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2017年03月 | ARCHIVE-SELECT | 2017年05月

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たいせつな記念日 その後

3年前に記事にしたきり、触れて来なかった記念日。
ゆめこが我が家に来て、昨日で9年。

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白くなったなぁ。
そして目がうつろ。
私に絡まれた犬は、大体そんな感じです。

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25年前

最近、耳がにおっています。たれ耳の宿命だろうか。

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以前はマラセチアというカビが原因でした。今回も多分そうだろうということで、同じ薬を。
臭いだけで元気です。

おまけ
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窓際が暖かい季節です。

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岡田尊司    「脳内汚染からの脱出」(文春新書)

 今通っている会社は、急成長をしている会社で、それに従ったプロセスのシステム化や組織が全く追いついていない。それで、とにかく、大声がとびかったり、逆に、トラブルを嘆いたり、それを笑いで救おうとしたり、とにかく事務所内がやたらに騒々しい。40年以上も前に初めて入社した会社の雰囲気と似ている。

 そんなときがあった会社も、今は、すべてがPCやスマホを使い業務や会話がなされる。事務所内はキーボードをたたく音だけが一日中響きそれ以外は静寂が続く。くしゃみ一つできない雰囲気。

 会話がなくなると、たまの会議もどことなくぎくしゃくしたり、コミュニケーションをとれなかったり、とることが煩わしくなってくる。メールの方が相手をみないで語れるため、精神的負担が軽くなり、なんでもかんでもメールということになる。

 電車にのれば、半数以上のひとがのめりこむようにスマホをいじっている。日がな一日スマホやPCで、SNS,チャット、ゲーム、ネットサーフィンと寝るまもなくかじりついている。完全に人生をPC,スマホにからめとられてしまっている人たちが多い。

 私たちは、人生というのは、小学校からの学生時代、たくさんの友達をつくり、勉強もきちんとして、明るく思いやりのある人間に育ち、きちんと大学に入り、そして社会人として自立してゆくべきというのがあるべきと考えている。

 この作品では、このあるべき道を踏み外し、登校拒否になったり、情緒不安定になったり、精神障害と思われる症状の発症の多くは、PC、ネット、ゲーム依存にあると、統計や事例をあげて主張し、今のままではとんでもない暗い未来がやってくると警鐘を鳴らす。

 この本を読むと、それが社会の歪みととらえれば、確かに内容に納得はできるが、スマホ、ネット社会は社会の隅々まで浸透し更に深化してゆくものと考えれば、いつかゆがみだと考えられていることが、時代遅れとなり、ゆがみが当たり前なものとして受け入れられる世界こそが普通の世界であることになるようにも思える。

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小泉武夫   「美味いはスゴい!ニッポン快食紀行」(小学館文庫)

 私が育った信州の田舎町は食肉と言ったら、鶏肉はあったが、豚、牛は全くといっていいくらい無く、馬肉だった。

 家を離れて、正月、お盆に里帰りすると、すき焼きだと言ってでてくるのは馬肉のすきやき。牛のすきやきのほうが美味しいと思っているのだが、親父が肉といえば馬。どうだ美味しいだろうの声に気おくれしとても牛だよとは言うことはできなかった。

 今住んでいる静岡遠州にも馬肉を食べさせてくれる店はあるのだが、馬刺し一辺倒で他の調理品は全く提供されない。
 数年前、熊本へ旅行し、そこで馬肉の焼肉定食を食べた。なつかしい味で、とても美味しかった。

 この旅行記で、小泉は長野県の飯田で馬肉を味わっている。

 この作品でわかったのだが、何故長野県で馬肉を食べるのか、それは、農耕の使役に馬を使っていたから。使役に使えなくなったとき、食肉にしていたのだ。

 飯田は南信州で農耕使役には木曽駒を使っていた。しかし今は使役に馬を使うことはなくなったため馬肉料理の材料は殆ど輸入品。アルゼンチン、アメリカ、カナダから輸入している。これは少し衝撃だった。信州名物馬肉というわけではないのだ。

 飯田には馬肉の大腸料理「おたぐり」という名物料理がある。

 大腸には脂や血がたくさんついている。これを、手で何時間もかけてたぐりながら取るのである。水が透明で澄むまで徹底的に取る。これは大変な作業だと思っていたら、今は大腸を洗濯機にいれて取るなどとさりげなく書いてある。

 もちろん、小泉がとりあげた「おたぐり」専門食堂ではこんなことはしていないとは思うが、何だか飯田に馬肉を食べに行こうかという気持ちが萎えてしまった。

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| 古本読書日記 | 05:59 | comments:0 | trackbacks(-) | TOP↑

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小泉武夫    「食は胃のもの味なもの」(中公文庫)

 小泉の食材への好奇心は異常である。彼の本を読んでいると、およそこの世に食べられないものなど皆無ではないかと思うようになる。

 小泉は福島県の山間地の小さな町、小野町に生まれる。小泉の実家は400年近く続く、造り酒屋。小泉はそのボンボンとして育った。ボンボンの小使いは他の子供たちより多くもらっている。だから、ベーゴマやメンコを買って他の子供たちにわけてやり、手なずけ、みんな子分にしてしまう。

 それで彼らとともになんでも食べてやろうと野山をかけまわる。小泉の懐古談によると、蛙特に赤ガエルは美味しかったらしい。その他、甲殻類のカミキリムシやクワガタも空燻りをして食べると美味だったそうだ。

