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2018年04月 | ARCHIVE-SELECT | 2018年06月

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笹倉明    「上海嘘婚の殺人」(祥伝社文庫)

最近はあまり聞かないが、少し前まで、船に隠れて密航して日本にやってくる中国人がたくさんいた。マスコミにも取り上げられたり、彼らを題材にした小説もたくさん書かれた。

 上海に渡航すると、その繁栄ぶりは東京をしのぐほど、何でそこまでして日本を目指すのかさっぱりわからなかった。

 上海も人口1400万人。ぜいたくな暮らしを謳歌しているのは本当に一握りで、大多数は貧しい暮らしを強いられている。それで日本を目指す。

 日本に来て、男性はマフィアの一員に取り込まれ、女性はもっぱら売春で稼ぐ。
しかし偽造パスポートで入国しても、一時ビザで入国しても滞在できるのはわずかな期間。期限きれで滞在していると不法滞在で日本から追い出される。

 それで、どうするかというと異性にお金を払い偽装結婚をして永久的に滞在することを試みる。

 密航女性はこの作品では売春で一か月60万円を稼ぐ。不法入国の斡旋屋や、偽装結婚相手の斡旋で背負った借金を毎月返しても、まだゆとりのある暮らしができる。中国に追い返されたらまたあのどん底の暮らしが待っている。だから中国に帰るなど考えられない。

 ところが最近は、偽装結婚が多発しているために、法務省は、夫婦の生活状況や、結婚に至る経過を問いただし、その結果、結婚を認めるようになっている。

 結婚前のデートの写真や、ラブレターなどが証拠として求められる。もちろん同居しているかも。

 相手の男も、偽装結婚のために、斡旋屋からお金をもらっている。しかし、偽装のために数回でも2人が接触していると、特に男は本当に結婚をしたくなり、必死に求婚をする。それに弱り切った女性が事件を起こす。

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石原慎太郎    「男の粋な生き方」(幻冬舎文庫)

本のタイトルからして、人生のあるべき姿、あるいは人生の指南書かと思って読んだが、殆どが自慢話。自分があゆみ生きてきた人生はすべてが正しく、欠点や後悔することは何もなかったと。

 この作品のなかに、人生では貧乏を経験せねば、社会や他人のことが理解でき、強く生き抜ける人間にはならないという章があり、石原慎太郎が貧乏?少し信じられないと思いページを開く。

 その貧乏というのは、彼の一橋大学時代のこと。本当にお金が無く、貧乏の寮生活だったことをエピソードを交えて書いている。

 貧乏か裕福かということは相対的なものだと思う。戦争直後、国民全体が食うか飢えるかの瀬戸際だった時代。とても大学進学など考えられる状態ではない。それを思うと、そんな時代に一橋大学に通えたというのは裕福な部類に入っている。それを貧乏をしたことが人生の糧になっているといわれても素直に受け取れない。

 しかもそれは人生の中で少しの期間。

その直後には、富士重工をスポンサーにして、海外旅行など解禁されていない時代に、スクーターとトラックを連ねて、南米5000キロの旅をしている。まだ、パンアメリカン道路は無く未舗装の時代。

 東京オリンピックの翌年には、大京の横山社長のプラベートジェットでオーストラリアのゴールドコーストまで飛び、南太平洋の海を水中ハンティングして楽しむ。

 車が少ない貧乏な時代、ムスタングやトライアンプ、オースティンヒーレーなどを乗り回し、銀座で飲んで逗子の家まで帰ってくる。

 ヨットのことは全くわからないけど、読んだだけでいかにも凄そう。
「少し前に、人に勧められてディンキーヨットを手にいれた。ヨットの盛んなアメリカのメイン州の造船所で今もつくっている、知る人ぞ知る、かってのアメリカス・カップのJボートのデザイナー、ハーショフのデザインの十七フィートのガフリグつきのディンキー・ヨットだ」

 これで、世界のヨットレースに参加する。

 この人生に平凡な人々が何を学べるか。ただただ、ため息ばかりである。

しかし、石原が素晴らしいと思うのは、多くの書物を読み、多くの友人、知り合い知己をもち、それを血肉にしていることである。小説家で最も博識の作家であることは間違いない。

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心屋仁之助   「愛されて幸せになりたいあなたへ」(朝日文庫)

最近は、作者で検索したり、出版社の文庫で古本屋のネットで検索をかけ本を購入している。先週から今週にかけては「朝日文庫」から本を選んで購入した。朝日だから、悩みの相談のような単なるハウトゥー本は無いだろうと買い込んでみたら、一冊無いだろうに該当していた本が紛れていた。それが、この本。

 「めんどうくさい女」から「すあしなおんな」になりなさいというのが著者のメインテーマ。

 「めんどうくさいおんな」というのはどういうおんなかというと、何でも「どうせ・・・ない」と考える女。
 ・どうせ、私はかわいくない
 ・どうせ、私はすかれてない
 ・どうせ、私の話は誰も聞いてくれない
 ・どうせ、私にはできない
 ・どうせ、私は認めてはくれない
 ・どうせ、私はいてもしかたない
 それで「すあしなおんな」とは

  すなおになれば、あいされて、しあわせになる の頭文字をとってつけたもの
「めんどうくさいおんな」にあてはまる女性は、わざわざそういう女性を自ら作りだしている。そういときは、どうしてそうなったのか心の金庫をあけるパスワードを開くことをまずする。そして、記憶をたどる。

 すぐ記憶にたどりつくこともあれば、だんだんさかのぼってたどりつくこともある。そこで問い直す。「それ本当なのですか。」と。
 すると、それが思い込みや勘違いだったということに気付く。気付かなければ、思い切ってきっかけになった相手の仕草や言葉は、自分が思っていることと同じかと相手に聞いてみる。

 すると相手は「誤解よ。そんなことはない。」と答えてくれると。

著者はこう書いているけど、もし相手が「その通り」と言ったらどうなるの。その回答は本書にはない。

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さだまさし    「ラストレター」(朝日文庫)

この物語では深夜放送の全盛時、文化放送が作成したセイヤングをフォーヤング、パーソナリティとして土居まさるを土井まさろう、落合恵子を下落合恵子として回想させている。

 さだまさしはこのセイヤングでグレープとしてパーソナリティで登場している。当時の深夜放送は、パーソナリティが聴取者に寄り添い、聴取者はパーソナリティの言葉を信じ、強いきずなでつながっていた。

 ところが、セイヤングがそんな寄り添い語り掛けるパーソナリティ中心の番組から、パーソナリティを郷ひろみや桜田淳子、ピンクレディなどアイドルタレントに変え、多忙な彼らの時間を確保するために、生番組から録音に変えた。これにより、聴取者とパーソナリティの距離が大きくなり、セイヤングは打ち切りの危機に陥った。

 これに反発してかっての深夜放送をとりもどそうとさだまさしが文化放送に乗り込んで、忙しいにもかかわらず、生放送で13年間も「さだまさしのセイヤング」として番組を続けた。

 この物語は、そんなかっての深夜放送へのさだまさしの情熱や思いをこめた物語である。

 プロデューサーの田名網が主人公の寺島に居酒屋で言う。
「のべつ雛壇に芸人集めて駄弁るの。テレビでやってるだろ。あれ、面白いか?真昼間から夜まであれだぜ。さもなければ芸人たちがダラダラ商店街を歩いて食べ物をせびるみたいな今のテレビ。」

 まったく田名網の言う通り。

 で、さだはどんな深夜放送が欲しいのか。
今だってたくさんの孤独で寂しい暮らしをしている人はいる。そして、みんな誰かとつながっていたいと心底思っている。そんな人たちとつながっている番組を作りたい。

 そのためには、投稿はメール、SNS,FAXは受け付けない。すべて手書きの手紙かはがき。メールは、瞬間に思った怒りや悲しさをそのままの感情でストレートに表す。怒りや悲しさは、やはり一呼吸を終えて、ゆっくり感情を思い直して書くところに真実や重みがでるから。

