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2017年07月 | ARCHIVE-SELECT | 2017年09月

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池内紀    「文学フシギ帖」(岩波新書)

川端康成の「伊豆の踊子」に、もし一高の主人公の私と、踊子だけがでてくる小説だとしたら、単なるオセンチな青春映画の台本と変わらなかっただろう。この小説で重要な役割を果たすのが、踊子の姉さんと結婚し、旅芸人一行のマネージャー役をしている栄吉である。風体からして中年の男のように見えるが、まだ24歳。主人公の私より四つ年長なだけ。

 小説は主人公の青年と踊子のあいだに愛が芽生え右肩上がりに段々高まっていく。
 私が踊子の寝ている部屋にはいっていく。夜の濃い化粧を残したままで、唇と目元に紅が滲んでいる。
 「この情緒的な寝姿が私の胸を染めた。」
思わせぶりな書き方だが、性愛の想いが段々高まっていく。

ここがポイントなのだが、だから、この前後で2人が映画をみにゆく約束をしたのだが、性愛を察知して母親は映画へゆくのを禁止している。踊子と一高生では、隔たりが大きすぎ、踊子も特に一高生が不幸になってしまうからである。

 栄吉がどんな素性で、何故今旅芸人のマネージャーをしているか物語では書かれていない。
 しかし、踊子と別れる場面以上に栄吉と私が別れる場面のほうが、強い印象を残す。

別れの朝、栄吉は普段と違い、黑紋付と袴でやってくる。
私が被っていた鳥打帽を栄吉に被せてやる。私はおもむろに鞄から一高の制服をとりだし皺を伸ばす。そして2人は声を合わせ笑った。何故笑ったのか川端は書いていない。

 主人公の私は鳥打帽から制帽に戻る。ここから先は、帝大、官界、或いは実業界と私は右肩上がりである。栄吉ははやばやと主人公の栄達を黑紋付で祝福したのである。

 上がるのか、下がるのか、何だか栄吉の下がってしまった人生を彷彿とせせる。

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池内紀    「新編 綴方教室」(平凡社ライブラリー)

横文字がカタカナ用語になりこれほど当たり前のように氾濫している時代はない。年をとると、これはそういう意味かと調べて次へ進むことが多くなる。そして、調べてもすぐ忘れるのである。だから、何回も繰り返し調べその度に情けない気持ちになる。

 パースペクティブ、ペダンチック、スプラッターフィルムなど。くりかえし最近登場する。

 もともとわからない上に最近の電気製品の製品説明書やカタログは、カタカナ語が当たり前のように入っていていくら読んでもわからない。

 「デッキにセットして再生状態にするとデッキの巻き取りリール軸の回転で内部の仕掛けが作動し、ヘッドに触れるところについているフェルト・パッドが、ちょうど自動車のワイパーのような動きでヘッドをクリーニングするもので、付属のクリーニング液をパッドにつけて使用し、一回に20秒から40秒。キャップスタンやピンチローラーが触れる部分にもフェルトパッドがついており、同時にそれらもクリーニングする。」 

 たぶん若い人は、これが当たり前でわかりすぎるくらいよくわかるのだろう。こんな説明書があるかと頭から湯気をだしているようでは、若者から嘲笑されてしまうのだろう。

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綾辻行人   「アヤツジ・ユキト1987-1995」(講談社文庫)

87年から95年、綾辻30代のときにあちこちに書いた文を収録している。
「小説現代」の「行ってみたい場所」に綾辻が寄稿している。

「石畳の道が迷路のように入り組んでいる。薄汚れた石造りの家並。空はいつも頭上に低くのしかかり、昼と夜の狭間にあるような褪せた色の空気が漂っている。霧雨がけぶる中、道行く人々はみんな灰色のロングコートを着、その襟を高くたてたり、帽子を深く被ったりして顔を隠している。

 この街をひとり歩き続けるうち、僕はある家の前に辿りつく。細い路地をいくつも曲がった突き当りに建つ小さな家である。ノックにこたえドアはひとりでに開き、僕を導き入れる。人気のない狭い部屋。濡れたコートを脱ぎ椅子に座ると、夢に独特の、世界を緩く包み込むような時間の流れに揺れながら、そこに新たな風景が重なってくる。

 四角い庭の中央に屈み込んでいる自分。周囲に転がった石ころを、几帳面な手つきで拾う。拾った石は手元の紙袋に入れる。黙々と、飽くこともなくそんな行為を続けている。やがて袋が石で一杯になると、今度はそれを一つずつ庭の外へ投げ捨てはじめる。そうしてすべての石を捨て終えた時、場面は元の部屋に戻り奥の壁に忽然と一枚の黒いドアがあらわれ・・・・・。」

 夢でしか訪れることしかできない、こんな街を綾辻はいつしか訪れたいと思っている。しかし、現実には無い街だから訪れることはできない。だから、推理小説の中で描きたいと思っている。

 こんな家のある街をきっと綾辻は途切れることなく頭にずっと描いているのだろう。そしてあるときこんな街や家から名作「館シリーズ」が生まれる。

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小関敬之    「東京・築地 五つ星の味、極上の一品」(東京書籍)

著者は筑地探索のブレーンを従え、徹底して築地を調査研究している「築地王」の異名を持つ築地歩きの第一人者。

 その著者が食の街築地で魚、寿司はもちろん、食として、天ぷら、肉の名店、和食、喫茶店、更にお取り寄せができる店まで網羅して紹介している本。取り壊しが決まっているせいか、どの店の店構えは古くて大衆向きという趣。ところが、結構な値段をとる。タコ焼き風味のもんじゃ焼きが1100円。庶民の私にはもんじゃ焼きが1000円以上となるとため息がついでてしまう。

 小関さんが旬の魚について紹介している。

春はなんといってもカツオだそうだ。秋のもどりガツオも脂が乗っていいのだが、春のカツオは若い魚らしく、さわやかな旨み、シャキっとした身の味わいがたまらないそうだ。そういえば、私の住んでいるところでも「もちガツオ」と言って、春に素晴らしい味のカツオを楽しめる。

 サンマは秋ではなく、真夏にでるサンマが旬で素晴らしいそうだ。そういえば、今は8月なのだが、スーパーでは大量のサンマを販売している。

 秋は9月に登場するイクラ。9月にだけ登場するものが美味しく、楽しめる期間が短い。
失敗すると、一年間美味しいイクラがおあずけになる。

 冬は何でも美味しい。ヤリイカは素晴らしいが、やはり脂の乗ったブリを刺し身や焼き魚として食べるとたまらない。

 少しこれから参考にしてみよう。

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安西水丸 和田誠   「青豆とうふ」(新潮文庫)

安西、和田とも有名なイラストレーター。その二人のイラストレーターが交互に絵と文を描いたエッセイ集。有名人との交流、映画、旅、音楽などジャンルを決めずに自由に描く。
楽しく、ユーモア満載のエッセイ集だ。

 和田さんが初めて海外に行ったのが昭和30年代。友人にサンフランシスコに連れていってもらう。そこで、憧れだったブルックス ブラザーズに行き、たくさんのネクタイを買い込む。