 反対に不味かったのはモグラ。不味いというより、モグラには殆ど肉がなく、骨ばかりだった。

 彼が小学校2年のとき、ヘビイチゴとアセビの花をたべ、ヘビイチゴでは激しい嘔吐になり、アセビの花では痺れがでてきて入院して胃洗浄までしている。

 ヘビイチゴは、赤く本当においしそうに見えるのだが、私の小さい時に大人たちから、あれは間違って絶対口にしてはいけないと厳しく言われていた。

 それを食べるだけでも、とんでもないと思うのだが、小泉はこの本で、激しい嘔吐にあったのにも拘わらず、またヘビイチゴを食べる。それで、今度は嘔吐はしなかったと書いている。

 小泉はまさに怪物である。

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| 古本読書日記 | 06:08 | comments:0 | trackbacks(-) | TOP↑

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小泉武夫   「人間はこんなものを食べてきた」(日経ビジネス文庫)

 人間は、狩猟により食料をとってくることで生きてきた。しかし、狩猟がいつも成功して食料がいつも確保できるとは限らない。たくさん獲物をとってきたとき、集団では食べきれない。まずいことに余った食料を放っておくと腐ってしまい食べることができなくなる。

 そこで獲ってきた食料を保存しいつまでも食べられるようにするにはどうするかを考え工夫するようになる。そのひとつが発酵食品にすることである。チーズ、寿司、干物、漬物、飲み物では酒類もこれにあたる。

 食料には被膜に大量の微生物がいる。この微生物のうち善玉菌が発酵菌であり、悪玉菌が腐敗菌や雑菌である。食物を保存するためには悪玉菌を殺傷し、発酵菌である善玉菌で覆うようにすればよい。そのために、善玉菌に悪玉菌を殺してしまう方法を発見し実行する。

 もちろんこんな理論を発明し実施したわけではなく、試行錯誤し偶然の所産でその方法を発見し実行したわけだが。

 この発酵食品で、横綱級な食品がイヌイットの作るキビャック。アザラシを捕獲し、中味の肉は食べる。その後アパリアスという鳥を腹のなかに詰め3年間土のなかにいれ保存する。3年後とりだすと原型はとどめていないが塩辛になったような発酵食品ができる。これがとんでもなく臭い。最初はとても食えたものではないが慣れるとくせになるそうだ。

 これに匹敵するほど臭いのが、韓国のホンオ・フェ。エイの生肉を紙に包んで甕にいれつるしておく。これが完成すると強烈なアンモニア臭がする。食するのは大変である。

 しかし、この2食品の上をゆくものすごい臭いを発するのがスウェーデンで作られるニシンを材料としている缶詰、シュールストレンミングだ。密封した缶のなかで発酵させるものだから、種々の発酵菌や魚成分にあるアンモニアや揮発性アミンが外に出ることなく混ざり合ってとんでもない臭いとなる。缶は発酵時に排出される炭酸ガスで缶詰内はパンパンになり膨れ上がる。だから時に輸送途中で破裂することもある。

 缶詰には開缶するときの注意事項が記載されている。

 家の中では開缶してはいけない。中味が飛ぶ散るときがあるから、レインコートなどを身にまとい行う。風下に人をたたせない。など。

 これの匂いとにかく強烈。アラパスターという臭いを測る機械で測定した結果が以下である。(単位のauはアラパスターという臭いの単位を表す)

 納豆:407au,くさや:477au,小泉の靴下:139au,野球部員の靴下:490au,シュールストレンミング:8094au

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| 古本読書日記 | 06:06 | comments:0 | trackbacks(-) | TOP↑

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山口敬之    「総理」(幻冬舎文庫)

 シリアのアサド政権が化学兵器を用いて、多くの犠牲者をだしたということに対抗してトランプ大統領はシリアを攻撃した。実は、かってオバマ政権のときにも、同様なことがあって。オバマは世界各国にシリアに攻撃をすると宣言した。(結局はしなかったが)

 この時、オバマは安倍首相に対し、「空爆に対し支持をするよう」求めたのだが、安倍首相はアサド政権が化学兵器を使った明確な証拠が提示されない限り指示はできないと拒否している。

 そんなことは全く報道されてないので、この本を読んでびっくりした。アメリカ追随一辺倒かと思っていたから。それにしては、今回のトランプの空爆についてはどんな証拠が示されたのかはわからないが、トランプ支持をいち早く世界にさきがけ表明している。

 安倍首相をみていると、リベラルだ保守だ、革新、進歩派と政治家や、政党に対しレッテルをマスコミが貼っていることが今は全く意味をなさないことがわかる。国論を二分するようなことを安倍首相はどんどん実行してきた。

 安保法制、原発稼働、特定秘密保護、テロ等準備罪、辺野古移転など。しかし、驚くことに少しも支持が減らない。森本問題でも変化はみられない。今は何でも反対だけでは、支持を得られなくなってきていて、それではあなたはどうするということが示せれないと、国民の支持関心を集めなくなった。

 中味はともかく、働き方改革を唱えるのは、かっては連合などの組合であったのに、彼らが訴えても全く改革が進まなかったところへ、安倍内閣が連合、民進党のお株を奪う改革を成し遂げる。民進党連合時代は給料があがることは無かったのに、安倍内閣のリードでベアも実施される。

 少し前までは、考えられない状況になってきていることに改めて驚く。

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小泉武夫    「ぶっかけ飯の快感」(新潮文庫)

 ぶっかけ飯、どんぶり飯を3杯、4杯とかっ込む。この表現だけで、おいしさは十分伝わってくる。だけど、食を世界を回り、追及している、農学者でもあり、文才に恵まれている文筆家でもある著者に、食べるという快感が十分伝わってくる表現を期待して読むが、この作品にはそれはあまりない。