 わかるような気もするが、つながり、癒しなどもう一つその中身を明らかにしないで、表面的な言葉で覆ってしまっているところは、なんとなく田名網の批判と同等レベルにも思えてしまう。

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| 古本読書日記 | 05:41 | comments:0 | trackbacks(-) | TOP↑

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「植物はそこまで知っている」 D.チャモヴィッツ

図書カードで買った本です。

植物における嗅覚・触覚・記憶ということで、擬人化して分かりやすく伝える手法ですが、
「植物にとっての「見える」は私たちの「見える」とは違う」
「植物に脳は無い。意識はない」
と何度も念を押します。

触られたことが、イオン濃度の変化とか電圧の変化とかでしばらく残っているとしても、「意識」しているわけじゃない。
持続的な気温低下によって遺伝子がオフになり、発芽のプロセスが進むようになるとしても、冬の寒さを「記憶」しているという言い方は誤解を招くかもしれない。
植物の尊厳とか、植物の神秘生活とか、植物神経生物学とか、ぎょっとさせるような言葉も世の中にはある。
そういう感じ。
水を浴びた花が嬉しそう。葉を食われた木が痛そう。全部、人間の思い込み。

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この本を読んだ後で、「猫が「今日逝くことにした」と言った」「猫も飼い主もご機嫌元気で行きたい」と語り、猫にさん付けしている本を読むと、複雑な気分ですね。

おまけ:誕生日に同僚からもらいました。
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| 日記 | 13:06 | comments:0 | trackbacks(-) | TOP↑

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「老猫専科」 南里秀子

ももこの夜鳴き(絶叫)への対策が書いてあるかと思い、読みました。
ネットでは
「かまってしまうと、『鳴けばかまってくれる』と味を占め、ひどくなる可能性がある」
という考えもあります。
この本では、かまってあげることを勧めています。
昼間も、あと何回この子とおしゃべりできるかわからないので、必ず返事をしてあげるというスタンス。
運動させれば夜は寝るという案もあり、この本にも亡くなる前日まで庭を散歩していた猫の話がある。
けれど、隣近所で迷惑をかけたら困るしねぇ。

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その他役に立つと思った例。
「ドライフード派で、晩年慢性的な便秘になり、獣医さんに掻きだしてもらった子がいる」
我が家はドライフードが主ですが、ウェットフードの比重を増やしてもいいかもしれない。
茶々丸がちゅーるをせがんで泣きわめくのは、水分を求めているのかもしれない。

しばらく前に、飼い猫の失明に気づいてあげられなかった自分を責めるという内容の漫画が、ネットで話題になりました。
この本によると、猫は「今日からはこれでいく」と対応して生きられるので、別に不幸ではないそうです。

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猫に関しては西洋医学より東洋医学、キュアよりもケア。
看取りの時にはアメジストを浄化し、ヒーリング音楽を流し、お香で心を静めた。
……このあたりに気を取られてしまうと、著者の個人的体験や主張ばかりの本だと思う。
老化や死を受容する過程とか、葬儀の準備とか、いろいろ扱っているんですけどね。

| 日記 | 13:03 | comments:0 | trackbacks(-) | TOP↑

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長山靖生編    「文豪と酒」(中公文庫)

16人の作家と9人の詩人が遺した酒が登場する作品のアンソロジー。もちろん主役の殆どは酒ではない。しかし脇役であるお酒が、作品の輝きを支えている作品集である。

 明治23年鴎外が「しらがみ草紙」に発表したドイツ留学時の体験を書いた「うたかたの記」のミュンヘンのビアホールの描写。まだ文体は文語体。しかし当たり前にして読んでいる現在の口語体より、ビアホールの情景がリアルに伝わってくる。

 「かく語るところへ、胸当てにつづけたる白前掛けかけたる下女(はしため)、ビイルの泡だてるを、ゆり超すばかり盛りたる例の大杯を、四つ五つずつ、とり手をよせて握りもつ」

 目の前に、腕っぷしの太いウェイトレスの姿がまざまざと浮かんでくる。

 私の若いころは、携帯はないし、電話も寮でひとつ、呼び出してもらう。だからデートの約束は手紙でする。不安なのは約束場所に彼女が来てくれるかどうか。この不安が大きくのしかかる。

 お金もないから、待ち合わせは喫茶店でも、デート場所は人のいない公園のベンチというのが多かった。

 そしてやっとこさ初めてのデートが実現しても、普段女性との交流が無いため、不器用な会話が続く。

作品集に収録されている堀辰雄の「不器用な天使」が、不器用なデートを描写。思わず、自分もこれと同じだったと懐かしさを覚えると同時に苦い味わいがこみあげてくる。

 主人公は学生。入ったバーのカウンターにいる女性に一目ぼれ。何回か通って、勇気をだして、デートの約束をとりつける。その場所が公園。

 約束の日、朝早く起きて、興奮し、家でだれかれ構わず大声で話しかける。母親は気が違ったのではないかと思う。

 公園のベンチで長い間坐っている。ようやく彼女がやってくる。

「彼女は殆ど身動きしない。・・・僕は絶えず何かをしゃべっている。僕は沈黙を欲しながら、それを恐れている。僕の欲しているのは、彼女の手を握りながら僕の身体に彼女の身体をくっつけているのみ。このことのみが僕らが許すであろう沈黙のみだからだ。
 僕は僕自身のことを話す。それから友達のことを話す。そしてときどき彼女のことを尋ねる。しかし、僕は彼女の返事を待ってはいない。僕はそれを恐れるかのように、僕自身のことを話しはじめる。」

 もう、本当に若いころの初めてのデートはこのまんま。

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朝日新聞社編    「薬草毒草300」(朝日文庫)

現在でも無医村、地域は存在しているが、よほどの僻地でない限り、道路は完備され、あるいはドクターヘリのような搬送装備も設置され、医者にかかれない人は殆ど存在しない。

 しかし私が子供のころまで、昭和30年代は、僻村が多く存在、病院にゆくにはバスが通っている道まで何時間かかけて歩いてでて、そこからバスに乗り、また数時間かけて町の病院まで行く人たちがいた。

 救急の場合は、戸板に患者を乗せ村の若い衆が何時間も走って医者まで連れてゆく。その間に息を引き取ることがしばしばだった。
 わたしの子供のころでそうなのだから、江戸時代など状況はもっと悲惨だった。

水戸光圀の侍医だった穂積宗興が1693年に作った「救民妙薬」という本がある。397の薬草をとりあげ、薬の作り方、処方、効き目について記載されている。過去の経験歴史からまとめた部分も少しはあるが、1596年に30年かけ造られた中国明の「本草綱目」から引き写したものが殆ど。

 この「救民妙薬」が家に備えられていて、病気やケガをしたとき、薬の処方をした。江戸時代はまさにこの本が医者だったのだ。

 野草というのは毒にも薬にもなる。猛毒でよく殺人に使われるトリカブトも、古代から毒矢の毒に使用されていたが、その毒も身体四肢股関節の麻痺、疼痛の回復、代謝機能失調の回復、虚弱体質者の腹痛、下痢など内臓の弛緩によっておこる症状の回復に有効な薬になる。

 最近はだいぶ野草の物質分析が進んでいるが、ある野草が薬として使われるためには、多くの人々の経験、犠牲の歴史が必要だった。

 この本によると、野草は道端にはえているものを片っ端から食してゆくと、半分は毒を含んでいるらしい。

 今は、殆ど無いが、昭和の初めには、野草を食して中毒症状を発症し事例が300件あったそうだ。

「笑点」で小遊三がよくぎんなんを拾うといって笑いをとっているが、ぎんなんも原因は不明だが、多く摂食すると、下痢や腹痛がおき中毒症状を発症するそうだ。ぎんなんを食べるときは少なめにだそうだ。

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黒柳徹子   「あの日の『徹子の部屋』」(朝日文庫)