 そこでふと思う。ブルックス ブラザーズなのだから兄弟が始めた店なのだろうと。そう言えばサーカス団でリングリング ブラザーズなんてのもあった。これも兄弟がはじめたのだろう。

 でも、やっぱしブラザーズで当時和田さんにもっとも親しく馴染みがあったのがニューヨーク出身のコメディ俳優グループのマルクス ブラザーズ。グルーチョ、ハーポ、チコ、ゼッポの四兄弟。途中でゼッポが抜けて、3人で舞台、映画と活躍した。

 このマルクス兄弟が映画を創った。邦題は「マルクス捕物帖」だったが、原題は「カサブランカの夜」。当時これも映画界では大企業でブラザーズを名乗るワーナーが「カサブランカ」を撮り評判になっていた。そこでワーナー ブラザーズの社長が紛らわしいから題名を変えろとマルクス兄弟に抗議をした。

 そこでグルーチョは言う。わかった題名は変えるが、ブラザーズは自分たちのほうがワーナーより古い。だから、映画の題名を変える前に、そちらの社名を変えろと。
 それからワーナーからは何も言ってこなくなった。

 こんなちょっとクスっとさせる面白い話が満載。

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池内紀    「ニッポン発見記」(中公文庫)

二年前に信楽に行ってきた。信楽といえば、なんと言ってもタヌキの焼き物である。道路に沿ってズラリとタヌキの店が並んでいる。店先といわず、庭にも、奥にも、見渡す限りタヌキが並んでいて壮観である。数メートルもある巨大なタヌキもいれば、一センチも無いような超ミニダヌキもいる。

 信楽は日本でも最古の窯のひとつだ。鎌倉時代から始まった。著者池内が信楽の陶芸館を訪れ、その歴史を知る。作られていた陶器は、壺、甕、皿、鉢、壜。小鉢もあれば、すり鉢、植木鉢、火鉢、金魚鉢。およそ生活に必要な陶器は何でもある。ところが奇妙なことにタヌキが無いのである。

 狸を造ったのは初代狸庵といわれた藤原鐡造。鐵造は11歳のころからろくろを引いていて、京都から昭和10年に信楽に移って来た。初代の狸はただ寝そべっているか、立像であっても何も持っていない。細面で、怒ったように口を突き出している。同業者からは、焼き物の変わりダネとして馬鹿にされていた。

 灘の酒屋には、酒蔵に豆タヌキがいないと良い酒が造れないという言い伝えがある。その酒屋には小僧がいて、親方は酒蔵に酒買いに徳利と通帳を持って行かせた。これにヒントを得ながら初代と二代目が小僧をタヌキにして今の姿を創り上げた。

 しかし、このタヌキの焼き物はわずかしか売れなかった。

 昭和天皇が信楽を昭和26年に訪れた。このとき初代狸庵は道端にタヌキを並べ、タヌキに旗を持たせて天皇を歓迎した。これが天皇の眼にとまり、早速歌を詠んだ。
 をさなどき あつめしからに、なつかしも、信楽焼の 狸をみれば
これをマスコミが大きく報道。信楽焼のたぬきの販売に火がついた。

 なんと、信楽焼のシンボルになっている狸。戦後認知され販売されたものだったのである。

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吉田修一   「森は知っている」(幻冬舎文庫)

「太陽は動かない」と同様、鷹野一彦がこの作品でも主人公の物語。

南の島で高校生活を自然一杯の暮らしの中で満喫している鷹野、詩織という転入生との淡い恋もあって、表面的には充実した生活をしていた。しかし裏ではAN通信という諜報機関から厳しい訓練を受けていた。一緒に訓練を受けていた柳が、障碍者の寛太とともに突然失踪する。柳が何故失踪したのか。寛太はどうなっている?そう思い悩んでいるとき、鷹野に初の試験ミッションが諜報機関から下り、それを全うできたら諜報機関員としての地位が得られることになる。

 実は鷹野は2人兄弟。幼い時に、しょっちゅう父に暴力を振るわれ、恐怖の生活を弟と強いられていた。その父親と母は離婚するが、今度は母親が外から鍵をかけこの2歳と4歳になる子どもを閉じ込め失踪する。

 そして鷹野兄弟が発見されたときには、2歳の弟は鷹野に抱きかかえられていたがすでに餓死していた。弟は鷹野に抱きかかえられたまま死んだ。

 こういう悲惨と苦痛だけの生活を送った子どもの殆どは性乖離同一障害に陥る。
人格がバラバラに形成される。そして、一瞬一瞬を生きるようになる。時間を細かく区切ることにより、暴力に懸命に耐える。暴力の嵐が過ぎると、懸命に今起こったことを忘れようとする。

 今起きていることが、昨日起こったこととどんな関連があり、どうなっているのかと考えることは無い。今日一日が終わる。そしてまた今日が始まる。人生は今日の積み重ねでしかない。

 鷹野は、AN通信の命令により、死んでもおかしくないようなめに遭遇する。鷹野は命令が遂行されたときに、諜報機関員になるかならないかの選択ができる。鷹野は機関員になる。

 機関員になると胸に小型の爆発物を埋め込まれる。当然裏切ったり命令遂行ができなかったらその爆発物が破裂する。それどころか、毎日正午に今何をしているか機関に連絡を怠ると爆破がなされる。

 まさに今日をまず生きるという生活を当然のように鷹野は選択する。

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池内紀    「悪魔の話」(講談社現代新書)

悪魔の誕生には2つの説がある。この地球上に存在するものはすべて神により創られた。だから、悪魔も神により創られた。しかし神は善の象徴。だから神から作られるものはすべて善でなければならない。善から創られた悪魔や堕天使、もともとは当然善だったが、堕落して悪に転化して人間を取り込み神と対立するに至ったのだそうだ。

 一方、神とは関係なく出来上がったという説。
しかし、すべてのものは神が創造したものだから、2元説はおかしい。ということは悪魔は空、欠乏、存在しないものとなる。J・Bラッセルによると、悪魔は非現実で、不確定で、不毛で、不活発で、無力で、無力で、無秩序で、首尾一貫せず、不明確で、暗く、実質を欠き、どんな存在をも決して所有しないと言う。何なのかよくわからない。

 とにかく悪魔ができたときは善だった。それが悪に変わったのは、みずからの自由の意志に従って善でないもの、存在しないものを求めたことによって生まれた。それは、台風の眼のようなもので、空虚であり恐ろしい破壊力を秘めている物と池内は書いている。

 西洋では紀元前から悪魔の研究が熱心。こうなると、全世界に悪魔がどれだけ存在しているか統計的数字さえ登場する。カネッティは44、635、569人。或いは、グリヨは、7,409,127人。どうやった算出したのかわからないものが多いが、実際に数えたものまで、やけに細かい数字がもっともらしく並ぶ。ごくまれに11兆などとおおざっぱなものもあるにはあるが、総じて最後の一桁まで正確に書かれている。