 唯一、前夜の大酒飲みがたたってその対策として料理して食したイカ刺し飯の食いっぷりに際立った表現が書かれている。

 「最初の一口で、口の中にはしょうがの新鮮な辛さがパッとひろがり、熱いご飯がさらに辛味を刺激します。イカ刺しとともにシコシコ、シコシコと噛み続けると、一層辛くなります。しかし、イカの甘さを伴ったトロリとしたうまみ、ご飯の上品な甘味が融合しあいます。鼻からは、醤油の食欲を増す匂い、熱いご飯の芳香。
 飲み下す食道の奥の方に、辛み、旨み、甘みが仲良く隊列を組んで行進してゆくのがよくわかります。胃袋に到着すると、今度は酒に荒れた胃壁を一喝して鎮めるかのように、ショウガがドスを利かせるものですから、みぞおち周辺がジワーッと熱くなります。これだ。
この感覚が、ムカムカした胃を生き返らせてくれると思うと、もう吐き気などピタリと治まって、あとはむさぼるように、ピリカラのイカ刺し飯を胃袋いっぱいに送り込みます。」

 このイカ刺し飯を食べるところは、名表現だと心底感心した。

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宮部みゆき   「夢にも思わない」(角川文庫)

 島崎が田村警部から聞いた話が印象に残る。

 「理解できない。どう捜査したらいいのかわからない。警部さんはそう言ってた。犯人を捕まえて検察庁に送って、そいつが起訴されて判決がおりてもまだ、警部さんには、その犯人の顔が見えないし、犯罪のくっきりとした輪郭もつかめないんだそうだ。それは、そういう犯罪が、それを犯した人間の心の中の問題だからだよ。国を揺るがす陰謀や、あるいは社会構成から生まれ出る不公平や貧困や、あるいはイデオロギーとかに突き動かされた結果のものじゃなくて、個人の心の欲求とか欲望とかいう、きわめて基本だけど、ある意味では外部の人間には永遠にわからないものから生まれてるものだからだ。心は、推しはかったり、解釈したりすることはできる。けど、本当に理解することは不可能だって警部さんは言ってた。
 最近、犯罪捜査をしてて、思うんだって。幻と追いかけっこをしているようだ、とね。捕まえてみても、実体がない。動機もはっきりしなきゃ、何故被害者を選んだのかもわからない。昔のように罪の意識もない。」

 「会社」という名の中学生を中心とした売春組織がこの話には登場する。抜けだそうとして、焼き殺された女の子がいるという噂がでる。でも女の子たちは、お金を稼いだらいつか抜けられるとその噂を自分のこととしては思わない。悪いことをしているなんて少しも思わない。

 むしろこの「会社」を青春の基盤として使って暮らして、この売春組織が大切だと思っている子もいる。

 本当になんとも心は千差万別。

 だから、最近は裁判でやたら精神鑑定を行うことが多くなった。

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池波正太郎   「江戸前通の歳時記」(集英社文庫)

 戦争が終わった。池波は海軍から復員してきて、母、弟と池波と3人で暮らしていた。焦土化した東京。浅草の焼け跡、その一角の焼け残った家の2階を借りての住まいだった。

 「兄さん、氷を売っているよ。」と弟から二階で茫然としていた池波に声がかかる。
 「そうか、よし」と言って、体を起こして、外へとでる。
トタン張りの小屋の屋根の上に、白い布へ「氷」と墨で書いたのが見える。

 小屋の周りに子供たちや数人の男女が氷水を手にしているのが見える。焼け残ったシロップを使って開店したのだろう。

 イチゴにシロップがかかった氷水を頬張ったとき、池波は非常に心強さを感じた。
戦争に負けてまだ半月しかたっていないのに、もう氷水を売っている店がでている。
 敗戦のショック以上に、大きな衝撃を受ける。

 池波は「これからどうやって生きていったらいいのやら」と思い迷っていたのだが、初めて明るい気持ちになる。
 思い返してみても、あの氷水から、池波の戦後復興は始まったのだ。

 池波の多くの傑作のスタートが、戦争直後晩夏の氷水だったことが強い印象を残す。

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伊集院静 「人生なんてわからぬことだらけで死んでしまう、それでいい」(文春文庫)

 週刊文春の人生相談「悩むが花」から選集してできた本。

 父親が糖尿病になり、食事制限が医者より指示される。もともと父親は甘いものに眼がなく、それが見ていて可哀想でならない。何とかしてあげたい。という相談がある。
伊集院、きっぱりと心を鬼にして制限を守ってもらいなさいと回答する。

 そして加えて面白いエピソードを紹介する。

 スペインに住む伊集院の友人が突然帰国せねばならなくなったという。
「オヤジが若いころの無茶がたたって入退院を繰り返しているんだが、食事制限が厳しくて、オフクロがアレはダメ、コレもダメと毎日言っていたら、オヤジがとうとう怒りだして、そんなに言うんなら俺はいっさい何もたべないといい、それから何も口にしなくなった。
それで、俺に説得してほしいとオフクロが言うんだ。」
「それで今はどうなっているんだ。」
「三週間水だけで暮らしているらしい。」
「大丈夫なのか。それで帰ってきて説得はできるのか。」
「何しろ頑固一徹だからなあ。説得してだめだったら放っとこうかと。」
「それがいい。」

 そうして伊集院の親友のオヤジは3か月後に見事に死んだ。

 たいした親父さんだったなと2人で今でも乾杯するそうだ。

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小泉武夫    「くさいものにフタをしない」(新潮文庫)