テレビ朝日の「徹子の部屋」は昭和51年の2月に第一回目のゲストに森繁久彌を呼んでスタートした。私は、昭和50年に会社生活をスタート。すでに定年退職をしているが、「徹子の部屋」はいまだに続いている。日本テレビの「笑点」もお化け番組として続いているが、当初のメンバーからは入れ替わっている。しかし「徹子の部屋」は黒柳徹子が一人で40年を超えていまだに頑張っているからすごい。

 この作品は、そんな初期のころのゲストとの対談を収録。ほとんどのゲストがすでにこの世の人では無くなっている。作品を読むと会社生活をスタートしていたころの風俗や情景が浮かんできてとても懐かしく読めた。

 杉村春子の代表作は何といっても森本薫原作の「女の一生」。700回以上の舞台上演が行われた。その初演が行われたのが驚くことに昭和20年の4月。その一か月前には東京大空襲があり、戦争末期の空襲真只中。

 当初は築地小劇場で上演する予定だったが、空襲で焼け落ち、久保田万太郎や渋沢秀雄が尽力して道玄坂にあった東宝映画劇場でやれることになった。

 上演日数は5日間。空襲がポンポン行われている中。上演中、一日は東中野から日暮里までが全部焼かれ、もう一日は京浜地区が全部焼かれる。

 しかしよくそんな時に舞台公演などできたものだと感心するのだが、客が来るのだろうかと思って読むと、それがたくさんやってきて行列を作る。みんな鉄カブトや防空頭巾をかぶっている。

 もうその時は、明日の命がどうなっているかわからない。自分が生きているあいだに舞台をみておこうというお客さんで劇場はあふれかえった。

 空襲警報が鳴ると、当然劇は止まり、観客は避難に逃げる。しかし俳優たちは、劇場にとどまる。そして、また人々が戻ってくると、止まったところから劇が始まる。

 戦争といえば、この対談集に収録あれている三波春夫の体験もすさまじい。三波春夫は徴兵され黒竜江沿いのソ連国境沿いで戦闘に巻き込まれる。そこでの三波が語る戦闘場面が胸に突き刺さるように激しい。

 戦争を描いた小説は多いが、ここまで胸を打つインタビューは少ない。

 三波は、4年にわたるソ連での辛い捕虜生活をしている。

 前もってシナリオは多少できていたかもしれないが、杉村、三波の壮絶な体験話を引き出した黒柳の力にただただ感心した。

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佐野洋子   「私の息子はサルだった」(新潮文庫)

この前、故郷の村から電話があり、驚くことに保育園の同級会をやるから是非出席してほしいという依頼があった。正直、おぼろげに情景が浮かぶが、それが何の場面なのかさっぱり思い出さない。小学校の同級会は先生が92歳とご高齢で、先生の強い要望で出席している。しかし、低学年のとき、担当されていた先生。もう60年も前のこと。保育園同様先生の名前を憶えていても、その年代のとき何をしていたか具体的に思い出す出来事は全く無い。

 ところが先生のほうは、いろんな思い出を持っていて、あんなこと、こんなことと面白おかしくエピソードを話してくれる。みんな、そんなこと本当にあったのと驚く。

エピソードのなかで一番まいるのは、恋をしていたという話。保育園でのことを先生から言われても全く思い出が無いのだから弱る。

 このエッセイのような物語でも、佐野さんの息子さんがゲン(実際はケン)なる名前で登場。タニバタさんという同級生に恋する。このタニバタさんを、他の2人の男の子が好きになる。彼らがゲンの家に遊びに来る。それもタニバタさんを伴って。しかし、家ではタニバタさんをほったらかしにして、男3人が,基地ごっこなどをして遊ぶ。そして恋敵のはずなのに、3人は無二の親友となる。

 こんなことを面白おかしく佐野さんは事実を膨らましたり、嘘もいれて書き本で発表する。
息子さんであるケンさん。街を歩いている人から、指を指されながら、タニバタさんに振られたんだよねって言われるからたまらない。

 それで、ケンさんは母親の佐野さんに、もう自分のことは書かないでくれとお願いする。佐野さん不満顔をするが同意する。でも、本にはしなかったが佐野さん息子と自分について密かに書き、手元においていた。

 佐野さんは2010年に逝去されている。そしてこの作品は2015年に出版されている。
ということは、書きとめておいた原稿を本にすることを息子さんのケンさんが承諾しているのである。

 こんな楽しく面白い作品が出版され、多くの人々に読まれる。息子のケンさんの英断に大感謝。

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萩原浩   「逢魔が時に会いましょう」(集英社文庫)

大学4年生の高橋真矢は、映画研究会に入っている、その腕を買われて、やりたくもないのだが、アルバイトの金額になびかれて、民俗学者布目準教授のフィールドワークに動向する。

 そして、架空の創造物とされている、座敷童、河童、天狗が出没すると言われている場所を訪ねる。真矢の役割は、架空物が現れたときの写真を撮ること。

 坂東眞砂子が「恍惚」という作品で書いている。江戸鎖国時代でもオランダとは通商をしており、出島のオランダの通商代表とその部下が定期的に幕府拝謁のために江戸に来ていた。

 異人の行列がやってくると、一目異人さんをみようとする見物人が通りを埋める。茶色や金色の髪や眉。深く落ちくぼんだ目。天狗のような鼻。おまけに、眼窩で光っている目の玉ときたら、茶色や青色だったりする。あんな目玉で、本当にものがみえるだろうかと不思議な思いがする。とても、人には見えない。獣のようなめずらしい動物のように見えてしまう。人間をとらえて食べるのではないかとか空を飛ぶのではと思われていた。

 こんな知識があると、昔の伝説より、萩原が描いた天狗の源の説のほうが説得力がある。

戦国時代、戦いのため、鉄砲をはじめとした武器の製造が急増した。ここが本当かなと思うのだが、当時鉄の採掘、加工技術で先端をはしっていたのがタタール人。そこで各戦国武将はタタール人技術者を招いて鉄の採掘にあたらせた。鉄の採掘は深い山林の中。そこで、火をおこし、鉄を採取鋳造。この場所のことをタタール人からとって、たたら場というのだと萩原は説明する。

 そんな山の中で、高い鼻をして、目の青い大柄な鬼のような人間に出会う。彼らを見た人は度胆をぬかれたと思う。それで、彼らが天狗伝説を作り出した。なるほどと、思わずうなる。

 江戸幕府が鎖国を実施する前は、主に宣教師なのだが、たくさんの西洋人が日本にやってきた。
ポルトガルから来た宣教師はザビエルの姿を思い出せばわかるが、トンスーラといって凍頂部分は剃髪していて、黒いマントを羽織っている。

 日本人が宣教師に出会い、お前は何なのだと人差し指を指して聞く。問われた宣教師が羽織っているマントのことを聞いていると思う。実はマントをポルトガル語で「capa」というので「カパ」と答える。

 ここから河童が生まれた。愉快だけど、ひょっとすれば真実かもしれないと唸ってしまう。

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山田太一    「夕暮れの時間に」(河出文庫)

  テレビドラマ史に数々の名作を送り出してきた脚本家が、紡いだエッセイ集。
 
 私は未読だが、ノンフィクション作家の渡辺一史著作の『こんな夜更けにバナナかよ 筋ジス・鹿野靖明とボランティア
たち』に対する山田の書評に感動した。

 進行性重度身体障碍者だった鹿野靖明さんと鹿野さんが亡くなるまで係ったボランティアの人たちとの物語だそうだ。

 手足が全く動かなくなり、下の世話まで他人にお願いせねばならない状態になると、もう生きていても仕方がない、死なせてくれとお願いする尊厳死を望む人が多いし、その思いは普通のものだとみんな考える。

 著者渡辺さんが初めて鹿野さんにあったとき、鹿野さんには人工呼吸器が装着され、手足は全く動かず、死を待っている状態だった。驚くことに鹿野さんは我が家で死にたいとして、病院ではなく、自宅にこんなすさまじい状態でいた。

