない。その時の描写がなるほどと感心する。

  『初美だって見慣れた夫の体には欲情できないのだ。先ほども、受け入れる準備を整えるべく頭はフル稼働だ。ネットで拾ったプロレス選手のたくましい上半身、男子校に赴任したたったひとりの女教師として四六時中ねばついたいやらしい視線を浴びるブラウス姿の自分、最近応援している売り出し中のアイドルが業界人にめちゃくちゃにもてあそばれている地獄絵など、あらゆる妄想を膨らませ、たった一人で感情を盛り上げていた。
 夫のセックスは最早手助けのあるオナニーに近い』

 こんな夫婦けっこうたくさん存在するのでは?

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垣谷美雨   「農ガール 農ライフ」(祥伝社文庫)

 垣谷さんの作品は、どれもそうだが、垣谷さん自身が体験していないと、とても描写できないほど中身が濃く、リアルでいつも成るほどそうなっているのかと感心してしまう、

 主人公の水沢久美子は32歳で独身。突然派遣切りにあい、更に長い間同棲していた恋人から「結婚したい人ができたから部屋をでていってほしい」と告げられ、失意のどん底に落とされる。

 そんな時、偶然見たテレビ番組で、若いひ弱な女性が、農業ガールとして楽しく充実した人生を送っているのを見て、これだと思い、田舎に引っ越し農業大学に入学、農業人生をスタートさせようとする。

 当然、田舎では就農者はどんどん減り、高齢者しかいなくなる。だから、あの手この手で農業に関心のある人を呼び込み、いろんな特典も与えて、田舎町に人を呼び込もうとしている。こう一般的には想像する。しかし、どうも実態は異なっているようだ。

 久美子が市役所主催の就農説明会にやってくる。

そこで、就農者を増やすべき農業委員が皆の前で言う。
 「就農に必要なことは、まず強靭な体力です。」
久美子は驚く。テレビではひ弱な女の子が農業を楽しそうにやっているのが映されていたのではないか。

 更に委員が続ける。
「次に、女性はできません。女性は嫁さんになってください。」
「さらに、独身男性もだめです。農業は家族全員で行わねばとてもできません。独身男性では無理です。」
「それから、有機農法はだめです。我々が欲しいのは趣味の農業者ではありません。経済農業ができる人が欲しいのです。」

 マスコミやテレビでの田舎ライフとは全然違う。

それから、更に驚くのは、あたり一面耕作放棄地があるのに、地主が貸してくれないのである。自分たちが汗水たらして農業をしてきた愛着ある土地で他人に作物は作ってほしくないとか、この付近に開発計画が起こって、高値で売れるかもしれないと理由をつけ土地を貸さないのである。

 久美子が知り合った年寄りの一人暮らしのお祖母さんの冨士江がしみじみ言う。
「この大根だって、50年で50回しか生産できないんだよ。こんな効率の悪い仕事は無いよ。」

 ずしんと心に落ちてくる言葉だ。

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井沢元彦   「日本史の叛逆者 私説 本能寺の変」(角川文庫)

 井沢元彦は、それまで通説、常識とされていた歴史的事件、事象を別の角度から検証してその真実を追求する。そして、通説や権威に歪められていた真実を暴いてきた。出版する本の多くがベストセラーとなる。今でも続く「逆説の日本史」シリーズで名をなした歴史家であり作家でもある。

 一方、あの時、もし違った事象になっていたら、歴史はどうなっていたかを想像して作品に仕上げる「反逆者シリーズ」をものにしている。

 本作は、その「反逆者シリーズ」「私説 壬申の乱」に継ぐ2冊目の作品である。

今まで、私は歴史についてあまり関心が無かったが、ここ最近歴史に関する本を集中して読んでみると、歴代の武将のなかで最も人気があり、リーダーとしての理想像にあるのが織田信長であることを知った。

 井沢も信長が武将では一番と評価。この作品で、本能寺の変を事前に察知し、生き延び謀反者明智光秀を返り討ちにしたということを前提で信長が日本を征服してゆく過程を物語にしている。

 井沢はその過程を3つの視点で描く。
まずは、信長に反旗を翻している各地の武将を配下にしてゆく過程。

 信長はどれだけ強くても、相手の武将を壊滅させない。彼らの手持ちの領地の一部は彼らのものとして認める。壊滅してしまうと、新たな武将を信長の配下から選び治めさせねばならない。これは、領地に住んでいる人たちからみると圧迫であり、反乱の目を残す。だから叛逆できる力は削るが、部分的に武将に領地を残してあげる。

 次は、信長が天皇、公家の地位につく。日本は武士による支配は長く続くが、武士の最高位は征夷大将軍など武家としての最高位、それも天皇により拝命される形態をとってきた。武士が公家の地位を得るということは大逆で絶対してはならないことであったが、信長は公家の中で関白の地位を要求し、実現させる。関白は天皇、その嫡子皇太子より格下だが、次男以下の親王より格上である。

 そして、新たな居城を安土から、大阪にする。大阪に安土城より巨大な城を創り、そこに。幕府を樹立。大阪を日本の拠点とする。

安土や京都は近くに海が無い。大阪は、近くに海、港があり、日本の経済の最も大きな要衝地である。ここで、水運、物流と経済をすべて握り、大阪を日本の首都にして天下を治めることになるのである。

 そして年号も天皇が決めるのではなく、信長が新年号を「太陽」と決定する。
井沢の信長大好きがいっぱい詰まった作品である。

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| 古本読書日記 | 06:25 | comments:0 | trackbacks(-) | TOP↑

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加藤千恵   「ラジオ ラジオ ラジオ!」(河出文庫)

 作者加藤さんは、出身地旭川で高校時代友達のひらまいと旭川のFM放送局「リベール」で「かとちえX舞のラジオ!ラジオ!ラジオ!」という番組をもっていた。

 その経験をベースにした溌剌たる青春物語かと思って読み始めたがどうも色合いが想像した物語と異なる。

 物語は主人公華菜が地元の放送局FMフルスからの、番組制作出演者募集に友達の智香と応募。それに受かり、「カナアンドトモのラジオ ラジオ ラジオ!」という30分の番組を2人で放送するとこらから始まる。

 ラジオもだんだん聴取人数が減ってきている。
張り切って2人は、思うように番組を創り上げるのだが、不思議なことにリスナーからの反応が全くといっていいくらい無い。唯一あったのが「なつねえさん」という30歳近くの女性のみ。