 日本人は米、麦、芋類など繊維質をよく食し、世界ではよく屁をする放屁族とされてきた。

 江戸時代には「昔語花咲男」という有名な演芸人曲屁師がいた。

 囃子に合わせて、最初は調子よくトッパラヒョロヒョロ、ピッピッピと、次は鶏の東天紅をブブ ブウーブウーと高音で、そして水車といってぐるぐるまわりながらブウブウブウと最後には宙返りもする。

 他の曲芸師をさしおいて、この放屁師は大人気となり、「両国へ屁を嗅ぎにゆく四里四方」と川柳にまでうたわれた。平賀源内も花咲男を見物して「放屁論」という書物をだしている。

 現代の放屁の王者は誰をさておいてもかの永六輔。

 屁というのは臭いにおいのするものはだめ。そして尻の襞を震わせてだしては、高音、中音、低音がでないのでだめ。高音、低音を吹き分けるには直腸を収縮して音を出さねばならない。
食べ物により屁をだすというのでは屁の芸はできない。

 空気を肺一杯に吸い込んで、これを胃に送り、それから区切って腸から屁をだす。50から60発だせるようにせねばならない。長い屁は30秒は続かねばならない。

 もちろん、これを一気に放出することもできる。その時はバリバリバリとものすごい音になり雷屁といわれる。切れ痔になるから、そして時にパンツを黄色くしてしまうから注意せねばならない。

 永六輔の放屁方法である。

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角田光代    「ポケットに物語を入れて」(小学館文庫)

 悲しい、切ない、泣ける、うれしい、幸せ、癒し、そんな何となく納得できる言葉で終わってしまう物語。角田は違う。その先を見つめている。切ないね、悲しいねは本当なの?
いっぺんの言葉で全部をその通りと読者に思わせることに納得しない。

 しかし、その先は、複雑であり迷路であり、言葉では表現できないことが多い。しかしでも小説家は、言葉によって生計を立てている。だから、その先のわからないところを言葉を紡ぎだし読者にさらけださないといけない。それが本当の小説家だと角田は確信している。

 だから、多くの他の作家の作品も、突き抜けた場所、場面を言葉で説明しているかどうかが彼女の評価のポイントとなる。

 例えば山田太一の「冬の蜃気楼」に想いを描く。
「悪事を働いたから悪い人。子供好きだからいい人、というシンプルなことがない。子供を
かわいがりながら平気で親友をだまし、でも、そのあとで、悲しいニュースをテレビでみて心から泣き、ふとした拍子に、嫌いなやつを思い浮かべて死ねばいいと思う。人はそんなふうに、ひとつひとつの行動や感情がつながらない。
 そして人は、その矛盾を自覚しない。・・嘘をつくつもりなど無かったのに、気づけばとりかえしのない嘘をついたりしている。」

 そして小説とは何かを角田は語る。
「ささやかで平凡でも、それぞれに矛盾に満ち特殊な生を生きている私たちに、小説は静かに寄り添い、ともにいてくれる。・・・私たちのそばに寄り添う小説は。ある瞬間に私たちを立ち会わせる。人が、ある何かを選択することによって決意する。小説はその瞬間を見せる。」

 角田の小説を書く決意がここにある。

 開高健が、絶対使ってはいけない言葉として「筆舌に尽くしがたい」という表現がある。どんなことでも、筆舌を尽くして表現しろと開高は言う。それを、肝に銘じて物語を紡いでいるのが角田光代である。

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| 古本読書日記 | 06:27 | comments:0 | trackbacks(-) | TOP↑

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小泉武夫    「くさいものにフタをしない」(新潮文庫)

 日本人は米、麦、芋類など繊維質をよく食し、世界ではよく屁をする放屁族とされてきた。

 江戸時代には「昔語花咲男」という有名な演芸人曲屁師がいた。
 囃子に合わせて、最初は調子よくトッパラヒョロヒョロ、ピッピッピと、次は鶏の東天紅をブブ ブウーブウーと高音で、そして水車といってぐるぐるまわりながらブウブウブウと最後には宙返りもする。

 他の曲芸師をさしおいて、この放屁師は大人気となり、「両国へ屁を嗅ぎにゆく四里四方」と川柳にまでうたわれた。平賀源内も花咲男を見物して「放屁論」という書物をだしている。

 現代の放屁の王者は誰をさておいてもかの永六輔。

 屁というのは臭いにおいのするものはだめ。そして尻の襞を震わせてだしては、高音、中音、低音がでないのでだめ。高音、低音を吹き分けるには直腸を収縮して音を出さねばならない。
食べ物により屁をだすというのでは屁の芸はできない。

 空気を肺一杯に吸い込んで、これを胃に送り、それから区切って腸から屁をだす。50から60発だせるようにせねばならない。長い屁は30秒は続かねばならない。

 もちろん、これを一気に放出することもできる。その時はバリバリバリとものすごい音になり雷屁といわれる。切れ痔になるから、そして時にパンツを黄色くしてしまうから注意せねばならない。

 永六輔の放屁方法である。

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熊谷達也   「勘違いのサル」(PHP文芸文庫)

 人間に最も近いとされるチンパンジーでさえメスには発情期があり、発情期以外はオスを受け入れないそうだ。

 人間だけがなぜ発情期という一定した期間がなく、いつでも性交ができるのか。それは女性からのご褒美だからだそうだ。人間が木から降りて、二本足歩行となって以来25万年の殆どは狩猟により暮らしを維持していた。