 ところで、悪魔はどんな手段を使いコミュニケーションをとるのだろうか。神や天使は光の加減によりコミュニケーションをとっているのだそうだ。そうなると、悪魔は暗さ、黒の加減によりコミュニケーションをとっている。電気が無かった時代は、夜は完全の闇になる。そこで、悪魔は活動し会話をするのである。しかし、今は夜も明るい世界になり、悪魔が活動したり会話ができにくい世界になった。これは不気味で、いつかとんでもない悪魔の逆襲があるのではという恐怖感が膨らんできていると池内は書く。

 白人の黒人差別は、白は神善として思われ、黒は悪魔と信じられていることが根付いていて、簡単に克服できないものだ。だから、本当に深刻な問題なのである。

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浅田次郎    「日本の『運命』について語ろう」(幻冬舎文庫)

浅田と私は同じ昭和26年生まれ。浅田がこの本で言っているように、いい時代に生まれたと思う。

 厳しかったのは私たちの親の世代。一番楽しいはずの青春から20代に至るまでを戦争にとられ、悲しい死をいやというほど見、何も面白いことが無かった。私たちの一、二年前の団塊の世代。戦争には遭遇していないが、戦争後の食糧難の時代で、ひもじい時代を経験している。

 昭和26年生まれは、食料は行き渡り、ひもじい時代は過ごしていない。しかも、その後にくる世代。勉強、塾でおいかけられる厳しい受験戦争にもなっていない。
 親はほっぽらかし。遊ぶだけ、遊んで、沢山食べて寝る。実に朗らかな世代である。

そうそうと思うエピソードがこの本に書かれている。
浅田小学校のころの「ネサヨ」禁止運動。
 江戸っ子は、何でも言葉の最後にネサヨをつける。
「待たせちまったネ。遅刻しそうになったからサ。朝メシも食わずに来ちまったヨ。」
このネサヨを喋ったら、先生がほっぺにx印を墨で塗る。
 どこでも、方言を直すため、こんなことが行われていた。なつかしい。

 第二次大戦で日本は一般人を含め300万人が犠牲になった。大変な数だと思っていたが、ドイツでは800万人。更に驚くことにロシアでは2300万人が犠牲になったそうだ。日本が一番犠牲者が多かったと今まで思っていた。

 この本でエっと思ったのが、確か浅田作品「一路」だったと思うが、甲州街道では参勤交代大名行列が行われなかったと書いてあったように記憶している。それは、幕府が何か起こって逃走しなくてはならなくなり天領地である甲府にゆくために作った街道だからという浅田の説明だった。

 しかし、この説明は何の根拠もなく浅田の想像であるとこの本で言っている。しかも、高遠藩、高島藩、飯田藩は参勤交代で甲州街道を使っていると書かれている。

 私、あちこちで甲州街道で参勤交代はしなかったと吹聴してしまっている。まいったなあ。

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楠木新   「定年後」(中公新書)

60歳でも、65歳でもいいのだが、ほぼ40年間、会社、サラリーマン生活がすべてで暮らしてきた人が定年をむかえる。そこで、会社との人間も含め関係が絶たれる。会社以外に人間関係を結んでいたり、仕事以外に打ちこんでいないものが無いため、突然会社を断ち切られると、生き方の術を失い、ひたすら孤独になる。

 そうならないように50歳くらいに、黄金の60代から死ぬまでの時代を迎えるために、自分の生き方を見つめなおし、準備をしておかねばならないというのが本書の趣旨。

 そして、定年後の孤独で辛い姿と、準備怠りなかった著者自身を含め現在意気軒高に過ごしている人々を紹介し、みじめになってはいけないと論ずる。

 朝の開館前に図書館で行列をつくる。新聞を全紙なめまわすように読み、その後茶店、本屋と廻り家路につく。それを毎日繰り返す。淋しい日々だと著者は断ずる。

 しかし、どうも著者は、自分の思い込みやマスコミなどの論に引っ張られ、一方的に断じているのではないかと思う。

 定年後は「何でもできる自由」が確かにある。しかし、「何もしなくていい自由」もある。人それぞれである。図書館→茶店→本屋或いは映画館の決まったルートが、みじめで寂しいと思うのは余計なお世話だ。

 そんな生活がわびしく、せつなくて自暴自棄になったり、社会的事件を、これだけ老齢化社会になっても、おびただしいほど引き起こすということはあまりない。

 まあ、著者に過敏に恐怖心をあおってもらうほど、定年後社会にひずみが起きているということは現実には心配するほど無いのではと思う。

 だけど、最近のあちこちでのクレーマーは定年後の人たちが多いというのは、わかる気がする。

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永井するみ    「欲しい」(集英社文庫)

 働くことが本当にいやだ。ぐだぐだ一日暮らし、時に楽しみなパチンコをやって過ごしたい。

 こんな似ている2人が夫婦になって、更に小さい子どももいる。働かないとなると最後のセーフティネットである生活保護を受けることになる。しかし、若くて五体満足な親がいるとなると、働くことを強制され、生活保護が受けにくくなる。そのために、偽装離婚をして母親のほうが母子家庭となる。そうすると、働くことは難しくなり生活保護が受けやすくなる。

 その金額
生活扶助が二人分:115000円
都内住民となると
住宅扶助    :69800円
母子加算
児童養育加算(両方):28000円
  合計     :212800円

 現在、派遣社員の一般的収入が250000円程度。ここから税金や社会保険料が引かれ手取りは21万円程度で生活保護費とほぼ同額になる。

 しかし生活保護費のほかに、生活保護者は医療費、介護保険費、子どもの義務教育にかかる費用はすべてただ。国民年金、一部を除いた税金、NHKの受信料、水道料金も減免される。さらに待機児童問題になっている公立保育園には最優先で入園できる。

 この作品は、遊んで暮らすために、本当は毎日のように出会って、愛し合っているのに、形式上離婚をする、 その内実をよく見ないで、一方的に極貧であえいでいる若者を何とか救ってあげたいと主人公由紀子の恋人が手ほどきをして、結果偽装離婚がばれそうになることを恐れて生活保護者による殺人が行われる。

 国や税金を食い尽くしてやろうとする人が、大金、小金の違いはあるが、結構いる今の世の中を描く。

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多和田葉子    「献灯使」(講談社文庫)

 多和田さんはこの小説を書く前に、東日本大震災の被災地を訪れている。原発被災地域はもちろん人っ子一人いなくて、荒れ放題になっているのだが、草花が異常に大きく成長している姿に驚く。

 この小説は大震災、原発事故の後をイメージして作られたと思われる。事実、小説の中に、ひまわりくらいになったと思われるタンポポの姿が描かれている。

 大震災で東京が破壊された、少し遠い未来を描く。電気が無くなる。それでインターネットや他の通信手段も無くなる。更にカタカナや外来語が禁止される。そして移動手段は徒歩。それでも、東京の西域には人が住む。徒歩移動だから、今のように大阪だ東北だと簡単に移動はできない。

 食料は沖縄や九州、東北で生産されるが、運送手段も無ければ、九州や東北は鎖国政策をとり、食料の輸出を禁止する。そうなると、食料を求め、東京の人々が沖縄などへ移住する。
人口の集中が何と沖縄におこる。それでも、暮らし慣れた都会に住みたいという人だけが都会に残る。