 女子高生は、話題に幅広さは無く、知識も持っていない。だから、番組でも、カナとトモと他の親友2人で交わされる話題ばかりになる。誰も興味を持てない4人だけの修学旅行の話など、リスナーは聞きたいとは思わない。しかも、かかる曲は、誰も知らない、カナの好きな曲ばかり。

 よくよく読んでいくと、トモは飾り物のようで、カナの思いだけが押し付けられて番組ができている。それをカナは全く気が付かない。

 トモは、受験勉強に集中しなければならないと言って、番組を降りる。どんなにカナが説得しても戻らない。

 そのうちカナは大失敗をおかす。4人の友達の一人アヤの失恋を実名をあげて番組でしゃべってしまう。カナはトモを含めた3人の大切な友人からつきあいを拒絶される。

 舞い上がりすぎた自分にカナは気が付いたのか物語ではもうひとつよくわからない。ただ、関係修復のきざしだけはある。

 今は、テレビでもそうだが、出演者の顔ぶれも同じで、うちわだけの話題でかってにもりあがる番組だらけになってしまっている。番組が終わった後で、「なんであんなことを言うのよ」と喧嘩になっているだろうな。でも心配する必要はない。それほどに視聴者との距離は遠い。

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| 古本読書日記 | 06:19 | comments:0 | trackbacks(-) | TOP↑

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ジュンパ・ラヒリ 「停電の夜に」 

小川洋子さんが紹介していた本です。
「夫婦を致命的に崩壊する決定打」が気になったので。
妻が夫に内緒で新しい家も決め、別れを切り出す。
夫は「そっちがそのつもりなら」と、妻としては「それだけは言ってほしくなかった」ということを暴露する。
なるほどなぁ、です。

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インドが舞台の話もいくつかあって、やっぱり衛生面の感覚が日本と違いますね。
一昨日からマダガスカルが舞台の「時の止まった赤ん坊」をちびちび読んでいますが、同じ感じです。
洗濯しないボロボロの服。地面に寝る。排せつに使う川で洗濯。産んだらたくましく育てる。

「三度目で最後の大陸」は、小川さんも、この文庫の訳者も褒めています。
いい話です。
偏屈そうな百歳越えのおばあちゃんが、インド人の若夫婦を祝福。
「この俺は三つの大陸で生きたのだ」と振り返る主人公。
三十一歳でインドからイギリスにわたり、三十六歳でアメリカにわたり、永住。
……イギリスって大陸だろうか。存在感のある国に違いないが。
細かいこと気にしちゃいけませんな。

| 日記 | 21:22 | comments:0 | trackbacks(-) | TOP↑

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小川洋子 「みんなの図書室」

作家の小川洋子さんが、本を紹介するという内容です。
絵本もあればエッセイもある。井上靖もあれば村上春樹もある。
図書館と呼ぶほど固くなく、本棚とくくるにはジャンルがばらばら。
図書室くらいがしっくりくるかも。うん。

1では、「停電の夜に」が気になりました。
やっぱり紹介するわけですから、ネタバレまではしないんですね。
「最終的に待っていたのは、夫婦を致命的に崩壊する決定打でした」
くらいで止めておく。

「僕って何」は、物語の終盤で主人公が、母親をいたわるところまで成長すると明かされている。
学園闘争時代の話と聞くだけでかったるそうですが……ふむ、いい話なのか。
「いちご同盟」は読書感想文で使ったことがあります。
「桃尻娘」(橋本治)や「ノンちゃんの冒険」(柴田翔)は読めたから、
「僕って何」も一気に読めるかもしれない。
「赤ずきんちゃん気をつけて」は5ページで挫折しましたが(-_-;)

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2では、「或る『小倉日記』伝」とか「ティファニーで朝食を」とか紹介しています。
ホリーは十九歳の設定なのに、ヘップバーンは三十代前半で演じたんですな。
wikiによると、長男を出産後だったとも。

「或る『小倉日記』伝」、小川さんは、
「功績は報われなかったけど、理解者に恵まれ彼は幸福だった」
「最後まで読み終えた時には胸に温かい感動が」
と書いています。
私は、皮肉な結末で救いがないというイメージだったんですが、そういう見方もある。

1では「手袋を買いに」、2では「赤いろうそくと人魚」を紹介しています。
ほんとうに人間はいいものかしら? に対し、強欲で信用に値しないという回答。 

| 日記 | 21:20 | comments:0 | trackbacks(-) | TOP↑

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井沢元彦   「学校では教えてくれない日本史の授業 天皇論」(PHP文庫)

 神道がどのようにして誕生し、それが伝来してきた仏教とどう影響しあい、日本の歴史が現在に至っているかを検証、思索した作品。

 「邪馬台国」「卑弥呼」が歴史本で初めて登場したのは、中国の正史「三国志」の中の「魏書」という単元の一般に言われている「魏志倭人伝」という部分。

 この「三国志」は今から1700年前の日本では弥生時代に書かれている。これは、邪馬台国から中国にやってきた使者がしゃべったことを陳寿という人が聞いて書かれたもの。当然、日本語はわからないから、使者の発音をそのまま適当に当時の漢字にあてはめ書かれている。それが「邪馬台国」。これを私たちは当然のように「ヤマタイコク」と表現するが、1700年前に台は「タイ」ではなく「ド」と発音していた。ということは「ヤマタイコク」ではなく「ヤマドコク」と使者は発音していたと考えられる。今から1700年前大和はすでに誕生していたのだ。

 「卑弥呼」ももっともらしいように見えるが、これも当て字。正しい字で表現するなら「日巫女」あるいは「日御子」になる。神である太陽神をまつるという意味の名前だろう。

 中国は今でもそうだが、中華民族が世界で最も優秀で、世界の中心は中国という中華思想を持っている。だから、周りの国々は属国であり野蛮国家であると認識している。

 周囲の国から、中国に行くことは朝貢といい、たくさんの貢ぎ物を持って皇帝にあう。そのとき必ずお返しがある。それが皇帝がその国の存在を認めるという金印。「漢委奴国王印」は皇帝が与えた印。これと同じ邪馬台国に対する金印が間違いなく日本にあり、それは奈良県桜井市にある箸塚古墳に間違いないと著者井沢は言う。発掘調査をすれば必ず金印が出土すると確信している。