 男は狩りにでると、長い間家をあける。その男が確実に家に戻ってこさせ家につなぎとめておかねばならない。そのためには、いつでも男が戻ってきたとき性交ができるようにしていなくてはならないからである。

 核家族化が今や進んで、老人が一人住まいしているという家庭も多くなった。ところで、核家族というのが、本来のあるべき家族の姿とは異なると言われているが、それはおかしい。

 男を繋ぎとめた女性は、男と時をかまわず性交する。そうすれば当然子供が何人かできる。
両親と子供という形態が、狩猟生活をするための基本形態であり、縄文時代までは、この基本形態が長年にわたり維持されてきた。

 これが農耕が定着して変わったのである。働き手が必要となり、世代を超えて一つの家族を構成するようになったのである。25万年の殆どは両親と子供が家族であり、世代を超えた家族形態というのはほんの2000年前に作られたもの。だから、核家族化というのは本来の人間の家族形態にもどってゆくことを表している。

 そういえば、縄文遺跡というのは、確かに山の中など、暮らしにくい場所にある。弥生時代の遺跡は、肥沃な平野地にある。縄文時代は狩猟で暮らしをたてていたのだから、食料となる動物が豊富なところに集落ができたのである。

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熊谷達也    「迎え火の山」(講談社文庫)

 旧盆の十三夜、山形出羽三山の霊峰月山の頂から麓に連なる迎え火の祭りを取材しに帰省していた工藤。一方工藤の幼馴染の友人正志は、古来の採燈祭復活のために奔走していた。

 採燈祭というのは月山の頂上の神社から麓にいたるまでにいくつも存在する神社に燈明をつけ、亡くなったひとがその燈明を伝わって麓まで降りてくるという祭りだ。

 正志がこの祭りの復活を村で提案したのだが、村民はこぞって反対。そこを懸命に説得し実現までこぎつけたが、その間に工藤の父親が襲撃されたり、提案者の正志まで襲われてしまう。しかも、工藤や正志の同級生である由香が、自分は鬼からこの村を守ってきた一族だと言い、「祭りをやめて、ソラン鬼が降りてくる。」と懇願する。

 当然、現代では鬼などおらず、正志や工藤の父親への襲撃の真実が暴かれ、犯人逮捕とむかってゆく小説になるかと思ったら、その逆で、鬼もいれば霊魂、幽霊も存在するという方に話は進む。

 古代東北史大好きな熊谷らしく、ソラン鬼の正体は、東北を古代に治めていた蝦夷である物部氏だと熊谷は言う。物部氏は朝廷から派遣された坂上田村麻呂に制圧され大量の死者がでた。その物部蝦夷が1000年を経ても、成仏できずに浮遊していて、もし採燈祭を行えば、月山頂上よりソラン鬼となって一斉に麓までおりてきて村を破壊するという物語にしている。

 物語の結末はあっけないものだが、そこに至るまでの、古代史背景や、工藤を青森の恐山まで行かせて霊的雰囲気をもりあげるところが読みどころ。

 霊を受け入れ、信じているおたくのような人には限りなく面白いかもしれないが、そうかなあと思う人には、背景部分がくどくていやになる。
 真っ二つに読者をわけてしまう作品である。

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4月の猫の日

にゃんにゃん

最近ベッドが新しくなりました。
古いのがこれ。(はなゆめねえや購入)

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コメリ

こういうのもあるけど、爪とぎにしかならない。休めない。(はなゆめママ購入)

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で、新しいものがこちら。(はなゆめママ購入)

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今から買うならオープントップでしょ! 冬に戻ってどうする!! と思ったそこのあなた。
みかんとは限らないし、良いのです。
さいころから球形にした結果、出入りでぐらつきます。転がしながら入る、可愛らしい姿を見ることができます。
猫には好評です。

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耳折れ

茶々丸がいないって? いますよ、奥に。

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手前にあるのは、ももこのひげ

まだまだ朝晩は冷えますな。

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鹿目けい子     「相撲ガールズ」(幻冬舎文庫)

 大相撲の盛り上がりは今は最高潮に達している。その中心になっているのは、老人や男たちではなく、女性ファンそれも若い女性たちである。

 そこで、日本相撲連盟は、相撲をオリンピック種目にしようと活動している。オリンピック種目にするためには、女子相撲の普及、大会開催が不可欠。しかし、どうも日本では女性が相撲をするのは抵抗感があり、女性相撲団体を「新相撲連盟」と96年に名付て結成しその普及に尽力してきた。

 面白いもので、これだけ相撲人気が膨れ上がっているのに、女性で相撲をしようとする人は少なく(男も外国力士ばかりになっているから縮小傾向は同じだが)なかなか大会を成立させるのが困難なようだ。しかし、女子相撲はドイツを中心にヨーロッパでは盛況になってきているようで、日本よりがい海外のほうが相撲熱が高まっている。

 しかし、この作品のぶつかり稽古を見ている主人公の遥の眼は、相撲の魅力にとりつかれ、こんな作品が生まれてきだすと、女子相撲も大相撲となりテレビ放送も近いかもしれない。
 「パチン!
  乙葉が男子にあたった瞬間、乾いた音が鳴る。
  乙葉の両手は男子の胸の下あたりに食い込んでいる。男子が押し出すように全力を込める。乙葉の押す力で男子がずるずると後退してゆく。男子を土俵の外まで追いやると、乙葉は土俵際でもう一度しっかり腰を落とした。
 それを何度も何度も繰り返す。ぶつかっては押し、ぶつかっては押す。
踏ん張る足の指は赤い色を通り越し、黄色くなってずりずりと土を割ってゆく。
すごい・・・素直にそう思った。
それまで感じていたまわしにたいする抵抗や、裸の男子にたいする恥じらいは、乙葉の本気のぶつかりで一瞬にして吹き飛んだ。
 相撲って、かっこいい。」