 このころになると、寿命が異常にのびる。人には死なない人がいるのではないかと思われるくらい。70歳、80歳は若い老人などと言われる。物語で主人公の無名を育てている義郎は御年103歳で働き盛り。

 ところが、何故か生まれてくる子どもは今でいえば病人ばかり。しかし、この時代は病人という概念が無い。微熱などあっても、体温は測ってはいけない。健康診断などということは行われない。何が病気で何が健康なのかという境がない。

 子供たちはズボンを脱いだり、履いたりすることができない。自分たちは蛸ではないかと思う。脚がぬるぬると八本もあるから、ズボンをはいたりぬいだりできないのだと。

 だから当然、勉強も就労もできない。
生産者や労働者は100歳を中心とした人々ですべてがなされる。

 こんな世界ありえないとは思うのだが、どことなくうすら寒く不気味である。

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村上春樹   「うずまき猫のみつけかた」(新潮文庫)

村上は今まで、私たち一般人と住んでいたり、見えたりする世界とは全く違った世界にいると私は信じていた。村上がそのままの感覚で、自分で住んでいる世界を描けば、私たちにはそこは異界であり、不思議なワールドだと感じた。

 このエッセイ集で村上は自分たちとは確かに違うことを再認識した。信じられないことだが、村上は中華料理アレルギーなのだそうだ。全く中華料理を受け付けない。だからラーメンさえ食べたことがないのだそうだ。中華料理屋やラーメン屋の前を通っただけで、本当に気持ちが悪くなるそうだ。

 今日本で、最も多い食べ物屋といえば中華、ラーメン店だ。いたるところにある。よく村上がこの日本で生活できるものだと感心する。

 その村上が仕事で中国・モンゴル旅行にでかける。
大連では日本料理。ハルピンではピッツア。長春ではボルシチ。モンゴルとの国境の町バーナーでは日本蕎麦を茹でてたべる。あとは、お粥と梅干、それに持参したカロリーメイト。

 これは何とも悲惨な旅行。中国を旅して、中華料理を食さないなんて。よく頑張って旅行を全うしたと感心する。

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島田荘司 綾辻行人   「本格ミステリー館」(角川文庫)

名探偵論、トリック考、或いは古今東西のミステリー小説などの考察、分析を含め本格ミステリーとは何かを論じ合う、2人のミステリー作家の対談。
 ミステリーは清張以前と以降でくっきりと分かれる。清張以前は本格探偵小説や、奇想、怪奇をベースにしたミステリー小説が全盛だった。しかし、まずは人間を、社会を描き、そこに事件があり、解決がある社会派ミステリー、推理小説でなければならないという小説、いわゆる社会派ミステリーが清張により書かれ、それが時代からうけいれられ、その後は社会派ミステリー一色に染まる。そして、その傾向は今でも圧倒的主流を占める。

 探偵小説、奇想、トリックを駆使したミステリーは完全に駆逐された状態だったが、ここにきて、純粋トリックを使ったミステリー小説が、少し息を吹き返してきた。

 その先頭を走っているのが、この対談に登場している、島田や綾辻、有栖川有栖、法月綸太郎、安孫子武丸など。

 よく小説は現実の人間が描けなければならないと言われている。

人間や現実を描くということでの綾辻の考え方が素晴らしい。
現在の社会が所与としている人間を描いても、書き手も読み手も興味がわかない。「こんなやつ確かにいるぜ。」「こういうことって確かにあるうだよな。」なんてことを書いてもしかたない。暴力団とつるむ悪徳刑事、金と権力に取り込まれた権力者や政治家なんか描いてもしかたない。

 人間を描くということは、人間なんてつまらない存在なのだが、狂いかたによっては、こんなにまで狂ってしまうものだという人間を描くことだ。

 確かに綾辻の館シリーズ、霧越邸事件では、館の設計あり様から狂気が発せられ、そこに登場する人物はまさに狂った人たちである。
 ミステリーとは、社会秩序という館が犯罪によって破壊される。そこに名探偵が登場して真実を摑み、壊れた秩序を構築しなおす、これが常道。

 しかしこんな枠に人間の狂気はおさまらない。人間を描くということは、この極限の狂気をあますところなく描くことと綾辻は言う。だから、「霧越邸」では探偵である槍中も、最後は死ぬしかなかった。

 綾辻作品は人間を描く。その描くすさまじさに綾辻作品の魅力があることを知った。

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重松清   「幼な子われらに生まれ」(幻冬舎文庫)

重松は初期の「見張り塔からずっと」や「エイジ」、「ビタミンF」で、暮らしの中で、抱える矛盾や苦悩を取り出し、決して解決にはならないが、真摯に問題と向き合い、悩みに寄り添って生きてゆく人々を描いていた。真面目に悩む素晴らしい作家がでてきたものだとすぐ虜になったことを思い出す。

 最近は、やたら色んな場面で泣きがはいり、それを読者にも一緒に泣いてもらおうとあざとい作品が多くなり、つまらない作家になったものだと少し距離を置くようになってしまった。泣かせる前に、どうして泣いてしまうのか、その心模様を前は懸命に重松は書いていた。

 久しぶりに重松の作品を手にとって驚いた。この作品は、初期の重松の現実をしっかりとらえようと頑張っている昔の重松の作品に戻っていた。と、思ってよかったと思ったのだが,この作品、重松の初期に書いた作品だと知りなあんだやっぱりと思ってしまった。

 この作品テーマはありきたりだ。

主人公の私は、元妻でアメリにも留学して、現在大学の心理学の助教授で最近はテレビのコメンテイターをして時代の先端を走っている友佳がいた。この友佳との間に沙織という八歳の娘がいる。友佳との約束で、年4回沙織に会う。

 一方私には、再婚した現在の妻奈苗がいて、その奈苗の連れ子薫、恵理子とともに4人家族で暮らしている。奈苗は前夫のDVに耐えかね、離婚している。

 そんな時、奈苗が妊娠する。奈苗の連れ子は自分が本当の父親ではない。沙織は父親だが、現在は別の家族の元で暮らしている。そして、奈苗の連れ子薫は私を父親と認めていなくて、本当の父親に会いたがっている。加えて、恵理子に父親が今の私ではないことを伝えてないことに薫は怒っていて、家では私や妻に距離をおこうとしている。

 しかも、私は仕事に打ち込む姿勢が足りないと、出向の内示を受ける。奈苗に子どもをうませるべきか暗澹たる薫との関係に悩む。

 その悩みを忘れようと、私は赤ちゃんプレイの店に溺れる。

重松は実に丁寧に私の苦悩と、家庭での孤独を描く。そして、すべてが解決するわけではないが、子供たちにも作為に走ることなく、おじけづくとことなく、勇気をもって真正面から対応することが、男、夫にとって大切なことで、それが彼の成長につながることを誠実に描く。

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伊坂幸太郎  「アイネクライネナハトムジーク」(幻冬舎文庫)

それぞれに関連がある仕掛けはあるが、一見無関係な6作品の連作短編集。バラバラな作品が最後に一つに結集する、それが見事。まさに伊坂マジックを楽しみ、満足感に浸れる。