 こんな状態のまま、鹿野さんは半年をかけて人工呼吸器を装着したまま、会話ができるように訓練して可能にする。

 痰が絡むと、吸引をして取り除かないと、窒息死に至る。だから、ボランティアは24時間対応、夜中には常時3-4人ついていないといけない。しかも痰の吸引は医師か看護師でないとできない。

 鹿野さんは、「申し訳ないけど」とか「お願いします」という言い方を一切しないで、「やってください」とストレートに指示する。
 鹿野さんも、いつも他人に見られプライバシーも無いし泣くことさえもできない。

 自分も気を使わず、ストレートに言うが、ボラティアの人たちにもやさしさや思いやりなど一切持たないようにさせる。それによって、ボランティアの人生も豊かになり広がる。だから鹿野さんとボランティアは完全に対等である。

 真夜中鹿野さんがバナナを食べたくなる。「バナナをください」とボランティアを起こして言う。そのバナナを時間をかけゆっくり食べる。眠くてつらいのに、ボランティアに鹿野さんは言う。
 「もう一本」と。

 こんな飾らない関係が、人間同士の熱いつながりになり、ボランティアを辞める人がでない。常時40人のボランティアの人がいたそうだ。

 人のお世話になるのは申し訳ない、動けない状態では尊厳死だと思っていた自分が恥ずかしくなる。早速書評の作品を手に取ってみようと思う。

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伊坂幸太郎   「火星に住むつもりかい?」(光文社文庫)

 世の中には、個々の人々の人権や自由を基本的人権として最も重要視する国もあれば、個人より国家の安定、繁栄ひいては、権力を握った個人の安定、繁栄を最優先にする国もある。中国、北朝鮮、ロシアなどがこんな国にあたる。

 日本は個人の権利、自由が最優先の国のように見えるが、中選挙区制をやめ、政権交代が実現することを目的として、小選挙区制の導入したことにより様相は大きく変化した。

 中選挙区制では、多くの異なった政党が議席を得ることになり、独裁的な人間や政党がでることは困難になる。

 小選挙区制では、得票数がたった一票でも足らないと、争った相手は負け、負けた候補に投票した票はすべて死に票となる。結果、大勝か大負けしか現れなくなり、勝利した勢力と敗戦勢力との議席差数が異常に大きくなる。

 こうなると勝利した勢力、リーダーは国民より国家第一主義という旗のもとに、リーダーがやりたいことをし放題になり、個人の自由は厳しく制限される。

 そして、この作品のように、極端になると、国家反逆だと思われる人間を、とっつかまえて、自白するまで、拷問を続ける。監視社会が徹底され、告げ口だけで捕まり、ギロチンで公開処刑されるのが運命となる。

 恐ろしいのは、対立勢力のどちらも権力を握ると、国家主義に変貌し、個人にとっては救いようのない世界となる。だから地球に住むのをやめて「火星に住むつもりかい?」ということになる。

 この物語に久慈という理容店の店主が登場する。この理容店を利用している大森鴎外君が残した、白幡研究所が開発した強烈な力を持つ磁石で、久慈が利用客を救うために、人民に反逆する「平和警察」に立ち向かう。例えば、車によりかかる敵に磁石を投げると、磁石が車の鉄に反応して、猛スピードで敵の体にうちあたり、磁石と車体に挟まれ、動けなくなる。そこを木刀で殴り倒す。このあたりは痛快である。

 しかし、このことで、理容店の顧客が「平和警察」に引っ張られる。どうあがいても救われない人々の姿にやりきれなさが募る。

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道尾秀介    「透明カメレオン」(角川文庫)

アランの人生論集にこんな文章がある。
「悠然と生命をとらえなければならぬ。大げさな悲劇的な言い回しで我々自身のこころをひきさいたり、それを伝染させて他人のこころをひきさいたり、しないようにしなければならぬ。それだけではない。すべては互いに関係があるのだから、人生のささいな害悪にたいして、それをみせびらかしたり、誇張してはいけない。他人にたいしても親切にすること。ひとの生きるのをたすけ、自分の生きるのを助けること、これこそ真の慈愛である。親切はよろこびだ。」

 主人公の恭太郎は、魅力のボイスを持っているが、容姿は冴えない。その声を生かして夜のラジオ番組「1upデイ」でディスクジョッキーをしている。その恭太郎が、ある雑居ビルにBAR「IF」の案内板をみて、何も看板はないのだが、扉をあけて入る。

 そこは実に重苦しい空気が流れていた。でも、どうしてか、普通ならとても行きつけになるような店では無いのだが、次の日もまた次の日もでかける。

 その店にいるのは、百花さん、石乃崎さん、重松さん、ママ、レイカさん。恭太郎は店の人たちに過去起こった出来事を番組でしゃべる。しかし、それは店名「IF」のように、もしあそこで、こうしていたらこんな楽しい結末を迎えただろうという嘘話。現実はどれもとんでもない不幸な結末を迎えてしまっていて今はどん底に落ちてしまっている。

 店には絶対他の人はやってこない。そして、恭太郎自身も兄弟、両親を最近事故で亡くしてしまうという、悲劇に出くわし、心底参っていた。

 だから、その重苦しい雰囲気に浸りたくてでかけてしまう。
 そんなとき、他の5人は、恭太郎を驚かしたり、励ましてやろうといつもイタズラをしかける。

 その店に、最も辛い不幸せに直面していると思わせる、三梶恵が飛び込んでくる。不幸の元である男に復讐をする三梶の計画に恭太郎をはじめ5人が協力する。

 その原因が、普通はそこまでしないだろうと思われるような内容。だからしっくりいかないまま読むと、最後にそれぞれの持っている不幸が明らかにされる。

 それでアランの言葉とともに、なるほどと八方破れの行動に納得する。

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笹倉明     「推定有罪」(岩波現代文庫)

横浜日雇い人夫のドヤ街、祝町で焚火をしていた日雇い人夫たちの傍らで午後10時40分に殺傷で殺された遺体を近くの民生委員大内衛が発見し警察に届ける。

 このミステリーは小説かと思ったら実際に起きた事件を扱うノンフィクションだった。しかも解説を書いている法曹界では有名な弁護士野村吉太郎が、この作品の主人公である奥村紀一郎が野村のモデルになっている。

 作品を読むと、ドヤ街に暮らす人など、社会が人間どころか虫ケラにもおよばない扱いをするものだと痛切に感じる。また住人たちも、社会にまともに扱ってもらえないことを認識していて、まともな社会というのは信用できないし、くず扱いしかされないと信じている。

 だから、こんなところで起きた虫けらの殺しなど、警察も検察、裁判官も、あるいはこの裁判で一審の弁護を行った国選弁護士もくだらない事件で、自分たちの仕事に値しないと思っている。

 警察はまともな取り調べをせず、犯人はこいつにしようという乗りで決める。同じ調子で検察も裁判も、弁護士も仕事そのものが時間の無駄ということで警察の逮捕者を犯人として処理しようとする。

 容疑者にかつぎあげられた謙太幸雄も法制度のことなど無知。過酷な取り調べに、音を上げ、裁判をすれば裁判官が無罪にしてくれるだろうと勘違いし、自白をしてしまう。身に覚えのないことだから、刑事が書いたストーリーをその通りと追認して、検察に送致される。

 ものすごいのは、目撃者として調べを受けた島尾が、犯人は謙太かわからないと繰り返し主張。それで、警察は「わからない」という調書を読み上げ、これでokかと島尾の確認をとる。その調書は、横書きにされている。

 刑事が縦書きに書き直された調書をそのあとだし、正式文書はこちらで全く同じことが書いてあると言い、島尾に拇印を押させる。しかし、その調書には謙太が犯人であると書かれていた。

 この作品、謙太無罪に偏らず、客観的に長いページをかけ事実を描いている。しかし、どうみても冤罪である。そして、虫けらの起こした事件など誰が犯人だっていいじゃないかという司法関係者の思いが強烈に透けてみえる。