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津原泰水   「少年トレチア」(集英社文庫)

 学校への行きがけ、燃えないゴミの山を漁って得られた使用済みの電球を、サテライトの壁面にぶつけては、他の学童の流れに逃げ込むスリル。拾った百円ライターを思いっきり路面にたたきつける爽快感。電球内に装填された不活性ガスは、その破裂に華々しい音響を添える。ライターの底に残った液化ブタンは、外気と接触するやたちまち気化して膨れ上がり、自ら閉じ込めてきたプラスティックの衣を液体のようにまき散らす。

 街にあるものを、壊しては、逃げる。

 スピーディな笑い、怒り、恐怖、苛立ち、好奇心の触覚が察知するものを片っ端から味わい、味わいつくすと自らの手で終焉させ、小さな伝説として、己が胸に刻み付けた日々。夜は無心に布団に潜り込み、翌朝になれば、新しい物語を求めて鼻をひくつかせる。

 その破壊への対象が、単なる物から、生き物に変わる。捨て猫を河に投げ込んだり、上からジャンプしてつぶしたり。そんなことをすることが快感でたまらない。そして、それが最後には人間にまで行きつく。

 大人は子供は純真で、幼く可愛いものと刷り込まれていて、そんな子供の行動が真実とは思えない。だから、そんな事態を目の前にすると驚愕とともに尋ねる。
 「誰がこんなことをしたのだ。」
 「トレチアがやってきてしたのだ。」と子供たちは答える。

 トレチアとは人間でも、国でも、動物でもない。しかし、どことなく、ありそうで、説得力がある。どうして?と聞く。単に「キジツだ」と答える。期日のようにも聞こえるし、奇術のようにも聞こえる。

 そして、破壊や事件が、都市伝説となって拡散される。

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初野晴     「漆黒の王子」(角川文庫)

 猫がそうだが、自分が死ぬときがわかっていて、その時になると、どこかに姿を消し亡くなってゆく。家のまわりには、たくさんの鳥たちが毎日さえずっている。事故にあって死んだ死骸はみかけることがあるが、それ以外は、全くといっていいほどその死骸を見ることは無い。

 動物は食物連鎖を行わねばならないことを本能として知っている。死ぬことがわかると、自分の死んだ肉を他の動物が食べられるところを死に場所として選び、そこに身を投げ出し、そして他の動物たちに食べられる。こうやって、食物連鎖が成り立つように行動している。

 この食物連鎖に加わらない動物が人間である。

 アフリカの地域病のひとつに眠り病というのがある。これはトリパノソーマと呼ばれる鞭毛虫が体内に侵入して起こる病気である。この病気にはガンビア型とローデシア型がある。

 およそ2つの段階を経て、死に至る。第一段階では、倦怠感や疲労感に襲われ、時々発熱がする程度。第2段階に達すると、鞭毛虫が脳に至る。こうなると睡眠障害が発症し、夜全く眠れなくなり、その代わり昼間眠くてしかたなくなる。

 眠り病の伝染はショウジョウバエ人間の血を吸うときに起きる。

 この物語の主人公ガネーシャは、人間の天敵を創り上げ、この天敵により人間を食物連鎖のなかにいれようと考え、自分の家族を奪ったヤクザに彫り物をいれ復讐するときにショウジョウバエの血を刷り込み、殺すことで実現しようとする。

 そんなことで、人類を食物連鎖のなかに入れることはできないが・・・・。

 この作品、中味はそれなりに面白いがとにかく長すぎ、テンポもよくない。半分くらいに縮めて出来上がっていたらそれなりの作品になったと思う。

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湊かなえ    「リバース」(講談社文庫)

 平凡な小さな事務機販売会社の営業をしている主人公深瀬は、「クローバー・コーヒー」なる喫茶店で、客としてきていた美穂子と知り合い、恋におちる。

 この「クローバル・コーヒー」では、マスターがコーヒー豆に拘るだけでなく、砂糖は使わず、その代わりに蜂蜜を使い、独特の風味を提供するコーヒーに醸しださせていた。

 その蜂蜜は非常にめずらしく蕎麦の花から採取したものだった。

 3年前の大学時代の夏休み、深瀬は、ゼミ仲間の村井、広沢、谷原、浅見と村井の父が所有している長野県斑丘高原にある別荘にゆく。村井に事情ができ、遅れてくることになる。

 村井が電車で最寄りの駅に到着するが、別荘まで行かれないから誰かに駅まで迎えに来てほしいと電話で要請してくる。運転できるのは谷原と広沢だけ。谷原はすでに酒をしこたま飲んでいて運転は無理。

 広沢は酒は飲めないと言っていたが、谷原らに無理やり強制され、しぶしぶビールに口をつけていた。そして、気の弱い広沢は谷原らに言われ、自分が迎えにゆくと言い、車をだす。

 その時に、深瀬が、蕎麦の蜂蜜入りのコーヒーをふるまう。

 実は、別荘にくる途中、昼飯を皆で食べたのだが、広沢を除く3人は信州そばを食べてのだが、広沢だけは別の店でカツカレーを食べていた。また、深瀬が広沢に作ったコーヒーへ入れた蜂蜜は、途中道の駅で購入したものだった。