 美奈子は美容院で働いている。彼氏はおらず平凡な日々を送っている。板橋香澄という常連の客がいる。この香澄から、弟の学とつきあってみないかと持ち掛けられる。

 ここにテレビの恋の告白番組の話題がはいる。ボクシング選手がいる。今度の試合で勝ったら彼女に「好きだ」と告白すると。そんな、負けたら告白しないなんて恋じゃあないじゃん。

 香澄は美奈子に携帯番号を教えてもいいかと問われ、いやだと断る。香澄の弟は、半年前に彼女と別れていて今はフリー。結構気が弱そうで何かあるとすぐ平謝りをする。この前も往来で酔っ払いに絡まれて平謝りしたばかり。

 そんなある日、美奈子に香澄の弟学から電話が突然かかってくる。香澄が「美奈子が学に用事があるから」と言ったから。何だか気分がもりあがらない時にゴキブリが美奈子の前に現れ、悲鳴をあげ、電話をきる。

 そこから、電話だけの関係が始まる。学は事務職がつまらないから、職をやめようかと思っていると美奈子に告げる。そして確かに事務なんて平凡な日々の繰り返し、美奈子もその気持ちはわかると思う。

 香澄に誘われ、香澄の家にゆく。そこで、ボクシングのヘビー級で日本人挑戦者ウィンストン小野のタイトルマッチを見て最高に興奮する。

 そして驚くことに、このウィスントン小野が香澄の弟学だと言うことを知る。
事務職は事務ではなくジムだったのだ。伊坂の強烈なユーモア。

 このウィストン小野が全短編にわたり、登場し、連作を支える。また小野同様に斎藤さんというへんてこな人も登場する。悩みを告白すると、自らの作詞した歌詞のフレーズを歌い上げる。これが、内容はよくわからないのだが、告白者が必ず癒され安心する。

 平凡な人生を送っている少し変わった人々にちょっぴり変わった出来事が起き、日常が揺さぶられる。人生なんてそんなへんてこな経験の積み重ねさと伊坂が表現する。

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村上春樹 安西水丸  「村上朝日堂はいかにして鍛えられたか」(新潮文庫)

1982年から4年にかけて「日刊アルバイトニュース」や「週刊朝日」に掲載されたコラムを集めている。村上春樹はその後「村上朝日堂」というウェブサイトもたちあげている。

TSエリオットが「猫に名前をつけるのは難しい」と言った。名前をつけるのは猫だけでなく人間も含め何だって難しい。

 村上はドライブが好きで、そこで目に入ってくる看板などの文字に作家だけに敏感。それでよく目に入ってくるのがラブホテルの看板。村上からすると、やることは同じなのか、ラブホテルの名前はどこか投げやりなのだそうだ。

 「TWO WAY」というラブホテルがある。二人でやることだからこういう名前をつけたのかと思っていたら「THREE WAY」というホテルもあった。これは男2人に女一人でなさるホテルなのか。こんなことをコラムに書いたら、全国から変わったホテル名ということでいっぱい投書がきた。

 神戸の「マザーズ ウーム」千駄ヶ谷には「三越」北海道「ドン ガバチョ」(何となく卑猥)藤枝「親戚」など。

 旭川には「農協」というラブホテルがあり、満室のときは「豊作」という看板が、空き室ありのときは「不作」という看板がかかっているそうだ。

 湘南には「紫陽花」というホテルがあるがこれは「あじさい」という名前でなく「しようか」という名前だ。

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| 古本読書日記 | 05:59 | comments:0 | trackbacks(-) | TOP↑

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獅子文六    「胡椒息子」(ちくま文庫)

土曜日、小学校の同級会が開かれ、故郷まで行ってきた。あまり小学校の同級会など開くところは無いとおもうが、たまたま先生が92歳でご健在。その先生の存在が同級会となって継続している。

 私など、小学校での思い出など全くといって無いのだが、集まると結構、あのこと、このことと詳細に出来事を覚えているひとがいるものだと感心する。今はいじめで、仲間から排除することに力が注がれているように思えるが、思い出話を聞いていると、子供時代はむしろ可哀想な子、意地悪されそうな子に、目いっぱい仲良くしてあげて、励まし支えてあげることが子供たちの最も強い心、行動であったように思える。だから、孤独だ、寂しいと思う子はいなかったのではと思う。

 この作品の主人公、昌二郎は12歳。上のお兄さんと、お姉さんから少し年が離れている。父親は大会社の専務。それで、妾をかかえていて、母親とは冷たい関係にある。父親もあまり家には帰宅しないが、母親も、その反動で外で遊び歩いている。

 昌二郎は、上の兄姉からも邪険に扱われ、母親からも差別的扱いを受けている。頼りは優しいお手伝いの民婆やだけ。

 あるとき、昌二郎は、自分は父親が妾に作らせた子で、上の兄姉とは母が違うことを知る。
それから、このことを兄、姉も知り、兄姉から「芸姑の子」「妾の子」と蔑まれ、完全に排除される。それに怒った昌二郎が兄と喧嘩をして、兄を傷つける。

 母親が怒り狂い、昌二郎を追い出し、感化院に入れてしまう。感化院では、辛い日々にはたからみれば思えるが、ゴンズイという喧嘩っ早いが、気持ちの真っすぐな子と親友になり楽しく過ごす。

 その後、お手伝いの民が重病になり、民の家で民を支えて頑張って暮らす。最後には元の家に戻るが、その間決して暗い生活はしていない。

 この物語を読むと、子供たち、或いは人間と広げてもいいかもしれないが、血のつながりではなくて、支えてくれる人がいるかということが生きて行くうえで大切なことだとわかる。

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| 古本読書日記 | 05:57 | comments:0 | trackbacks(-) | TOP↑

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長野まゆみ    「チマチマ記」(講談社文庫)

何回も1ページ目に図示されている宝来家の家系図、登場人物の関係を立ち返って確認しないと混乱してしまうほどに複雑。平均的家庭とは程遠い。

小巻お母さんの夫、ドードーさんはすでに亡くなっている。どーどーさんと先妻との間にできた長男樹さんが今の当主なのだが単身赴任をしていて不在。

 母屋に暮らすのは、小巻おかあさん、実子であるカガミさん。樹さんの娘であるイラストレーターの暦さん、それに樹さんの娘である小学5年生のだんご姫。

 更に母屋と棟続きの離れには、近所に住むドードーさんの先妻。暦さんと樹さんの母マダム日奈子が毎日出入りし、その2階には樹さんと事実婚していてパリに住んでいるカホルさんの弟で、カガミさんの中学高校の先輩であるサラリーマンの桜川くんが間借りしている。これだけ複雑な関係の上に、カガミさんと桜川くんは男同士で恋愛関係にある。

 だからしばしば、摩擦がおきる。
普通の小説はその出来事をできるだけデフォルメして大げさに表現。それで読者を引っ張る。

 しかし、長野さんの小説はそんななかにあって、実に優しく、穏やかである。実際には、そんな大げさなことは起こることはめったになく、チマチマしたことが日々積み重なってゆくだけと長野さんは物語を描く。