 しかし、現在宮内庁では天皇家及びそれに関連する古墳発掘を禁止している。
近々世界遺産に認定される仁徳天皇陵を含む「百舌鳥・古市古墳群」。実は「仁徳天皇陵」は本物ではないという説が有力になっている。発掘調査ができないので真偽が確定できない。

 井沢は、絶対神の存在があるから、神以外の人間はすべて平等。それにより欧米では民主主義が確立したと言う。そして日本では天皇を絶対神として確立させたのが本居宣長。それにより欧米と同じように民主主義が確立できたと主張する。

 どこか大きな飛躍がありすぎ。

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| 古本読書日記 | 05:48 | comments:0 | trackbacks(-) | TOP↑

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斎藤貴男   「東京を弄んだ男『空虚な小皇帝』石原慎太郎」(講談社文庫)

 石原慎太郎というのは、非常識きわまりない発言をしばしばする。しかも、その発言を当人が信じている。さらに、他の人が同様な発言をすれば、大騒ぎになり、発言者が社会から抹殺されそうになるのだが、石原慎太郎に限ってなぜかそうならない。

 あるインタビューでこんなことを発言する。
「文明がもたらしたもっとも有害なものはババアだ。女性が生殖機能を失っても生きているのは無駄な罪です。男は80.90になっても生殖能力はあるけれど、女は閉経してしまうと子供を産む力はない。そんな人間が、きんさん、ぎんさんの年まで生きるってのは、地球にとって非常に大きな悪しき弊害」

 とにかく社会で弱者というわれる人たちが大嫌い。障碍者、高齢者、女性、貧しい人、失業者、ホームレスなど。こんな人たちに福祉と称してお金を使うことなど無意味という考え。

 ある障碍者施設を訪問。その障碍者を真近にみて一言。
「この人に生きてる価値があるのかね。」

 トランプ大統領が、とんでもない発言や行動をする。韓国の文大統領が外交、経済で失政を重ねる。それでも2人は、支持率が50%近くある。

 彼らはいっこうに暴言や政治スタイルを変化させない。
それは、固い大きな支持基盤があり、2人の行動、発言をその人たちが支持しているからである。もし、優柔不断な対応をしたら、支持率は凋落するだろう。

 石原慎太郎の東京都知事時代に上記発言はなされている。だけど彼は大きな支持に恵まれていた。だから、言いたい放題だった。

 リベラルなる優柔不断は崩れるのが早い。しかし、このような政治家に権力を与えると社会の分断はどんどん進む。

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石原慎太郎 田原総一朗  「日本の力」(文春文庫)

 戦後から現在に至るまでに起きた国際問題、政治問題を語り合い、日本がたどってきた失敗を遡上にのせ、結果現在のどこに問題があるのかを提示している討論集。

 2人は年の差が2歳しか離れていない。だから、同じ世代といってよい。いろんなことが語られ、自分の言っていることがいかに正しいかを、主張しあう。

 発想、意見の基盤になっているのが2人とも共通で、戦争直後の風景、アメリカによる占領がその基盤をなす。
 読んでいて、古く頑固で、現実とはかなりズレがあり、空疎な思いがした。

 我々の子どもの頃は、祖父母はともかく、家族というのは両親がいて、数人の子供がいるのが一般的で、その在り方を軸に絆とか社会との係わりが教科書や、テレビなどで語られていた。

 しかし、現在は、父と子のみ、母と子のみの家庭も多く存在するし、犬と独身の男、犬と独身の女、男同士、女同士、男と女、結婚している人、結婚していない人、結婚していても子供がいないと、昔もあったかもしれないが、その存在がカミングアウトして、主張を始めた。今や、昔の典型家族は、家族の単なる一モデルとなった。

 子供に対しては、その人権を認めて、指導ではなく、その個性を伸ばせるよう支援することが教育となってきた。

 この個々に細かく分断され、それぞれの主張、権利が社会化され、しかも、それを少しでも批判すると、ネットを通じて雨あられのごとく批判がかえり、下手をすると社会から抹殺されそうになる現在。

 そんな社会のありかたに対しどうすべきかは、すでに老人である2人が提示することは困難である。
 さりとて、ではどうするかを答えられる人もいない。

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井沢元彦 「(決定版)『宗教と戦争』講座」(徳間文庫)

 ユダヤ教、キリスト教、イスラム教、仏教、神道、儒教、それぞれの成り立ちと中身を説明し、その対立と現在起きている戦争の背景を解き明かしている。

 この本で初めて知ったのだが、キリスト教の教えを説教する人、カトリックでは「神父」といいプロテスタントでは「牧師」という。

 神父は、神と人間の間にたつ特別な階級で、いわゆる俗人より高い道徳水準を要求され、結婚は許されず生涯独身で通す。神父には階級があり、神父は最初司祭であるが、その上が司教、大司教となり、更に枢機卿、教皇となる。神父になるためには、女性を断ち、酒も断つ厳しい修行を受けねばならない。

 一方プロテスタントの「牧師」には階級はなく、一般信者と地位は同じ。ただ、信者の代表を務めているというだけ。だからもちろん結婚も認められている。

 キリスト教では、人間はすべて平等に造物主神により造られる。そして神により一定の奪い難い権利が人間に付与される。
 この権利が基本的人権といわれるものである。

死刑は日本では、殺人の状況、殺害者の人数などにより、当然のように決定され執行される。
 被害者のサイドに立てば当たり前のように思うのだが、多くの国々では、死刑は廃止されている。この背景がどうしてかわからない。

 基本的人権とは神が直接人間に付与している。神が付与しているものを、人間がかってに、殺人者だからといって、死刑にすることは許されない。どんな悲惨な殺人をおこしても、その殺人者は基本的人権を持っている。だから、死刑などしてはならないのである。

 欧米では、決まった期間服役して出所すれば、一般の人として犯罪者をあっけらかんと扱うのだそうだ。

 死刑が無いのはその背景にキリスト教があったのか。なるほど。

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石原慎太郎   「生きるという航海」(幻冬舎文庫)

 ビスマルクは言った。
「歴史において重要なことはすべて戦争により決定された。」

 あるいはキャロル リード名映画「第3の男」でのセリフ。
「永世中立、平和、平和、平和。スイスの平和が生み出したのは、ポッポの鳩時計くらいだが、ボルジア家の専制はルネッサンスを生み出した。」