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松本清張 「ゼロの焦点」

wikipediaによると、この作品の1961年版映画は「主人公と犯人が崖の上で相対する」というベタなシーンの原型といわれているらしいです。
砕ける波 急停車するパトカー よれたコートの裾を揺らし、ばたんとドアを閉める刑事 
「早まるんじゃない!」

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ざっぱーん

原作では、主人公が崖にたどり着いたとき、犯人はすでに小舟で海上に去っています。
舟が波にのまれるか、犯人が海に身を投げるか、手持ちの青酸カリを飲むか。
主人公は崖の上から見守るしかないという展開ですね。

で、作品の内容。前回読んだ「喪失の儀礼」と比較。
良い点>
①最後に、犯人からすべてを打ち明けられたという人が出てきます。
この後、裏付けがされるのでしょう。証拠無しで話が締められるのは辛い。
②主人公たちがしつこく訪問する相手は、実際事件に深くかかわっています。迷走している印象はない。
③事件発生から解決までが3週間というスピードで、間延びしない。

微妙な点>
①本多氏をはじめ、一般人数名が仕事をほっぽり出してそれぞれ聞き込みをする。…働けよ。
そして、何かつかめたという感じを主人公に見せたと思ったら、すぐに消されるw
②謎解き役が一般人なので、「簡単に戸籍を見せてもらえるのか?」「警察に『何を嗅ぎまわっているんだ』と疑われないか?」と思う。
③主人公が都会的な美女設定で、謎解き助手も下心ありで動くのが、なんとも。

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「砂の器」にせよ「人間の証明」にせよ、隠したい過去が動機という設定は好みです。

| 日記 | 18:39 | comments:0 | trackbacks(-) | TOP↑

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今谷明    「歴史の道を歩く」(岩波新書)

山歩きのベテランであり、歴史家の著者が、史実に思いを馳せながら、歴史の舞台となった、険しい山道をたどった歩行記録。
明治の輸出産品の三分の一は生糸だった。だから生糸生産は国の屋台骨を支えていた。その最大の生産地が長野県の諏訪にある岡谷。そして、その糸ひき女工としてやってきたのが、飛騨高山地方の最も若い12歳から13歳を先頭に20歳くらいまでの女性たち。

 この飛騨高山から信州に至る道で超えるのが野麦峠。

飛騨高山から両親や兄弟に連れられてやってきたほとんど少女のような女工たちは野麦峠にある旅館にたどりつき、そこで家族に励まされ、もう会えないのではという辛い別れをして、岡谷の製紙工場から案内人としてやってきた男たちに引き取られ、そこから何とまだ7つの峠を越え、歩いて工場までやってくる。

 そして逃げられないように鉄柵で囲った工場で1日13-14時間殆ど休憩なしに糸ひきをする。多くの女工が結核で倒れ、亡くなった。

 著者である今谷は、この女工たちがたどった古い道を長野県側から岐阜県側に歩いてたどる。
 細い峠道と山並み斜面をトラバースして、今谷は野麦峠に到着する。そこに建てられた女工みねの肖像にふれ、山本茂美の「ああ野麦峠」を感慨深く思い出す。

 結核で倒れ、工場まで妹みねを連れにやってきたみねの兄。みねを背負って野麦を越えようとする。そのとき峠でみねが「飛騨がみえる。」といってこと切れる。

 たくさんの女工の悲劇がみねの悲しい言葉とともに、ぐっとせまってくる。

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| 古本読書日記 | 06:02 | comments:0 | trackbacks(-) | TOP↑

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岩波明     「うつ病」(ちくま新書)

バブルがはじけて、数年たって出版された鶴見済が執筆した「完全自殺マニュアル」は大ベストセラーとなった。この本を読み自殺をした人もでた。この時期日本経済は落ち込み不況が日本を覆いつくした。そしてそこから自殺者数が急激に増加。1999年には3万人を突破、ずっと3万人台が維持されてきた。

 ここにきて、失業率が低下し、景気も上向きになったことが影響したのか、最近では2万4千人までに減っている。それでも自殺率は、先進国のなかでは最も高い水準にある。

 この作品に「完全自殺マニュアル」の「はじめに」から引用している文がある。

「そう、もう死んじゃってもいい。学校や会社に行ったり、生きてるのがイヤだったり、つまんなかったり、それどころか苦しかったりするんなら、細い境界線を踏み越えて死んじゃえばいい。誰もそれを止めることなんができない・・・・『将来、将来!』なんていくら力説してもムダだ。あなたの人生はたぶん、地元の小中学校に行って、塾に通いつつ受験勉強をしてそれなりの高校や大学にはいって、4年間ブラブラ遊んだあとどこかの会社に入社して、男なら20代後半で結婚して翌年子供をつくって、何回か異動や昇進をしてせいぜい部長クラスまで出世して、60歳で定年退職して、その後10年か20年趣味を生かした生活をして、死ぬ。どうせこの程度のものだ。しかし、絶望的なことに、これが最も安心できる理想的な人生なんだ。」

 組織や企業は、個性的な人をあぶりだし、一緒に仕事をしたくない人として、はじきだす。しかし、最近は企業自らがリストラと称して、はじきだすべき人を能動的に作る。徐々に変化しているかもしれないが、日本では一旦はじきだされると、ほとんど復活するステージは用意されていない。

 この恐怖が、過労死自殺を生むし、中年以上の社会人の自殺をつくる。

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| 古本読書日記 | 06:00 | comments:0 | trackbacks(-) | TOP↑

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中村明    「日本の一文 30選」

爺やの記事はこちら
爺やは感想をしばらく寝かせてからアップするので、読んだのは私の方が後です。
というか、爺やがパソコン横に置いていたのを拝借しました。

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「国境の長いトンネルを抜けると雪国であった」
コッキョウと読んでいました。
県境(ケンザカイ)とか端境期(ハザカイ)とかは使うとしても、クニザカイという表現はなじみがないものです。

「硝子戸の中」
「ギュッと締めて、フワッと放してふくらます」絶妙な結びということです。
解説されてみると、うーん……付け足して付け足して、いまいちな感じに思えるんですがね。

村上春樹とか小川洋子とか新しめの作家も紹介していますが、こういう古典純文学っぽいものが多いです。
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太宰治「駆け込み訴え」、夏目漱石「吾輩は猫である」、梶井基次郎「檸檬」くらいは、だいたいの本屋にあるでしょう。
私が気になったのは石川淳「紫苑物語」ですが、イオンの本屋にはなかった。
爺やのリストにはあるが、見つからず。
井伏鱒二「鯉」「点滴」も気になるが、爺やの本棚に見つからず。
大体そんな感じです。

| 日記 | 20:30 | comments:0 | trackbacks(-) | TOP↑

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宵越しの図書カードは持たない(18’前半)

1年前は、猫漫画を買いました。
似たタイトルで、半年ごとに記事を書いています。会社が、半年ごとにくれるんですね。
半年前はたしか問題集を買った……かな。記事にしていないってことは、漫画や小説ではなかったのだろう。

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ほしかった本は、無かった。(次の記事でごねています)
上司が「エクセル活用法の本を買う」と言っていて、そういうのを期待されている気もする。
とりあえず、商品理解に役立ちそうな「機械入門」と、大学時代からの延長で「植物雑学」。
ちなみに、医学部(保健)中退 理学部(生物)卒業 乙仲勤務 です。 

今回は、部署の業績が良かったそうで、商品券もいくらかもらえました。
さくらのガムと、猫ベッドと、ユニクロのエアリズム(タンクトップ) に消えました。

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こういうベッド、4千円5千円平気でするんですよ。
天井部分をつぶして、屋根なしとしても使用可能。
臨時収入で気前よく買っちゃって、使ってくれていて一安心。

| 日記 | 18:34 | comments:0 | trackbacks(-) | TOP↑

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中村明    「日本の一文 30選」(岩波新書)