 その穏やかさを包み込んでいるのが、四季折々に小巻おかあさんを中心に作られるおいしそうな料理の数々。この料理の中に、ちょっとしたいざこざやトラブルがスーッと吸い込まれチマチマした日々が繰り返されてゆく。

 長野さんの、細部にまで行き届いた穏やかな文章が読んでいて心地よい。

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| 古本読書日記 | 06:09 | comments:0 | trackbacks(-) | TOP↑

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中村航    「恋を積分すると愛」(角川文庫)

中村の作品では多分最も売れた作品だろう「トリガール」が映画化され、それに合わせて出版された短編集。

 実は2日前に読んで、感想文を今書こうとしたのだが、鳥人間コンテストを中心とした作品集になっていたことは記憶にあるが、中味が全く浮かんでこない。申し訳ないのだが再度読むような作品でもないし全く困った。

 夏の風物詩ともなった琵琶湖畔で行われる「鳥人間コンテスト」。最初は「びっくり日本新記録」という名のテレビ番組の一部の競技として放映されていた。第一回の優勝記録は数十メートル。それが今や15kmととんでもない記録がでるようになった。

 この短編集では、板場先輩とゆきながパイロットになって優勝を目指す。普通、2人も大人が乗ると、重すぎて不利になると思うのだが、そんなことは無いらしい。

 面白いと思ったのは、パイロットも実は機体の一部の部品。すなわちエンジンであり、部品も一年とかかけて、決められた身体に創り上げねばならないのだそうだ。そのために、厳しいトレーニングを行う。

この物語、パイロット同士が、飛んでいる間に恋の告白をするというのが中心となっている。

それにしても、私だけがわからないのか
 「愛を微分すると恋になる。つまり愛の加速度が恋ってことだ。」

愛し合っているのなら思いっきりエンジンを漕いで加速度をつけようということなのか。この理解できない独特な中村の言葉が、若い読者をひきつけるのだろう。

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桂望美     「エデンの果ての家」(文春文庫)

聖書の「カインとアベルの物語」というより、それをモチーフとして書かれ映画化されたスタインベックの「エデンの東」が意識されできあがった物語。

 大企業に働き、定年を過ぎても仕事の継続を会社より依頼され、海外にもでかける父親敬一。母直子。弟の秀弘との4人家族で育ったのが主人公の葉山和弘。
 和弘からみて、両親の期待と愛情のすべては秀弘に注がれ、孤独と疎外感にさいなまれ育ってきた和弘。

 秀弘は両親の期待にたがわず、良い大学をでて大企業に就職。しかし新人教育指導でパワハラをしたという会社の判断で閑職に追いやられ、失望して、会社をやめる。プライドが高い秀弘は、その後再就職を目指したが、プライドが邪魔をして未だに失職中。

 和弘は、大学の園芸科にはいる。その時点で両親は全く和弘への期待はなくなる。そして和弘は仲間とともに卒業後園芸会社を興す。

 そんなとき、母親が失踪。そして山林より遺体が発見され、殺人犯として弟秀弘が逮捕される。さらに事故死として処理されていた秀弘の恋人も他殺に変えられ、秀弘はその恋人殺しでも犯人として逮捕される。

 ここから、弁護士もはいって犯人は秀弘ではないという信じる和弘と父親とで真相追及がなされていく。父親は秀弘は優しく、優秀で、母親との関係からみても、とても母親を殺すなどということはありえないし、殺人などするはずがないと信念をもって事実にぶつかる。

 和弘もそう思わねばならないとは思うが、どうも2件とも殺したのは秀弘ではないかと疑いながら事実にぶつかってゆく。

 その中で、知っているようで、何も知らない家族のことを父も和弘も認識してくる。その軋轢とだんだんそれぞれの家族のひとりひとりの真実が真相追及のなかでわかりそれによって起こる変化がこの物語の読みどころ。

 和弘が小学校の運動会のリレーで一番になった直後トイレに行くと母親がトイレからでてくる。和弘は自分の競技を母親がみていてくれなかったことに衝撃を受ける。そして、それがその後20年間、ことあるごとに浮かんできて、自分は見放された子だったと苦痛に悩む。

 この真実追及の過程で、段々父との距離が埋まり、その最後で、小学校の運動会でのことを父に吐露する。それから数日たって、父から運動会のビデオを渡される。そして母はちゃんと和弘の走りをみていて大声で応援していたことを知る。

 競技の終わった後、一言「どうして見てくれなかったの」と聞けば済んだことが、20年も悩みの奥底にあり続けさせたことが重い。

 しかし、その一言が言えずずっと苦しむということはたくさんあるものだと思う。

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| 古本読書日記 | 06:12 | comments:0 | trackbacks(-) | TOP↑

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湊かなえ   「豆の上で眠る」(新潮文庫)

主人公結衣子が小学校一年生のとき2歳年上の姉万佑子が突然失踪した。両親、警察が懸命に捜索したが、行方がわからず2年がたち突然万佑子が帰ってきた。
 しかし、結衣子はそれがどうしても姉とは思えない。20歳になった今でもその疑問が消えない。

 おかしいと思うのは、ローラースケートで転倒してできた目のまわりの傷が無くなっていたこと。それから、厳しくしつけられた箸の持ち方、動かし方ががさつなことなどから。

 それを払しょくするため、DNA鑑定が行われ、その結果99%の確率で結衣子の姉であることが証明された。ただ、このDNA鑑定も、それが行われた90年代は、技術が確立されておらず、DNA鑑定という言葉もあまり流布していなかった。それも、結衣子には姉ではないと疑う背景にあった。

 それにしても、DNAが姉妹と規定しているのに、何で姉万佑子とは違うように思えてしまうのか。

 この真相が最後の章で語られる。もともと姉だとしていた万佑子が、実は両親から生まれたこどもではなくて、失踪から戻ってきた子が姉だったのである。

 DNAが99%姉妹と証明しているにも拘わらず、帰ってきた子が姉万佑子とは異なることが、じわりじわりとあきらかにされる。幾つかの矛盾はあるにしても、記憶喪失から解放されてきた、姉の話が結構、結衣子の子供時代の記憶と重なるところも多い。

 このじわりと記憶の重なりがどろどろと色なすところが不気味な雰囲気を醸し出す。ここが湊小説の特徴なのかと思った。

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| 古本読書日記 | 06:01 | comments:0 | trackbacks(-) | TOP↑

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平岩弓枝   「肝っ玉かあさん」(文春文庫)

私が学生の頃、大人気のテレビのファミリードラマだった「肝っ玉かあさん」の原作。東京原宿にあるそば屋「大正庵」の女将で、かなり太り気味の五三子は「肝っ玉かあさん」と呼ばれ慕われている。これに長男で企業に勤めていたが、そこを辞めそば屋を継いだ長男一とまだ出版社の編集者として勤めている嫁の綾。結婚適齢期になっている三三子。
 そして一の娘、五三子の孫の九子がおりなすホームドラマ。

いろんな出来事が起こるのだが、人情も厚く、ドンと構えている五三子が、うまい裁きですべてを解決してゆくドラマだと思って当時はみていた。
 しかし、この原作を読むとかなり景色が違ってみえてくる。