 石原は言う。戦争により社会変革はなされ人類は進歩してきた。戦争は良しあしではなく、人類の公理だと。

 戦争を罪悪とは思わない。戦争を罪悪とし、平和が善とする考えは、ここ数十年にでてきた概念だ。カントも民族戦争は最高の美徳と言っていた。

 私たちが平和を望むのは、戦争より平和のほうが、人類あるいはその国とって大きな利益をあげると認識するとき。しかし、世の中では戦争をしたほうが利益を上げられると思える状況もあると。

 島国で、独特の文化、伝統を持っている日本を世界と相対的に比べ、石原は言う。
日本は世界の同心円上やその枠内にあるのではなく、遊離している。つまり世界は日本とそれ以外の世界とは分離されているのだと論じる。地球という望楼からながめると日本は分離され独立しているように見える。

 ここまできてしまうのかと驚愕を覚える。

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石原慎太郎   「真の指導者とは」(幻冬舎新書)

 この本もそうだが、特に企業家において、卓抜な指導者として挙げられるのは、松下幸之助、本田宗一郎、井深大、盛田昭夫など。いつも不思議に思うのだが、日本で最も大きい企業30兆円の売り上げを誇るトヨタ自動車にこそ卓抜なリーダーがいてしかるべきなのに、とんとこういった類の本にはでてこない。

 だから、リーダー論と言っても、普遍的な印象を持てない。

 それで、この本で紹介されている、リーダーであった吉田茂のウィットにとんだたりとりを記すことにする。吉田茂は彼の持つたぐいまれなウィットで占領軍とわたりあった。

 元気旺盛な吉田茂をみて、ある人が聞く。
「このごろは何がお好きで、何を食べられてそんなにおお元気になれるんですか。」
「いつも人を食っているからです。」

 フィリピン代表団が吉田首相が言う。
「賠償の支払いはその原因をつくった側にあるというわけですね。」
 喜んで代表団が言う。
「そうです。今度の大戦で我が国は大きな被害を受けました。その賠償金の問題で伺わせて頂きましたが、総理のお言葉で安心しました。」

 すると吉田首相が言う。
「私の国は、神代の時代から、貴国で発生している台風で、ずっと被害を受けてきました。今関係部署に被害額の算出を指示しています。後ほど請求書を送らさせて頂きます。」

 戦争直後、GHQに統計によると400tの食料援助をしてもらわないと、餓死者がでると吉田首相が訴える。

 しかしGHQは70tしか援助をしなかった。しかし餓死者はでなかった。
「70tでも餓死者はでなかったじゃないか。どうなってるんだ、日本の統計は。」

 吉田首相が答える。
「日本の統計によると、日本は戦争に勝つことになっていたんだ。」
 現在の統計不正問題を表現しているようで面白い。

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石井好子    「人生はこよなく美しく」(河出文庫)

 料理、おしゃれをテーマにした対談、そしてやっぱりシャンソン、パリ時代でのシャンソン歌手との交流、生きることの喜び、悲しみを磨き上げた文章で描いたエッセイ集。

 石井さんが戦後パリのモンマルトルで歌っていたころ、日本人の女性が「アナタ ニホンジン?」と声をかけてきた。

 彼女は、パリ万博当時の明治31年、一世を風靡した旅の一座、川上音二郎、貞奴がシャンゼリゼ劇場にでていたころ、日本人女性はモンマルトルにあったポピノ座にでていたと言う。ポピノ座は明治のころは、パリ一番のミュージックホール。そんなすごいホールに日本人が出演していたとは聞いていたことが無かった。誘われるまま、彼女のアパートに行く。壁に彼女が出演した一座のポスターが貼ってあった。

 サーカス団だった。

私の小さいころ、お祖母さんが言っていた。お祖母さんが少女のころ、親の言うことをきかないと「サーカスに売りますよ。」と脅されたと。

 彼女は、幼い時まさにサーカス団に売られた女性だった。
サーカスに入ると毎日鞭打たれながら芸をしこまれ、体を柔らかくするため無理やり酢を飲まされた。

 明治や大正のころ世界では、日本のサーカスがもてはやされ、多くのサーカス団が欧米に興行にゆき拍手喝采を浴びていた。

 彼女の一座は公演がアメリカで終わると、みんなは日本に帰国したが、彼女と親方は帰らず、そのまま南米に行き、2人サーカスを演じて、その後ロンドンに渡る。ロンドンでは女王さまの御前に招待もされたそうだ。そのお蔭で年金がおり、ヨーロッパで生活ができていると言う。

 40歳のときリュウマチになり、そこでサーカスは引退している。

アメリカには、戦時中苦難を味わった移民日本人がいたが、明治に日本を離れ、そのまま日本に帰らずヨーロッパで戦争中も暮らした日本人というのは殆ど聞いたことが無い。

 フランスに帰化した画家の藤田嗣治でさえ、戦争中は日本に帰国している。

 彼女は言わないが、親方とは互いに大切な人同士だったのだろう。日本人や仲間が誰もいない敵国で生き抜く。2人の愛の絆の強さを感じる。

 彼女の名前「山本こよし」と言う。

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外山滋比古    「ことわざの論理」(ちくま学芸文庫)

 多くのことわざの生まれた背景とその意味を描いている。

驚いたのは、ことわざではないが童話「桃太郎」の解説。

 まず遠く川から流れてきたという桃は、よそから流れてきた、素性は定かでないということである。

 桃というのは、女性を象徴している。この女性は上流から流れてきている。あまり開けていないところからやってきている女性なのだろう。なぜそういう女性を嫁にする必要があるのか。それは同族近親結婚があまりにも痛ましい結果を生んだから。なるべく血縁のないもの同士が結婚しなければならない。そういう知恵が人間についてきたからである。近くにいるりっぱな娘さんより遠くから来た女性を選ぶべきだという教訓は、かなり勇気がいることである。

 だからこそ、おとぎ話にして、社会教育をしている。川から流れてきた桃に子供が生まれたら、とても強く健康な子供が生まれた、なるほどこうせねばならないと人々を納得させねばならない。