子供のころ日本映画は最高の時を迎えていた。よく、父に連れられて映画を見に行った。洋画には連れて行ってもらえず、邦画ばかり。当時の子供は、大映の鞍馬天狗や宮本武蔵シリーズや東映の片岡千恵蔵、月形龍之介のチャンバラ映画に夢中。しかし父は全くそういった映画には興味を示さず、もっぱら文芸作品主体の松竹、東宝作品ばかり。まったく不満たらたらだった。その中でも、当時見ていても何が面白いのか全くわからない小津安二郎作品を称賛してよく見せられた。

 なにしろタイトルが「早春」「晩春」「麦秋」「秋日和」「秋刀魚の味」「お茶漬けの味」とどれも同じようにみえ、しかも登場する俳優が笠智衆、佐分利信、中村伸郎、北龍二、東野英治郎、原節子、田中絹代、淡島千景、杉村春子といつも一緒で、演じる役も似通っている。
同じ作品を見ているのではと錯覚する。

 しかし小津は今みると私たちが無くしてしまった、日本人の含羞や、心の深さ、心情をわずかなセリフの中にすべて込め、見事に表していると感動する。

 小津自身、非常にシャイな人だったらしく、生涯独身で母親とともに暮らし60歳まで生きている。

 女優の飯田蝶子が小津の家にテレビをプレゼントした。小津から電話がかかってくる。飯田は当然お礼の電話かと思う。ところが小津は電話で怒る。
 「あんなもの贈ってもらってとんだ迷惑だ。母がテレビの前にすわりっぱなしで、ちっとも自分の世話してくれなくなった。」と。
 飯田は
「ああそう。ざまあみやがれ」と言って電話を切る。
これだけのやりとりだと、小津はひどい人間だと思えるが、実は小津は電話で涙声だった。

シャイな小津の最大なるお礼の言葉だ。だから飯田もうれしくなって、啖呵をきっているのである。

 名画「東京物語」妻を失った笠が演じる海がみえる崖の空き地に座っている周吉に息子の嫁の紀子が心配になって「おとうさま」と声をかける。そのときの周吉のポツンと言った一言が「今日も暑うなるぞ。」と言って紀子に微笑む。

 その言葉がいつまでも画面とともにおいかけてくる。この一言に、孤独に耐えても生きていけるよということ、それに気使ってくれる家族への感謝が表現されている。

 シャイな小津の見事なセリフと演出である。こんな映画はもう見ることは不可能な時代になった。

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| 古本読書日記 | 06:18 | comments:0 | trackbacks(-) | TOP↑

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岩波明    「心の病が職場を潰す」(新潮新書)

うつ病は、今やありふれた病気になり、企業内にも発病して治癒をしている人はあちこちにみられる。

 うつ病が発症した人の大きな問題は、病気の再発率が高く、職場に復帰しても、周囲は腫物を触るような扱いをし、更に当人の業務能力も極端に落ち、職場の重荷になることが多いことである。

 だから企業は、本音で言えば、会社の退職を望むし、この本では、露骨にやめるように企業が仕向けたり、企業内でも引き取り手がなく困り果てる現実を描く。

 取り上げられているどの事例も(一例を除いて)、現在のおかれたうつ病罹患者問題を浮き彫りにすることを意図しているのか、うつ病が治癒しても職場に復帰できなかったり、復帰しても、通常の仕事ができず退職し、労災補償を求めて会社との争いの事例ばかりになっている。

 私の職場にも結構重いうつ病にかかった人がいた。私がうかつだったのだが、彼と部下との関係が悪化して、部下より排除され、孤立化していたことを把握していなかったことだ。

 そのうちにいつも声をあげて部下に指示命令していた姿が消え、孤独で憂鬱、寡黙な姿に変わり、仕事が手につかず、茫然としている状態になった。

 メンタルクリニックを会社から紹介してもらい、診断を受けたところ「うつ病」と診断され、会社は休職、自宅療養となった。

 時々、自宅まで様子を見舞いに行ったが、やせ細り、よだれをだらーっと垂れ流し、こんにゃくのような状態になっていた。その時は職場復帰など夢で、この病気は治らないのではと思った。

 治癒したということで、一旦職場に復帰したが、すぐうつ症状がでて、再度休職となる。さすがに彼ももはやこれまでと思ったようだ。
 その彼が治療の結果治癒したということで、まあ会社も配慮が無いというか、元の私の職場に復帰してきた。

 その時、みんなを集めて言った。「医者が治癒したと診断しているのだから、必要以上に気を使うな。普通の人として認めて、通常どおりの対応をしろ。自分もそうするから。」
 だから、部下との衝突をしたときも、彼を叱った。

 そして、転機となったのが、私の職場に、タイの工場から、私の職場で行っている業務のできる人を派遣するよう要請がきた。
 精通、仕事の能力からみれば、適当な人材は彼しか思い当たらなかった。彼もやってみたいと応じてくれた。それで彼を転勤させる決意をした。

 人事部門を中心に周囲から猛反対を食らった。追い詰められて、クリニックの先生のところまで行き、先生に転勤しても支障はないと一筆書いてもらい人事部に提出し、説得をした。

 タイの工場長も、彼の経歴を知った上に、彼の仕事っぷりを見ていて問題ないと判断してくれうれしかった。

 そしてタイに転勤。私自身も心配だったので、それから海外出張のあるたび、用事もないのにタイに立ち寄り彼の元気で活躍していることを確認した。彼はその後ヨーロッパ駐在もして、定年まで勤め上げた。

 この作品、うつ病罹患者の企業での扱いの困難さばかりを強調するのでなく、職場復帰をして活躍した事例ものせてほしかった。

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| 古本読書日記 | 06:16 | comments:0 | trackbacks(-) | TOP↑

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岩波明    「精神障碍者をどう裁くか」(光文社新書)

データは古いが、平成16年心神喪失者が起こしたとみられる事件のうち、殺人事件では84.5%、放火では64.9%が不起訴となり、刑罰は問われなかった。多分、そのほとんどでは精神鑑定は行われず、検挙者の逮捕時の様子で、警察がこれは精神障碍者で逮捕に能わずとして、そのまま病院の精神科に連れてきて引き渡した結果だろうと思う。

 どんな重罪を犯しても、警察が一旦精神科に引き渡すと、検察、警察、司法は全くかかわりが無くなり、ずっとあとは精神科病院の対応が残ることになっていた。

 しかし、2001年6月8日に宅間守により引き起こされた大阪池田小学校の8人の無差別児童殺害事件で、それまでの対応ではまずいという世論が沸騰した。

 犯人宅間は、その2年前勤めていた学校の教師4人に精神安定剤入りのお茶を飲ませ障害容疑で逮捕されていた。精神鑑定が行われ「統合失調症」の疑いがあると診断がくだされた。しかし、医師は責任能力は問えると判断した。

 ところが、それまでの慣行では、警察は一旦病院に引き渡した犯人は、再度引き取ることはしないということで徹底していた。それで、病院の治療後、社会にでて、惨劇を引き起こした。
 この対応に、犯罪人を野放しにしたということで世論が怒ったのだ。

そこで、医療観察法という法律ができ、運用が始まっている。
 法を犯した精神障碍者を触法精神障碍者という。この触法精神障碍者は、行政、検察、病院が状態をみて、3者の合意をもって司法が精神病院に入院させるか判断。その経過も3者がみてゆくという法律である。

 驚いたことに、精神障碍者の人権無視ということで、当時の民主党はこの法案に反対している。

 しかし、入院治療費は税金で賄われることもあり、入院治療期間は一年半が限度ということになっている。死刑相当のような事件を起こしても、一年半がたてば社会へでることができる。

 岩波明は、そんなことは無いとこの著書で強調しているが、精神障害についてはどうにも割り切れないところが残る。
 他の病気のように、物理的に完治したということが殆どなく、医者の主観により治癒したか判断されるからだ。