太っ腹かあさんにみえる五三子が、結構肝っ玉は小さくいろんなことに揺れ動いてばかりいるのである。

 五三子は戦後まもなくソバ屋の主人だった夫と死別する。今のソバ屋は夫と一緒に働いてきたベテランの職人長吉が支えている。ソバ屋なんてやらないと言って「大正庵」をでていって会社員になった長男一は恋愛で仕事最優先の綾と結婚。その一、綾夫婦が娘を連れて突然同居すると「大正庵」にやってくる。2階を全部占拠してかってに作り替える。

 追い出された娘三三子などは怒り一杯。五三子もその横暴ぶりに怒っているように見えるが、これで老後は安心とほくそ笑んでいる。更に、一の会社がおかしくなり、一が会社をやめて「大正庵」を継ぐことになり願ったりかなったり。ただ、会社勤めを頑張っている綾は苦しむ。

 肝っ玉かあさん、良き母さんの見本のように見える五三子も母親と二人暮らしの犬塚喬に恋心を抱き、2人で隠れてデートをしたりする。そして、これも少し恋の匂いがする梅本病院の院長経由で結婚を申し込まれ、心が揺れ動く。

 どことなく騒動を治めるのではなく、騒動を引き起こすようなキャラに肝っ玉かあさんはなっている。

 最後は作者平岩の信念が登場する。老後を子どもに押し付けるようにして、子どもたちに不自由をさせてはいけないと。年老いたらさっさと家をでて老人ホームで生涯をおえることが人生の勤め。

 肝っ玉かあさんもいつか家をでてゆくような雰囲気を最後に感じた。

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| 古本読書日記 | 06:17 | comments:0 | trackbacks(-) | TOP↑

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池内紀  「東京いいまち一泊旅行」(光文社新書)

「演劇グラフ」という雑誌がある。演劇関連雑誌はあまり売れないとの定評がある。しかしこの雑誌、カラーグラビア満載、総力取材特集、劇団紹介、演劇トピックス、劇場ニュース、あいまにインタビュー、対談、聞き書き、評伝、見聞録、読者投稿。綴じ込みピンナップもついている。全国の公演案内が一覧になっていて、どこで何をやっているかが一目でわかる。
 で、発行元はとみると香川県高松市の出版社となっている。

この雑誌には、菊五郎や玉三郎、勘三郎は登場しない。松たか子も登場しない。限りに無く彼らに似ている役者が登場する。

 私の小さいころにも大衆演劇があって、よく公民館で巡回公演をやっていた。
舞台装置や小道具など極端に少なく、劇や歌謡ショーなど、全く変わることの無い垂れ幕一つで行われていた。

 一番前に座っているおばあさんたちが、弁当を持ち込み劇などそっちのけでパクついたり、煎餅をパリン、パリンと音をたてても、役者は動揺することなく一所懸命演じていた。

 昼夜2回興行でスタッフが少ないため、主役の役者が、舞台装置を据え付けたり、メーキャップを自らしたり、衣装替えをしたり、一人で何役もこなす。時には、おせんやキャラメルの売り子までしていた。

 おばあさんが足を伸ばし、そこにタオルをかけて、「さざんかの宿」を役者と一緒に歌う。そんな観劇スタイルが板についている。

 こんな大衆演劇の街がまだ東京の下町には残っている。

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| 古本読書日記 | 06:14 | comments:0 | trackbacks(-) | TOP↑

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綾辻行人    「セッション」(集英社文庫)

ミステリー作家という範疇に捉えていいのかわからないが、京極夏彦、篠田節子、宮部みゆきなどベストセラー作家たちと綾辻がミステリーについて語り合う対談集。

 ミステリー、ホラー作家というのは本当に本をよく読んでいる。純文学作家の比ではないよう気がする。そしてよく研究している。どんな本でもミステリー的要素や、ヒントを得ようと懸命になる。

 法月綸太郎との対談ではあの星飛雄馬の「巨人の星」でさえ、ミステリーの題材となる。
法月「『巨人の星』は本格ミステリー小説ですよ。京大ミステリ研の先輩の説なんですが、一番わかりやすい例が消える魔球です ね。投手が投げたボールが消えてしまう、これは奇想天外な謎です。各チームの打者が、消えるメカニズムを一所懸命考えて、その推理をもとに、じゃあ見えないボールをどうやって打つかということで、みんなが競いあう。これはもう完全に本格であること。」

綾辻「ちゃんと伏線として、星飛雄馬の足が高くあがっている。」

法月「他にもいろいろ伏線が張ってある。・・・・・安楽椅子探偵の星一徹が『青い虫が飛んで、青い葉に隠れる』とか、思わせぶりのヒントを出したりするわけで。」

そういえば、絶対バットで当てることのできないボールという魔球があった。投球の推進力と重力がギリギリのところでバランスしあって、バットスイングの風圧でボールがよけちゃうのだ。

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馳星周     「マンゴー・レイン」(角川文庫)

マンゴー・レインというのは、最近の日本でみられるような、バンコクで起こるゲリラ豪雨をさす。

 主人公の十河将人は純粋の日本人なのだが、タイに生まれ育った。タイ語、日本語、英語の読み書きが不自由なくできる。博打に異常にのめり込み、親の遺産や保険金5000万円を半年で使い果たし、同じくらいの金額の借金を背負う。そのため、妻のナンを日本の売春世界に売り飛ばす。

 こんな畜生のような男に、幼馴染の富生から、メイという女をシンガポールまで連れてゆき、女が持っている仏像をその見返りにもらってきてほしいとの依頼を受ける。その報酬として1500万円を与えると言われる。

 この仏像奪取に、タイの対立するヤクザ集団、その上をゆくタイ最大の財閥の王プレーク・スワンワッタナクン、後継者であるプラウィット、加えて、仕事を依頼した富生、十河のタイ人の幼馴染チャットが絡む。

 女メイの持っている仏像は、ある爺さんから受け渡された。仏像そのものはちゃちなものであり価値はないのだが、その首をはずすと、その中に紙きれがあり、旧日本軍の財宝がある場所が謎のように書かれていた。その場所をみつけることに血眼になるのである。

 馳の代表作品「不夜城」の舞台である新宿をバンコクに移したような作品。600ページを超える作品だが、それなりの展開もあり、読み通せることはできる。

 しかし、財力、権力とも把握したプレーグ、財宝と言われているものが、日本軍の残した軍票であり、何ら価値のないものと予め知っていながら、主人公の十河や女メイに刃をつきつける危険を犯す肝心なところが納得感がもうひとつだった。

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| 古本読書日記 | 05:50 | comments:0 | trackbacks(-) | TOP↑

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「荒木飛呂彦の漫画術」(集英社新書)

一昨日ジョジョの映画を観てきて、原作にも興味を持ったものの、100巻以上あるものを少しずつレンタルするのはしんどい。
というわけで、目線を変えて、作者が漫画の描き方を語ったという本を買ってみました。