 しかも、その桃をおばあさんが取り上げた。おばあさんは姑である。姑のお眼鏡にかなうということが、後のごたごたをなくす。

 それにしても、おとぎ話にでてくる男は影が薄い。おじいさんは登場するが山へ芝刈りにゆくだけ。桃の夫は全く登場していない。

 一方巷では、サル、キジ、イヌが領地を争って戦いをしていた。そこに生まれた桃太郎が登場して、戦いはならぬと領地であるきびだんごを与える。それにより、サル、キジ、イヌは桃太郎と主従関係を結ぶ。封建体制を確立する。

 しかし、桃太郎はいつサル、キジ、イヌが反乱を起こし、自分に歯向かってくるのか不安を抱えている。
 それで鬼ヶ島という仮想的を創り上げ、我々は鬼退治のために結束せねばならないと教え、鬼退治にむかう。

 少し外山の想像の度が過ぎるように感じる。

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石原慎太郎、瀬戸内寂聴 「人生の恋文 往復書簡」(文春文庫)

 人生の運命や、知識、記憶のいくつかを石原が取り上げ瀬戸内に書簡を送る。それに対し寂聴が答える書簡集。

 フランスの作家で、文化省大臣も務めたアンドレ・マルローは薬師寺の弥勒菩薩をみて、日本文化芸術について「一瞬のうちに見る永遠の感性」がそこにあると感動する。

 石原はその感性の典型として、短歌、俳句があると言う。
目の前の情景や、感慨をわずか17文字、31文字で一瞬に表現する。俳句、短歌はどんな日本人もそれを読んで、作者の状況、感動を会得できるし、最近は特に俳句はブームで多くの人たちが作句を楽しむ。

 その日本人独特の感性について、石原がある企業で講演したところ、その会社にドイツから日本に移住して勤めている技師が憤慨して、「それは日本独特の文化ではない。私も5,7,5の俳句を作ることができる」と言って、これがその句だといって披露する。
 「鎌倉に、鳩がたくさんおりました。」

最近は、俳句や短歌を翻訳して海外に紹介している本が出版されている。

 歌人永福門院の名歌。
「真萩散る 庭の秋風身に染みて、夕日の影ぞ、壁に消えゆく」

この句を石原と有名な翻訳家がみて、この句には絶対翻訳不能な箇所があるという。

それは「夕日の影ぞ」の「ぞ」。この「ぞ」は「も」でも「が」にもとらえることができるが、どちらもピタとはまらない。「ぞ」しかありえない。こんな難しい助詞を、日本人は難なく当たり前に受け入れてしまう。日本語の味わいの深さがここにある。

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村上春樹   「騎士団長殺し第2部遷ろうメタファー編下4」(新潮文庫)

 絵画界の大巨匠雨田具彦の作品「騎士団長殺し」は、主人公の私が具彦の息子政彦から借りた具彦の住居の屋根裏部屋に梱包され、置かれていた。

 それを紐解き、作品をみてから物語は始まり、私を巻き込んで色んなことが起こった。
絵画「騎士団長殺し」には4人が描かれていた。

ナイフで刺し殺された騎士団長。それから彼を刺し殺しているドン・ジョバンニ、そして口許に手をやって呆然としている美しい女性ドンナ・アンナ、それから左隅に、地面に開いた四角い穴から顔をのぞかせている不気味な「顔なが」。この4人が、物語ではイデア(観念)の象徴として登場してくる。

 この大長編のクライマックスは、すでに90歳を超えて、死の直前にあった巨匠雨田具彦を、主人公の私と具彦の息子政彦が、具彦が入院している伊豆の病院に、見舞いに行き、そこで政彦が緊急電話で呼び出され、病室を不在にしているときに、失踪した中学生の赤川まりえの居場所を突き止めようとする過程である。

 政彦が不在のとき、イデアである騎士団長が目の前に現れる。そして私に「騎士団長を殺せ。そうすれば、赤川まりえのいるところまで導かれる。」と言う。メタファー編で騎士団長が赤川まりえを救うためには、大量の血と犠牲者がいると言ったことはこのことを指す。

 そして主人公の私がドン・ジョバンニになり、騎士団長を刺し殺す。すると別のイデアである「顔なが」が登場して病室の端の床の蓋をあげ、そこに私を連れてゆき、この穴にはいり、そこから赤川まりえのところまで行けという。

 この穴から、幾多の大きな障害が立ちはだかり、この障害だらけの道や川や石の間を潜り抜け、私の庭にある祠の穴にたどり着くまでがクライマックスだ。

 この穴の道はイデアがいざなうメタファーの道。ということは、村上が得意とする非現実、異界の道なのである。

 村上の作品では、この異界を村上は読者の目の前で、縦横無尽な展開をさせるのがどの作品でも見事で、異界を描いているのではなく、現実に存在するのではないかと読者に思わせるのが際立っているのが村上作品の真骨頂だ。

 しかし、この作品での異界の場面描写は、いつもの村上と異なり、文章はゴツゴツして固く、むりやり見えない場面を作り描写しているように思えた。観念の世界を読んでいるように感じた。

 村上もうまく書けないと思ったのか、途上で登場するイデア、ドンナ・アンナを幼いころ主人公が亡くした妹のコミに切り替える。しかし、コミの悲劇が、殆ど物語で描かれていないので、少しも読者に響かない。

 しかも、これだけ苦戦したのに、赤川まりえを探し出せなかった。

 物語の最後ちかくで、私がスーパーに買い物に行く。レジ袋を断り5円得したと私が喜ぶ。天下の大作家村上にこんなことは描いてほしくないと思った。
 何だか村上が凡人に近付いてきたように思えた作品だった。村上は天才で大作家でいてほしい。

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村上春樹  「騎士団長殺し第2部遷ろうメタファー編上3」(新潮文庫)

 主人公の私は36歳の肖像画家。広尾のマンションに建築会社に勤めるユズと結婚して住んでいるが。結婚6年後に突然マンションをでたユズから離婚届が送られてくる。私は了承のサインをして仲介の弁護士に送付。それから6か月間、北海道、東北を流浪する旅にでる。

 妻のユズは、私の親友で、現在の小田原の家を紹介してくれた資産家の雨田政彦の会社の社員と浮気をしていた。

 このメタファー編第1部で描かれるキーポイントとなるところは2点。
実は、私が東北を旅行中、ある夜、妻ユズとの激しいセックスの夢をみる。その激しさは結婚中にもないほど。最後、夢精して果てるが、その高揚、激しさに驚き、私は日記に書き留める。