 村井を迎えに行った広沢は、いつまでたっても戻ってこない。おかしいと思って深瀬らが調査をすると、車は道路を踏み外し、崖から転落。広沢は遺体でみつかる。

 この作品の面白いのは広沢以外の参加者に、「広沢を殺したのはお前だ」とお前のところに宛てた名前が入った脅迫状が届き、それで深瀬がその犯人を探すと宣言して犯人を追及してゆくところ。

 広沢の人間関係を調べている間は、客観的に3人称で描かれるが、実は広沢が蕎麦アレルギーだったところから深瀬の一人称に物語が変わるところ。

 この変化が、強烈に印象に残る。

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| 古本読書日記 | 06:12 | comments:0 | trackbacks(-) | TOP↑

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堀江敏幸    「バン・マリーへの手紙」(中公文庫)

 堀江の思考の変転は面白い。

 堀江がある日商店が並ぶアーケード街を歩いていると、屋台のような売店で、男が街ゆく人によびかけている「四角いゆで卵はいらんかね」と。普通は四角いゆで卵とはいったい何なのだと興味が沸き、堀江もそう思うのだが、そこから思考が飛翔して、「四角い卵」と「四角な卵」の言い回しはどこが違うのだろうかとなる。

 そして「四角い」のほうは、庶民的で普通言葉。「四角な」は古風で、高尚的で文学的香りがする。今は「四角い」が使われ「四角な」は殆ど使われないと断じる。

 室生犀星が70を過ぎ最晩年に新聞に発表したエッセイに「晩かった50年」という作品がある。

 その作品で室生は、文学に燃えていた若きころ、新聞や町の看板で、レベルの低いたわいもない広告、宣伝が躍っているのをみて、自分のほうが素晴らしいものが書けるのに、広告の仕事が欲しいと貧乏をしながらずっと思っていた。

 それから50年、大作家となった室生が、軽井沢の小径を散歩していると、つくだ煮を加工して作っている業者が自転車で通りがかる。つくだ煮屋は室生を作家だと知っている。そこでつくだ煮屋が言う。

 モンロー・センセイ、新しく作る山椒の実のつくだ煮を入れる小箱にそのつくだ煮を褒める宣伝文句、美文を書いてもらえないかと。(室生犀星のことをつくだ煮やはモンロー・センセイという名前だと思っている)

 その時、室生は胃の調子が悪いこともあったかもしれないが、俺を大作家と知って、そんなことを頼んでいるのかという思いがあって、やんわりと申し出を断っている。

 あれほど若くて売れない頃は、広告文でもいいから書きたいと思っていたのに、今はそんなことをしたら沽券にかかわるということである。

 堀江の言うように室生は「四角い」から「四角な」へ今は転化したのである。一方つくだ煮屋は「四角な」人に「四角い」を依頼しているのである。

 作家堀江の空想の変化、広がりは面白い。

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| 古本読書日記 | 06:07 | comments:0 | trackbacks(-) | TOP↑

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熊谷達也    「相剋の森」(集英社文庫)

 熊谷の代表作である森シリーズの第一巻として出版された作品。直木賞、山本周五郎賞受賞作品「邂逅の森」はシリーズ2巻目の作品である。

 「邂逅の森」は「相剋の森」の主人公である美佐子とマタギの頭領である滝沢の曾祖父である松橋富治の大正時代のマタギ人生を扱っているが、この作品は現代の自然環境保護の高まりとマタギを生業にしている村、人との葛藤を扱う。

 カメラマンの吉木と同棲している熊の専門家の小山田玲子を訪ねたときの玲子の言葉が印象に残る。

 「今の先進国の人間には、これまでにさんざん自然を破壊し、略奪し尽したと言う事実に対する負い目がある。だから、自然破壊や環境保全という話になると、自然のものの数を減らすことはすべて悪だという前提にたってしまいがち。しかし、考えてみてください。ヒトという種がこれだけ繁殖してしまった今、手つかずの自然というものは存在しえないんです。自然を守るためには人間の知恵がいる。その智恵やノウハウをこの国で最も大切にしてきた人々こそマタギという狩猟集団です。だから、彼らを排除することを前提とした自然保護や環境保全は間違っていると、私は思いますね。」

 マタギを貫く論理。「山は半分殺してちょうどいい」人間は山から半分を収奪するが、それ以上の欲望は抑制する。狩る者は熊を殺す。しかし熊が狩る者を殺すことも受け入れる。この血の匂いが残る交歓こそがマタギの論理で、自然と人間とのあり方を示している。

 動物カメラマンである吉木の個展で、主人公の美佐子は、マタギが射止めた熊といっしょに写っているたくさんの写真をみる。それに、違和感を覚える。どれも悲しい瞳をしているのだ。

 しかし、物語の最後に美佐子はマタギの熊の巻き狩りに参加して、熊を射止めたマタギが一様に悲しい目をしていることを目の当たりにする。

 そしてマタギの論理をずしんとかみしめる。
 「山は半分殺してちょうどいい」

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| 古本読書日記 | 06:11 | comments:0 | trackbacks(-) | TOP↑

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熊谷達也    「モビィ・ドール」(集英社文庫)

 タイトルはかの傑作ハーマン・メルヴィルの「白鯨」に登場するマッコウクジラの名前「モビィ・ディック」を思い描いてつけている。

 ときどき日本の海辺でも起きるが、クジラやイルカが砂浜に打ち上げられることがある。どうして打ち上げられるのか、研究はされているが、いまだ解明されていない。テレビにとりあげられその姿をみて、可哀想なんとかしてと皆は思うが、打ち上げられたクジラやイルカを海にかえしても、数日間で死んでしまうか、方向感覚が狂ってしまっているのか、また砂浜にあがってきてしまうそうだ。