IMG_8972.jpg

私は漫画を描きませんが、すいすい読めました。
有名な作品(こち亀・サザエさん・ドラゴンボール)を例に出して、キャラクター・ストーリー・テーマ・世界観といった、漫画にとって大事な要素の説明をしています。
自分の作品の一部を使って「このコマでこんな情報を提示している」「視点は動かさない」と注釈を入れたり、打ち合わせから完成原稿になるまでの流れを実際のスケッチ・下書きを載せて解説したり。
「トーナメント制には限界がある」で『将太の寿司』に飽きたことを思い出し、
「主人公は常にプラスへ向かわなくてはいけない」で『スラムダンク』は負ける描写をせずに終わったことを思い出すという具合で、色々懐かしくもなりました。
唯一少女漫画で名前が出ている『綿の国星』は、「少年漫画はきちんと描きこまなくては読者がついてこないが、少女漫画はふわふわしても許される」てな感じです。

関係ないですが、作者の名前を検索しようとすると「荒木飛呂彦 年齢」「荒木飛呂彦 若い」と出てきます。
50代半ばには、確かに見えない。帯の自画像も嘘ではないw

| 日記 | 18:50 | comments:0 | trackbacks(-) | TOP↑

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伊藤比呂美   「父の生きる」(光文社文庫)

2004年、79歳だった伊藤さんの母親が寝たきり状態で入院。そのとき父親は82歳。5年間母親は病気と闘い死亡。伊藤さんは、当時カリフォルニアに家族とともに在住。孤独になった父親のために、一か月半はカリフォルニアにいるが残りの半月は父親のいる熊本に帰る。カリフォルニアにいるときも、毎日数回父親に電話する。熊本では、実家から数分のところに家を借り、伊藤さん、父親の信念があり、一緒には暮らさず、実家に毎日通う。

 この作品は、そんな介護の厳しい生活を父が亡くなるまでの3年半を綴った記録。
最初にでてくる父親と伊藤さんとの会話がじーんと胸に応える。
 伊藤さんがやっと仕事に区切りがついたと父に報告する。すると父が言う。

「おれは終わらないんだ。」
「仕事ないから終わらないんだ。つまんないよ、ほんとに、なーんもやることない。なんかやればと思うだろうけれど、やる気が出ない。いつまで続くのかなあ。」
「もうすぐヘルパーさんがくる。キムチチャーハンなんか頼もうと思って、今食べたくないの、カレーライスとかさ、トンカツとかさ。とにかく生きているのも疲れちゃったな。死なないんだから困ったもんだよ。ほんとにねえ(ため息)。」
「だけど退屈だよ。ほんとに退屈だ。これで死んだら、死因は『退屈』なんて書かれちゃう。」
「なにしろ眠いよ。いくら寝ても眠い。永遠の眠りにつきそうだ。とにかく眠いんだ。」
「退屈で退屈でしょうがねえよ。まったく、頭の中は食べ物でいっぱいだ。」

この後、死闘、苦闘の伊藤さんの介護日記が始まる。
その辛さに読むのが苦しくなる。

それでも何となく違和感が残る。伊藤さんは詩人。別にカリフォルニアにいなくても、詩は書ける。何故にこんな苦労を背負いながら、カリフォルニアに居続けるのかが理解できない。

 カリフォルニアにいたいのなら、お金を多少かけても、父親を施設にいれ、介護を全部まかせればよいのに。このあたりが詳しく説明がないので、納得ができない。

 しかし、父親の慨嘆は胸に沁み込む。私もそう遠くないときに伊藤さんの父親のような状態になる。

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| 古本読書日記 | 06:02 | comments:0 | trackbacks(-) | TOP↑

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いしいしんじ    「四とそれ以上の国」(文春文庫)

四国を舞台にした5つの短編集。どれもいしい独特の世界を描き、読者は自分を捨てて、いしいワールドに自らを投げ出さないと、何を描いているのかよくわからず、読むのが辛い作品集になっている。

 その中で「渦」が比較的のめりこみやすくいしいワールドを楽しみやすい作品になっている。

 トラック運転手をしている主人公。休みをとった弟が入院している病院の看護師3人とともに徳島の渦潮を見に来る。その記念館で、正岡子規の句碑「うずの詩」をみる。

 渡りかけて鷹舞う阿波の鳴門かな

正岡子規はわずか35年の生涯の間、23000もの俳句を読んでいると書かれている。主人公はこの句を繰り返し読む。そのうちに「鷹舞う阿波の」が「たかまうあわの」に変化し、

「たかまうあわの、たかまうあわの、たかまうあわの」とぐるぐる頭のなかでまわりだす。記念館のボードには、記念館を訪れたひとたちが作った句がおびただしい数で貼られている。

 主人公は5,7,5と思う。すると、どの句も5,7,5  5,7,5  5,7 5,7 7,5とぐるぐるまわりだし、何万何千と作られた句の渦の中に正岡子規が無限に小さくなり消えてゆく。

 この後、3人の看護師が5人の荒くれ男に車に詰め込まれ、この5人を相手に主人公が戦う。そして、拳で主人公が男たちを殴る。その度に男たちは遠くに飛び、消えていったかと思われると、またかなたからとびでてきて男と対峙する。渦潮と闘っていると思われる場面が続く。

 いしいマジックに取り込まれてこの作品を読んでいると、自分までが渦潮になってぐるぐる回り続けている錯覚に陥る。頭も身体もくらくらしてくる。

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伊藤比呂美   「コドモより親が大事」(集英社文庫)

本を読みたい、絵を鑑賞したい、コンサートにも行きたい、とにかく外出して、自分の空間時間を持ちたい、それが家事、子育てに追いまくられ何もできない。どうしたらいいのだろうか。

 こんな想いは、悩みの範疇にははいらないと伊藤さんは言う。何々をしたいのではなく、それを私はしなければならないと強く思うこと。伊藤さんにとって、それは詩を書くこと。

 伊藤さんは主張する。

 「それだけしなくちゃいけない動機がある。動機があれば人殺しだってできるのが人間。私もこの強い動機を盾に、夫とコドモから、納得ずく、腕ずくで、文化する自由と、文化する時間を奪いとりました。

比呂美さんのところは、御主人が理解があるのよ、特別よとよく言われます。ほんとによく言われるので耳タコですが、だいたい、その程度の理解さえ夫からむしり取れないようでは、女の側の努力不足、あるいは動機不足なんだと思います。・・・・

 うちで悲惨なのは、文化の名をかりて、わたしが家の中で本やマンガや仕事にのめり込むことです。・・・・

 締め切りが近くなるとイライラしてあたりちらすわ、熱があっても保育園にたたきだすわ、本を読みたくなるとコドモをほっぽって本にのめり込むわ、コドモをほっぽってどこかに行ってしまうこともしょっちゅうある。泊りがけでいなくなったりするとそのたびに、サラ子(娘)が、捨てられる不安で動揺するのが手にとるようにわかる。
 仕事は楽しい。はっきり言って、家事や育児や夫の世話よりずっと楽しい。」

実際は、こんなにきっぱりと宣言するようにはいかないのだけれど、このケレンミのない言いっぷりが爽やかですがすがしい。

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| 古本読書日記 | 06:25 | comments:0 | trackbacks(-) | TOP↑

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