 実は、ユズは妊娠していた。子を授かったのは、ユズと別れてからだから、子供は浮気相手の子供になる。しかし、それはあの最高のセックスを夢で体験した夜に授かっていたことが、まったくおかしくないと思わせるところ。

 それと、私が肖像画のモデルとして描いていた秋川まりえが学校へ行ったきり、真夜中になっても家に帰らず失踪してしまうところ。

 巨匠で政彦の父親、雨田具彦が描いた「騎士団長殺し」。ナイフを突き刺され騎士団長が殺される場面を描いているが、その騎士団長が絵から抜け出る。そこで、主人公の私は騎士団長にまりえの行方、救出の手がかりを教えてくれるよう懇願する。
 騎士団長は、「方法は教えるが、実行には大きな犠牲、たくさんの血が流れる」と言う。
ここで第2部メタファー編3は終了する。

興味が高まり最終本を手にとる。

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井沢元彦    「ユダヤ・キリスト・イスラム集中講座」(徳間文庫)

 ユダヤ、キリスト、イスラム3大宗教の成り立ちを検証しながら、宗教対立が戦争を何故引き起こすか考証する作品。

 それぞれの3大宗教の代表者と著者との対談があるが、私には難しく、理解できなかった。

 そもそも、ユダヤ教ができるまでは、世界ではどこでも多神教だった。太陽の神、森の神、海の神、月の神だったりした。

 ところがユダヤ教が登場して、一神教となった。創造主としての神は一つでエホバ神という。人間を含めすべての事物は神が創造したものになった。

 ユダヤ民族は、現在のイスラエル、シオンの丘を幾多の困難を経て、約束の地として定住地にしたのだが、全員エジプトの捕虜となり、エジプトに連れていかれた。この時、モーセという偉大な預言者が登場。預言者というのは神ではなく、神のメッセージを預かる者。

 モーセは、ユダヤ民族をまとめ、神が与えた土地、約束の地にむかってエジプトを脱出する。エジプトとイスラエルの間には紅海がある。当時は船が無い。モーセは海を2つに分け道を作り、ユダヤ民族を脱出させる。これが有名な「十戒」の伝説である。

 ユダヤ教のエホバ神は、全世界のすべての民族を救わず、ユダヤ民族しか救わない、えこひいきの宗教。

 一方キリスト教は、全世界の信者を救いの対象にしている。
イエス・キリストは人間として生まれる。ゴルゴダの丘で磔の刑で殺されるが、その後復活し神の子メシア即ち救世主となり、神の子として復活する。

 1神教であることが絶対であるのに、神が複数存在するキリスト教は邪教であるとユダヤ教やイスラム教が激しく対立をする。

 イスラム教はキリスト教誕生から600年遅れて誕生する。

ユダヤ教のように救う民族を特定したり、キリスト教のように神が複数存在する矛盾を克服するということで誕生。神はアラーの神のみで、ムハマンド(モハメッド)は神の言葉をコーランにして表した。

 古代、中世は、宗教による対立で戦争は起きたが、現在は大国の代理戦争だったり、貧困と富裕、あるいは民族差別が、戦争の要因であり、宗教が直接の原因で戦争が起きるのは殆ど無いのではとこの作品で思った。

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堂場瞬一   「十字の記憶」(角川文庫)

 堂場瞬一、2018年9月現在出版した本は130冊を超えている。デビューが2002年だから、年間8-9冊の本を世の中に送り出していることになる。常軌を逸している冊数である。

 この物語は、地方の市の不正、腐敗を扱っている。国政で権力を握るより、小さい単位の市で権力を握るほうが、おいしい蜜も吸いやすい。

 30年近く前、私が今住んでいる地方都市に引っ越したときは、市は市長一族が権力を握っていた。市長はずっとその一族の持ち回り。主たる産業はすべて一族が担い、他の会社の参入を拒んでいた。

 公共事業の入札情報、あるいは、新駅や高速道路のICの新設情報などを一族の会社に事前に流し、一族が利益を得る仕組みを作り上げていた。権力を行使する対象の人間の数が限られているので、腐敗、不正の秘密は、外に漏れにくくなっていた。

 新聞などマスコミは、国の単位になると、それぞれの媒体のカラーを発揮し権力批判も行えるが、地方の支局となると、権力にすり寄らないと、書くべき記事が無くなる。それで、権力べったりとなる。私の購読している新聞、地方版には、地元の大企業にたいする提灯記事が掲載されない日は無い。その大企業のトップに市長がこびへつらう。市を好きなようにきりまわすのはその大企業のトップで市長は完全にトップの使い走りになっている。

 この作品、市長とその取り巻きの不正が殺人事件を引き起こす。その真相を高校時代同級生で陸上選手だった刑事と新聞記者が追求する。

 縦糸にその友情と絆、横糸に不正、殺人事件が描かれるが、どちらの糸も突っ込み不足で中身が薄く、中途半端な作品になってしまっている。

 年に9冊近くも作品を書いているのだから、こういう作品も書いてしまうのも、仕方ないか。

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| 古本読書日記 | 06:02 | comments:0 | trackbacks(-) | TOP↑

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雫井脩介     「望み」(角川文庫)

 主人公の一登は地域で力のある建築デザイナー、妻貴代美は家で校正の仕事、長男の高校一年の規士、中学3年の長女雅の4人暮らし。裕福で幸な暮らしをしていた。

 ただ、長男の規士は、中学の時、サッカーの練習中、同じ部員に、強烈なタックルを受け、骨折する大けがをしてしまう。リハビリを続ければ、また復帰できたかもしれないが、そしてサッカーを続けることを諦める。その時から、遊び仲間と無為に過ごす時間が多くなり、親に対し斜めに構えた態度を取るようになる。

 そして、夏休み明け9月、規士が家をでて戻らなくなる。ここで一登は、規士の居所を探そうとするのだが、小中学校までは子供の友人の名前を知っていたのだが、高校になると交遊関係を全くわからない。失踪して2日、3日とたつが全く帰って来ないし、探すあてもないので、世間体がありためらっていたが、警察に失踪届をだす。その時の警察の事務的対応から物語は動き出す。

 規士の友達の倉橋が遺体となって車のトランクから発見される。実はその車を放り出して逃げる学生らしき男2人が目撃されていた。ここが雫井の上手いところだが、警察が調べると、失踪中の高校生は4人。逃げた2人は殺人をした加害者であるが、一人は加害者なのか被害者なのか不明。この状況で物語を進める。

