石井好子 「いつも異国の空の下」(河出文庫)
こんな経験は2度とできないだろうと思い、いろんなところを回り見てやろうという気持ち。仕事そっちのけの出張だった。
パリではクレイジー・ホース、それから今では無くなったが、モンマルトルにあったフレンチカンカン発症の店「ムーランルージュ」に行った。
その時、店は違うが、日本の草分け的シャンソン歌手石井好子さんも、こんな店、こんな雰囲気の中登場し、戦後まもないころ歌っていたのだなと、感慨深く石井さんと重ね合わせてショーを鑑賞した。
石井さんは、東京芸術大学声楽科を卒業。戦争が終了して、活動の舞台は米軍基地内でジャズバンドの一員として歌っていた。離婚した夫のつながりから得た仕事だった。
それにしても驚くのは、彼女の意志もすごいと思うのだが、アメリカ統治下である日本から、留学するということ。昭和25年8月1日にサンフランシスコに向け旅立ったことだ。
昭和25年に、こんなことをできる日本人は皆無。余ほど、お金もあり、権力を持つ家庭のお嬢さんだったのだろうと思っていたら、父は衆議院議長まで務めた石井光次郎、おじさんに東急の総帥だった五島昇がいた。
石井さんは結婚に失敗している。この結婚は多分恋愛ではなく、父親が家柄を第一に見つけて押し付けたのだろう。
このエッセイでも石井は書いているが、その免罪符として大金を用意し海外留学を認めたのだ。
それから、石井さんが海外へ飛び出しても安心できると思ったのが姉朝吹登水子さんが、夫がユネスコに勤めていて、パリに滞在していたことだ。朝吹さんは、あのフランソワ・サガンを日本に紹介し、その訳者として名をなした方だ。
石井さんはジャズを海外に旅立つ前は歌っていた。だから、アメリカ、サンフランシスコではジャズを歌っていた。あの巨匠ルイ・アームストロングとも共演している。
しかし、ジャズは石井さんに合わなかった。そのあとニューヨークを経由してパリにむかう。そこでシャンソンに会い、自分の歌はシャンソンだと感じた。
そして、パリの高級クラブで歌い、テレビやラジオにも出演するほどの人気歌手となる。
このエッセイから、パリ時代の石井さんの生き方、描写は光輝いていて、魅力いっぱいにあふれている。
石井さんは、日本を旅立つときピカデリー劇場で当時の大歌手淡谷のり子などにより送別演奏会を開いている。司会は森繁久彌だった。
パリにいれば、石井さんはきっと世界的大物歌手になっていただろう。しかし、4年半のパリ在留をやめ、日本に帰国する。きっと日本でもその存在は認知されており、活躍できると思っての帰国だっただろう。
しかし、日本は様変わり。名前もしらない雪村いづみや江利チエミがシャンソン歌手としてスターになっていた。豆笠置シズ子と言われていた美空ひばりが一世を風靡していた。
石井さんがいる場所は無かった。レコードも出したが全く売れなかった。
この現実は、石井に大ショックを与えた。
ここから石井はアメリカ、キューバ、そしてパリへと活動の場を移すが、その時のエッセイは、最初のパリ時代のエッセイに比べ、精彩がなくくすんでいる。
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| 古本読書日記 | 05:58 | comments:0 | trackbacks(-) | TOP↑