 幼女連続殺害事件で逮捕された宮崎勤の精神鑑定で鑑定士である別々の医者から4通の鑑定書が提出されたが、4通とも内容が異なっていた。

 この時、ある犯罪コメンテーターは精神鑑定という作業はアートであり鑑定書は作品であるとまで言っている。まったくひどい話だ。

 ということは裏を返せば、精神的病の判断は科学的な確固たる根拠でなされていないのではないかとどうしても思ってしまう。

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| 古本読書日記 | 05:50 | comments:0 | trackbacks(-) | TOP↑

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中村明    「語感トレーニング」(岩波新書)

最近は、男女共同参画社会になり、差別をしてはいけないということで、使用してはならない言葉がたくさん増えた。めくら、かたわ、びっこ、女中、お手伝いさん、看護婦、スチューワーデスなど。

 この本を読んでいると、近視は良いが、近眼は障害者差別ということで使ってはならず、外人は欧米人を指す言葉で、欧米以外の人を差別するということで使用は控え、日本人以外は外国人を使用するようになったと書かれている。驚いたと同時に、随分窮屈になったものだと思った。

 自分たちの年代では、つい最近まで当たり前のように使っていた言葉が、使われなくなり、もう死語に近くなったものが多くあり、寂しさを感じる。

 テニスは、学生時代大会ではテニスと表現せず庭球大会と看板には書かれていた。ネットメール時代になり、手紙も死語になるかもしれないが、我々の時代の「お便り」も完全に最早死語になった。今は急行列車は私鉄では残るが、JRではなくなった。この急行に対し、鈍行という呼称があり、少しとろい印象があるからか、これも無くなり「普通列車」となった。お風呂も我々の子供のころは「湯殿」と言っていた。知らないうちにまったく聞かれなくなった。童謡にもある「ゆりかご」も死んだ言葉だ。

 この本を読んでいると、作家には、心の片隅でさび付いてしまっている言葉を引っ張り出して、ぜひ使ってほしいと思う。

 吉行淳之介は編集者時代に編輯者が編集者に代わり、全く違う職業についたように感じたと言っている。

 田宮虎彦は、夏のてりつける日には日射しと表現し、秋の柔らかい日には日差しと書いて使い分けていた。言葉を多く持ち、掬いだし、使い分けた物語に出会いたい。

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| 古本読書日記 | 05:44 | comments:0 | trackbacks(-) | TOP↑

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辰濃和男     「文章の書き方」(岩波新書)

著者辰濃は、1953年朝日新聞入社の新聞記者。1975年から86年まで朝日新聞コラム「天声人語」を執筆している。先人の偉大な小説家の手による「文章読本」より、事例も豊富、丁寧でわかりやすい作品になっている。

 1972年、グアム島で生き残り日本兵がジャングルにいるという一報がはいる。当時朝日の花形記者だった、森本哲郎を含め23名のマスコミ関係者が現地へ飛ぶ。まず生き残り日本兵 横井庄一さんが住んでいたという洞窟を探すのが先決。

 23人の記者団は、ジャングルをぬけ、沼をかけ、がけをよじのぼり、やっと横井さんが隠れていたという竹藪の丘を発見する。そこで、森本は驚く。丘の上から、コンクリートの給水塔やアパートがはっきり見える。

 森本はカメラマンに言う。しっかりとアパートと給水塔をカメラに移すようにと。そしてジャングルを逃げ徘徊していたという横井さんが、実はジャングルではなく文明と一緒の場所に住んでいたことを事実として森本は書く。

他の記者は、横井さんは23年間ジャングルを逃げ回り、厳しい生活をしていたという記事にしないと、臨場感がでないと思い込む。だからジャングルだけを写し、事実を意識的にカットし記事も横井さんが苦闘、苦労してきたと書く。

 先入観を排し、事実を正確に書いたと辰濃は自分の属する朝日を称賛し、こうであるはずだという筋書きに沿って記事を作った他社を非難し、文章の書き方で最も大切なことは事実をきちんと書くことをあげる。

 朝日は最近の新聞で、カンボジアが完全に中国傘下にはいってしまっていることを一面トップで扱っている。そして、中国のように一党独裁で、言論を統制してでも、国を繁栄に導くことが、新しい国造りの在り方のような報道をしている。一方でトランプのような劣化した政権を選択するようなアメリカ型の民主主義は時代遅れかもしれないと書く。

 2つのことが言える。

こんな浅薄な思い込みの記事を一面トップに持ってきてはいけない。新聞の一面は起きたことを正確に事実をもって読者に知らせる記事でなければならない。

 朝日は中国のありようが進歩的で優れていると本当に思っているのだろうか。それであるならば、「特定秘密保護法」が言論統制につながると言って反対してはならない。

 私は、トランプが劣悪な政権だったとしても、それを民衆が選ぶことのできる社会を望む。

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| 古本読書日記 | 05:54 | comments:0 | trackbacks(-) | TOP↑

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辻村深月    「太陽の坐る場所」(文春文庫)

人生も老年にさしかかる。人によっては、人生の成功者として、よかったことばかりしか浮かんでこない人もいるだろうが、私は、いやなこと、まずかったことしか浮かんでこない。

 それは、もう記憶のかなたにあって、現在とは何ら関係のないことなのだが、あのとき、あれが失敗してと、しょっちゅう苦い胃液がこみあげてくる。

 さすがに60歳も半ばな年では、高校時代の思い出はほとんど浮かんでこないが、この物語のように28歳の年頃の人たちは、高校時代がまだ近くにあり、やはり、苦い思い出として高校時代のことが頻繁に浮かんできて、そのたびに心を痛める。

 この物語には28歳の2人のきょうこが登場する。一人はキョウコと芸名を名乗り、女優として活躍する鈴原今日子。もう一人は、大学を卒業して、父親のコネを使い、地元のテレビ局に就職。テレビアナウンサーとして、地元の番組に頻繁に登場している高間響子。

 高校生時代の今日子の場面はほとんど登場しないので、今日子の心象はよくわからないが、響子がリーダーとして引き連れる団のひとりであったようだ。

 その響子。高校時代は、取り巻きを軍団化して引き連れ、女子高生のリーダーとして振る舞う。リーダーとして、団員には優しく振る舞い、相談にも真剣にのってあげる。ただ、傲慢なところもあり、2人組の女の子が軍団にはいりたいと申し出ると、必ず一人は拒否される。

 この、響子に転機が訪れる。清瀬というイケメンの生徒を好きになる。清瀬は響子を意識せず、軍団の誰とでも仲良くなる。それで、響子が仲良くなった女の子を排除したり差別をする。すると、軍団を離れてゆく女の子がでてくる。

 もうほとんど軍団から女の子が離れ、哀愁が漂う響子に唯一忠誠を誓う浅井倫子が、傷に塩をぬるように、清瀬が誰と楽しそうにしていたと告げる。倫子は今日子が響子の前に連れてきた。

 響子は怒り心頭して、倫子を体育の器具が保管してある部屋に閉じ込める。倫子は泣きながら外へ出してほしいと叫び続ける。そして一夜明け倉庫からだしてあげると、そこから登校してこなくなり、そのまま新潟に転校してしまう。

 これが響子にトラウマとなる。そして卒業式に今日子に倉庫に閉じ込めてほしいとお願いして、閉じ込めてもらい2日間過ごす。
 もうこれでいやな高校時代には縁をきっておさらばとなるはずだったが、この高校時代のトラウマが年がら年中浮かんできて、響子を悩ませる。

 高校時代のクラス会。響子はずっと出席していなかったのだが、同じく出席していなかった今日子が、倫子を連れて出席することを知り、倫子と今日子に高校時代の不始末を謝ろうと思い、決心して出席する。

 何とか謝ったが、そこで倫子の転校の本当の事情を知ったり、倉庫事件など気にしていまいことを知りあっけにとられる。

 で、それで響子は気が晴れたか。多分そうにはならない。ずっと疼く日々が続く。

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| 古本読書日記 | 05:43 | comments:0 | trackbacks(-) | TOP↑

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ニーチェ   「この人を見よ」(岩波文庫)