 警察は事件の捜査状況を全く一登家族に報告をしない。その進行状況を途切れ途切れに知るのは、雲霞のごとく、家の周囲に出入りするマスコミ関係者。それと、迸るようにとびでて拡散するインターネット。マスコミもネットも殆ど、規士も倉橋殺害に加わっているとの見方。

 ネット、親族、マスコミ、学校、仕事関係者の対応、状況描写が、雫井は深く切り込み、実にリアルに描いている。

 仕事関係者からは、契約を切られ、一登、貴代美夫妻は追い込まれる。

規士が加害者であれば、生きて逃げている。被害者となれば、すでに殺されている。

 妻貴代美は、殺人者でも構わない。生きて帰ってきてほしいと強く思う。どんなに貧乏になり、生活が苦しくなっても、自分はパートをして家を支えると腹をくくり覚悟を決める。

 しかし夫一登は、自分が否定され社会からはじきだされることを受け入れられない。だから言葉には出さないが、被害者となって規士が発見されることを望む。

 貴代美と一登の際立って異なる行動、言動がぐっと突き刺さって読者に迫ってくる。雫井の想像力、洞察力の深さに感動する。

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井沢元彦   「忠臣蔵 元禄十五年の反逆」(新潮文庫)

 歴史の教科書にもでてくる江戸時代の書物「仮名手本忠臣蔵」。有名な元禄時代に起きた討ち入り事件の物語だと思っていたのだけど、この本で、舞台は南北朝時代で、悪役は高武蔵守師直、彼に散々バカにされた塩谷判官高定がついに堪忍袋の緒が切れて、殿中にも拘わらず、師直を切りつけるという物語になっていることを知り驚いた。

 よくよく考えてみると、殿中で起きた事件をそのまま物語にすると、幕府謀反ととられて発禁になるどころか作者は死刑となる。それで、舞台を変えて内容は忠臣蔵を想像できるような仕立てにして、出版した本なのだ。

 「忠臣蔵」には解けていない大きな謎がある。

一つは、浅野内匠頭が何故吉良上野介を殿中にて切りつけたのか。殿中で刀を抜くと、切腹、お家取り潰しになることは浅野内匠頭も知っていたはずなのに。その理由がわからない。

二つ目は、吉良上野介は切りつけられても、梶川与惣兵衛に浅野は取り押さえられ、吉良は軽傷で終わっている。浅野内匠頭は、即切腹が綱吉により決まり、翌日切腹する。
 吉良は殺されていない。浅野の死は、吉良によってなされたのではなく、綱吉の裁定によりなされている。この場合吉良を殺すことがどうして仇討となるのか。

三つ目は、討ち入りが成功したら、普通は全員が切腹するのに、なぜ幕府に自首したのか。

四つ目は、家老大石内蔵助は討ち入りまでに何故1年3か月もかかったのか。

 物語は主人公の劇作家、道家和彦と女子大生の柿内加奈、そして父の遺志を継いで、忠臣蔵を研究している羽田野京子により、謎の解明をする物語になっている。

 道家は作者井沢といってもいい。とにかく、膨大な資料を、3人は読み込み内容を検討する。

 ドラマの「忠臣蔵」では、吉良は性格も悪く、悪人となっているが、事実は全く違うことがわかる。吉良はその領地三河で、黄金堤を築いたといわれる治水事業、産業としての塩田事業を興し成功。領地を裕福な地に変革させ、圧倒的に名君としての評判を獲得している。
 人格も高潔で、尊敬を集めている。とても、浅野内匠頭を苛め抜くような人間とは違う。

 それで、3人は、浅野内匠頭について徹底的に調査する。

浅野内匠頭。殿中で刀を抜くことは、切腹、お家取り壊しになることは重々承知している。ところが、浅野内匠頭は切腹が裁定されても、その夜、大飯を食べ酒も飲む。全く動揺をみせない。この態度は3人には理解不能。そこで、精神科医を呼び、浅野について説明し、精神鑑定をしてもらう。

 精神科医は浅野は精神病を患っていたと断定する。突発的に激情し、理解不能の行動にでるのである。

 浅野の精神病は、家老の大石内蔵助だけが知っていた。だから、大石はお家断絶だけは避けたいと、幕府に嘆願書をだし続けた。実は、この事件以前に、殿中で殺人事件が起き、その犯人のお家は取り潰しになっていない。ここに大石は縋る。しかし、浅野が精神病であることは誰にも言えない。だから、堀部安兵衛など浪士たちは、なぜ大石内蔵助が討ち入りを決断しないで、京都で遊び狂っていることがわからない。

 幕府の裁定がどうやっても覆れないことを悟ったとき、大石は討ち入りを決断する。

実に興味深い内容である。「忠臣蔵」ドラマを観る目が変わりそうだ。

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石原慎太郎   「新・堕落論」(新潮新書)

 精神科医斎藤環によると、以前に比べ精神科医にかかる患者数が増大したそうだ。それだけ、心の病で受診する壁が低くなったのだろう。ある総合病院が需要に応えようと精神科の入院病棟を大幅に増設したところ、その情報を聞きつけ、とんでもない数の患者が殺到したそうだ。心の重圧について周りに相談者がいないので、誰かに面と向かって相談したいという人たちが病院を訪れる。

 以前、秋葉原で17人を無差別に殺した加藤という殺人者がいた。

彼は失職しそうな不安と職場での孤立に耐え兼ね、盛り場での殺人を思いつき静岡から車で上京する。

 車を運転中、彼は無差別に携帯電話で、これからやろうとしている殺人を伝え続けた。しかし「それはすごいことやるな」などのおちゃらけの反応しか返ってこず、そのまま秋葉原で大量殺人を実行した。

 もちろん誰かが「それはやめろ」と返信しても、殺人は止められなかったろう。彼の意識下では、他人との繋がりは、殺人をすることでしか見つけられなかった。

 私の青春時代は、電話はあったが、共同利用。だから、もっぱら恋は手紙の交換でなされた。手紙は時間をかけ、どれだけ相手が好きなのかを表現し、目をつむってポストに投函した。そして返事が来る間、相手の気持ちを想像して、悶々と暮らす。

 真剣に恋をする現実。相手がどう思っているかを想像することはバーチャル。現実もバーチャルも真剣だった。
 そして、その真剣を仲間と互いに夜を徹して相談、会話をした。

 また、小説もその時代を反映して、真剣につきつめる小説が多かった。石原慎太郎がこの作品で紹介している福永武彦の「草の花」はその典型だった。

 今は、死ぬほどの真剣さは無くなった。そんなことを思い詰めたり、語り合う時間があるのなら、携帯をいじり見知らぬ他人と繋がっていようとする。

 そして、誰もが無個性になり、生きる意味を失い、ひたすら孤独にむかって走る。
しかし、今更携帯の無い時代へもどすことはできない。

携帯、無個性、孤独を前提にして、人間同士の関わりをどうするかを創り上げねばならないが、それは本当に難しい。
石原はこの作品で、それは国を想い、愛国を育てることだと結論つけるが、突飛すぎて納得はなかなかできない。

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石井好子   「東京の空の下オムレツのにおいは流れる」(河出文庫)

 シャンソン歌手であり、料理研究家でもある石井好子が、興味がわいた料理のレシピを紹介するとともに、人々との出会いのエピソードを描いた作品。

 私が高校生のとき、合唱で「智恵子抄巻末のうた六首」という歌を歌った。巨匠清水脩作曲の歌だ。当時は清水脩が合唱曲の大家で、多くの合唱団が争って清水の合唱曲を歌った。

 清水脩は外国語大学をでて、戦中の東京音楽学校、現在の東京芸大でフランス語講師をしていた。その当時、石井好子は声楽科に学んでいた。声楽科の学生はドイツ語が必須で、その他にイタリー語かフランス語を選択せねばならなかった。石井を除いて、他の学生はすべてイタリー語を選択したが、石井はフランス語を選択。生徒は一人だけなので、聴講生が出席したときを除けば、石井は清水脩と一対一の講義を受けた。

 そのことが石井がシャンソン歌手になることに繋がっていたと石井は言う。

 清水先生は、多くの詩を読め、そして詩情をつかんで詩情を歌えと石井を指導した。
 だから、石井も海外の詩人も含め、中原中也、草野心平、三好達治などの詩を懸命に読み理解しようとした。

 そんな清水脩が死ぬ直前に石井に豪華布地版の限定品である詩集を送ってきた。その詩集に載っている詩がいくつか本作品で紹介されているが、その中で一番印象に残った作品を紹介する。

      「郷愁」
カルルス温泉
銀鮭のフライ レモンのうすい一片(ひときれ)
セロリの冷たい根
ナプキンの角の赤い小さい縫いとり乙女座
ホップ草の花さく山腹を家畜の群れのようにゆく霧

 贅沢な食事、おいしい食事とは、自然に溶け込んで味わう食事のことだと心底感じた。

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| 古本読書日記 | 05:54 | comments:0 | trackbacks(-) | TOP↑

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思わず考えちゃう ヨシタケシンスケ

左が、今回読んだ本。
右が、去年の誕生日にもらった絵本。

IMG_9177.jpg

なお、今年の誕生日はこんな感じ。

IMG_0070 (1)

どんだけ酒飲みでジャンクフード好きと思われているのか。

さて、「思わず考えちゃう」。

<一番きたなくない部分ってどこだろう>
 洋式トイレで小をするとき便座を持ち上げるのだけど、
 どこを持つか迷う。
 手を洗った後、ドアノブのどこを触るかも悩む。

昨日、久々に和式トイレを使う機会があったんですが、
「これは踏む高さか? 手で押すべきなのを踏んでしまったら、次の人に悪いのでは」
と悩んで、(力のいる)付け根近くを手で押して流しました。
あと、トイレットペーパーが細くちぎれ、一部だけ層がめくれました。
トイレは悩む場所ですね。

他には、
「若いころ、別に無茶はしなかった」
「世の中の悪口を言いながら、そこそこ幸せに暮らしましたとさ」
「ボクはあやつり人形」
なんかも好きです。

クリエイティブな仕事の人だから、
決められちゃうとやる気が失せるとか、天邪鬼で逆をいくとか……
と思いきや、あやつり人形。指示待ち人間。
選択肢を狭めてもらった方が、限られた中で幅を広げようとやる気が出る。
なるほどなぁ、です。

| 日記 | 22:17 | comments:0 | trackbacks(-) | TOP↑

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ドナルド・キーン  「思い出の作家たち」(新潮文庫)

 谷崎、三島、川端など5人の作家たちの交流とその作家についてキーンの評価が書かれている作品。

1968年、ノーベル文学賞に日本人で初めて川端康成が輝く。この作品を読むと、68年では日本人作家に賞を与えることが最初から決まっていたそうだ。

 当然三島由紀夫が最有力候補で、受賞が間違いないと思われていたが、蓋をあけると川端康成になっていた。

 三島は、受賞できなかったことをはかなみ、翌年自殺し、谷崎や三島など受賞すべき作家をさておいて受賞してしまった川端は、その重圧に耐え切れず自殺したとのうわさが当時まことしやかに流れていたとキーンは書く。

 川端ほど、現代の作家で不幸を背負っていた作家はいない。

川端は大阪の箕面で生まれた。三歳のとき両親を失う。その四年後に祖母が他界。さらに3年後に姉も亡くなり、体が不自由な祖父との2人暮らしとなる。

 数々の川端の名作はあるが、私は祖父が亡くなる前の一週間を描いた処女作「十六歳の日記」が今でもキーン同様印象が強い。このころの苦しい経験が、川端の他の作品にも強くにじみ出ているように思う。川端文学のまさに原点である。

 祖父が主人公の少年に小便をしたいと言う。しびんを持ってきてその入口に彼のペニスを入れてくれと祖父が頼む。

「はいったか。ええか、するで。大丈夫やな。」自分で自分の体の感じがないのか。
「ああ、ああ、痛た、いたたったあ、いたたった、あ、ああ」おしっこをする時に痛むのである。苦しい息も絶えそうな声とともに、しびんの底には谷川の清水の音。
「ああ、痛たたった。」堪えられないような声を聞きながら私は涙ぐむ。
 茶がわいたので飲ませる。番茶。いちいち介抱して飲ませる。骨立った顔。大方禿げた白髪の頭。わなわなとふるえる骨と皮との手。ごくごくと一飲みごとに動く、鶴首の喉ぼとけ。
茶三杯。

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| 古本読書日記 | 05:28 | comments:0 | trackbacks(-) | TOP↑

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