哲学書はニーチェを含め、ほとんど身近で親しんだことがないので、理解が浅く、頓珍漢な感想になるかもしれないことが少し怖い。

 ニーチェは旧来の価値の転換を強烈に主張する。旧来の価値というのはキリスト教である。

 メリメに自分が言いたかったことを先に言われたとことわってメリメの言葉を紹介する。
「神のなしうる唯一の弁解は、実は自分は存在していないのだと言うことだ。」

 これに続けてニーチェは言う。
生存に対するこれまでの最大の抗議は何であったか。神を案出した・・・こと。

 そしてニーチェは高らかに宣言する。
わたしがはじめて「真理」をはかる尺度を手にいれたのだ。わたしがはじめて決定することができるのだ。・・・まるでわたしの内部で「意志」が一つのあかりをともして、いままでその意志がやみくもに走り下っていた下り坂を照らし出したかのようだ・・・この下り坂―それは「真理」への道と呼ばれていた。・・・あらゆる「暗い衝動」は終わりを告げる。よい人間こそ正しい道を知ることがいちばん少なかったのだ。・・・・わたしの出現以前には何びとも正しい道、すなわち上りの道を知らなかったのだ。わたしが現れてはじめて希望が、使命が、規範となるべき「文化の道」が再生したのだ。-わたしはその文化の福音の使者なのだー。

 そして、自分が上り下りする梯子は途方もなく、どんな人間より遠くを見た。より遠くを意識した、より遠くに達した。その上下で最も深いところに達して、相反する矛盾を統一できたのは人類史の中で自分ニーチェのほかに誰もいないと高らかに宣言する。

 ニーチェはこの作品を記した直後、精神異常をきたし、その苦しみのなかで11年後に亡くなる。

 しかし、この作品を読んでいると、現在の人類の規範から見た場合、ニーチェが異常に見えただけで、実は今の規範が人類の歴史において異常なのかもしれないと感じた。

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岩波明   「生の暴発、死の誘惑」(中公新書クラレ)

日本には社会というものが存在しないか、存在していてもその存在感は希薄だ。そして、社会の代わりに、物事を決めてゆくのが世間である。

 会議や公の議論は、ほとんどが形式的で意味が無い。決まり事はすでに会議の前に、世間の根回しや、話し合いで決められている。

 世間によって個人と個人は結び付けられる。日本では、この世間からはじかれると社会から抹殺されることになる。だから、抹殺されないために、世間にすがり、会話や行動に最大の神経を払うことになる。

 初対面の人同士は、まず相手が自分の世間が許容できる人間であるかを確かめる。出身校や出身地、どこの会社に属し、地位はどこのあたりかを確かめる。そして、その後に性格や趣味などが問題となる。

 ライブドアの社長だった堀江貴文氏が、釈放されたときの第一声は、「世間をお騒がせさせ申し訳ない。」だった。あくまで社会ではなく、自分がかかわり、つながりのある狭い世界である世間である。

 この世間に交わることができなかったり、世間文化がいやな人は、バックパッカーとなって新しい自分の居場所を求めて世界を放浪する。こういう人たちを「引きこもり」をもじって「外こもり」という。

 しかし残念なことに、世界にも居場所はなかなかみつからないまま、放浪はいつか終了しなければならないときを迎える。

 フランスやイタリア、スペイン。移民だらけだし、失業率も高いし、貧富の差も大きい。
日本は3万人が毎年自殺で命を落とす。フランス、スペイン、イタリアでは自殺率は日本に比べ圧倒的に少ない。

 社会の包容力、厚みが日本と比べものにならないほど大きい。

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柿崎明二    「検証 安倍イズム」(岩波新書)


大改革とか、官僚主導から政治主導にと過去スローガンをぶち上げるが、結果何もしない、できない政治家ばかりだった。ところが安倍はスローガンをかかげて、どんな手段を使っても実現しようと突っ走る政治家だ。

 驚いたのは、企業のベースアップ実現方法である。それまでは、各企業や所属する企業団体で労使によって決めていた賃上げを「経済の好循環実現に向けた政労使会議」という諮問機関を作り政治主導で賃上げを実施したことである。
安倍と麻生副総理は互いに寄りかかり一心同体にみえるが、麻生は賃金改定に政府が絡むことには猛反対している。だから、第2次安倍内閣の最初の年は賃上げに政府がからむことはできなかった。

 安倍のよくも悪くもすごいところは、自分の思っていることは、どんな手段を使っても実現しようとすることだ。マスコミをはじめ大反対にさらされても、揺らぐことがない。ほとんどの政治家はこういった場合揺れ、ぶれる。悪く言えば、安倍は子供っぽく、わがまま、頑固とも言える。

 加計学園獣医学部新設などは、構想を打ち上げてみたはいいものの、誰も手をあげないとまずいと思い、安倍が加計に裏で頼み込んだのではと思う。どんな手段を使ってでも、思ったことは実現したいという安倍の思いが安倍を行動させる。

 それから安倍のもうひとつの特徴。国家優先主義である。個人の自由、自立より国家の繁栄、独立が優先するということである。だから「美しい国」ととなえ、国民に国家を愛し、守ることを求める。そのために教育、特に道徳にその考えを入れ力をいれる。

 愛する国を守るという信念で、集団的自衛権の解釈を拡大適用したり、憲法改正に強い意欲を示す。

 しかし、この考えは危険が伴う。個人と国家が相反した場合、個人の行動、言動に国が介入してしまう。

 民主党政権時代は、何かにつけ中国の反日行動に、弱腰対応が繰り返された。安倍に代わり、強硬な姿勢は、民主党時代より中国の反日を招いても不思議ではないのだが、中国の反日をピタリとやめさせた。

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森岡孝     「就職とは何か」(岩波新書)

何年か前、第一生命が募集しているサラリーマン川柳で入賞した作品に次ぎのようなものがあった。
 「残業も毎日続けば定時です」これは過重労働を既成事実化することになるので、まずいということで、最近は過重労働を減らそうとして、企業は特定の日をノー残業デイと称し残業をしない日を設けることが流行っている。すると、こんな川柳が入賞するようになる。

 「ノー残業これで明日は超残業」

最近はキャリアという言葉が日常語に溶け込みよく使われる。文科省では、社会にでて、通用できる人間を育てようと小学校からキャリアデザイン教育を施すように教育内容を変えようとしている。これは、企業や組織で融合して働くことができる人材を幼少のときから身につけさせる、即ち社会で存在する人間を、企業、組織にとって都合のよい人間にしようとすることである。

 財務省のトップが明らかにセクハラをしているにも拘わらず、擁護しようとする財務大臣がいたり、品質検査基準を無視した車が市場に出回ったり、欠陥部品材料が取引企業に納品されることが多くの一流企業で当たり前のように行われていることが毎日のように報道されている。

 この状況を、一部には日本ではかっては無かった、製造現場がリストラで影響が表れ、壊れかかっているなどと最近のできごとのように説明している論調がある。

 しかし、実情を調べると、最近のことではなく、ずっと昔から行われていたことが次々暴露されている。

 経済企画庁がかって出版した小冊子に「会社人間」について説明がある。
「会社人間とは出世競争への参加を自己実現だと信じ、身を粉にして働き、更に自分がいなければ組織が動かないと思い込んでいるような人間。組織のためなら非合法スレスレの行動をとり、自分の所属する組織にのみ目が向き、幅広く国際問題、社会問題に関心がはらうことができない。そのうえ、会社に長時間拘束され、行き過ぎた仲間主義により、不必要なつきあいを行い、その結果、家族と過ごす時間はほとんどなくなり、家庭に居場所がなくなり、仕事場のほうが居心地がよくなり、会社に人生全体をよりかかる人間」

 こんな化石のような人間がまだいるのかと思うが、現実は断然多いのである。こんな人間ばかりの組織だから、不祥事が頻出する。

 キャリアデザインで会社に都合のよい人間を育てようとする。会社に就職する人は、社会の常識を最優先に考え就職活動をしてほしい。また企業も社会常識を備えている人を最優先で採用する企業であってほしい。

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