 東京の八丈島の近くの小さな嚴蔵島。これという産業がなく、島の周りを回遊しているイルカウォッチングの観光にすべての島民が依拠して生計を成り立たせている。

 ところが、その海に今までいなかったシャチが出没するようになる。それに伴って、イルカが砂浜にあげられる現象が起こるようになる。

 調べると、シャチは捕食動物で、イルカを襲い食べていて、それから逃げるために砂浜にあがってくるようになったことがわかる。

 そこで、島民から、シャチを捕獲しろとか殺せという声がうねりだす。

 その時の不良ダイバーの葛西の言葉にドキっとする。
 「イルカがああして苦しんでいる姿を見れば、かわいそうだなあと思いますよ。でも、仕方がないことじゃないですか。イルカがシャチに食われようが、座礁しようがほっとけばいいじゃないですか。」

 自然界の摂理に対抗して、イルカが可哀想だから、人間の手で、シャチを殺すことを行っていいのか、でしゃばりすぎではないかとこの言葉はせまってくる。

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| 古本読書日記 | 06:06 | comments:0 | trackbacks(-) | TOP↑

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熊谷達也   「いつかX橋で」(新潮文庫)

とっかかりの仙台空襲の場面描写はよく書けていて、ぐいぐい引っ張られ胸に響いた。
しかし、その後がよくない。

 靴磨きをしながらでも、真面目に堅実に生きようとする祐輔と、特攻くずれで不良の道を行こうとする彰太との出会いから親友となるまでの過程に納得感が起きない。真面目さと不良を対比しながら物語をクライマックスまで持っていくという概念だけが先行しているから、それに引きずられて、2人の心情、行為が作為的で少しも読者に響いてこない。

 これに絡んでくる淑子。最初の場面は丁寧な教養ある言葉遣いで登場するが、パンパンになってからは、不良言葉になり、それが場面、場面で言葉遣いが変わるところも、わざとらしい。

 人間はこんなにパターン化され、行動するものではない。まして戦後の大混乱な時期。大きく日々揺れ動き、頑張ろう、いやもうダメという振幅の中揺さぶられる毎日が続くはず。

 熊谷はまず作為が、この作品にあった。そこに、登場人物をはめ込もうとした。しかし、作為が現実から遊離していた。だから、はめ込んだ登場人物やその関係も、完全に現実から遊離して、凡庸な作品にしてしまった。

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| 古本読書日記 | 06:04 | comments:0 | trackbacks(-) | TOP↑

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熊谷達也    「光降る丘」(角川文庫)

 東日本大震災により、私たちは忘れているが、それより数年前、2008年6月14日に岩手県の栗駒山脈付近で「岩手・宮城内陸地震」が発生。大規模な土砂崩れが起き、多くの犠牲者がでた。この地震を扱った「河北新報のいちばん長い日」という本が出版されたくさん売れた。

 熊谷はこの時のことを綿密に取材し、小説にして雑誌「家の光」に連載していた。その最中東日本大震災にあい、連載をやめようかと思った。しかし、被害の状況を描くところを大幅に削り、修正をして最後まで書き上げた。

 この作品は、東北の貧農民が、戦争中に満州開拓団を組んで満州に渡り、戦争に負けて命からがら日本に引き揚げたが、もともと貧農だったため、生活ができない。そこで県の要請に応じ、山間部に入植して荒れた原野や森を開拓する姿と、60年以上たって巨大地震に遭遇し、そこから立ち上がってゆく姿を平行して描きながら物語は進行している。

 もう、テレビがあるのは当たり前。翌年に東京オリンピックを控え、白黒テレビがカラーテレビに買い替えられているときに、開拓地区にやっと電気が通り、ランプ生活から解放される。

 入植して何年間も、収入は、くぬぎの木を伐採し、枝を刈って作る炭焼きだけ。買い物や、病人がでたらつづら折りの道を何時間もかけ、下り、麓の町まで行く。入植者の主人公耕一の息子耕太の出産の場面は、手に汗を握って読んだ。

 なめたけ栽培やいちご栽培をてがけ、やっと苦労して築いた小さな村が一瞬の災害で破壊される。

 しかしおじいさんの血や魂をちゃんと引き継いだ孫の智志が、破壊された村を復興させると確信して作品を読み終えた。

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| 古本読書日記 | 06:16 | comments:0 | trackbacks(-) | TOP↑

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熊谷達也    「荒蝦夷」(集英社文庫)

 大化改新を成しえた朝廷は、未征服だった東国征服に力を入れはじめる。淳足柵や磐舟柵を築き、奥羽、出羽国を設立しながら原住民蝦夷の征伐に乗り出す。そして724年には支配の象徴である多賀城の建設にまでこぎつける。しかし、一旦は朝廷に帰依していた宇屈波宇が770年に反逆の乱をおこし、蝦夷地域は動揺する。そして、それが大きな波となり起こったのが780年この作品の主人公砦麻呂の乱であった。砦麻呂は多賀城を焼き払い蝦夷の乱を本格化してゆく。

 そこで朝廷は征夷大将軍である坂上田村麻呂を派遣し、東北の制圧にのりだす。この田村麻呂と徹底的に戦ったのが蝦夷の英雄アテルイである。これが歴史でいうところの「38年戦争」である。

 この作品は38年戦争を扱っている。しかし歴史上の史料は朝廷の史料が残っているだけ。それを、熊谷の大胆な想像が謎を埋める。

 その大胆さは、砦麻呂とアテルイが親子であるというところ。面白いのは、この戦争を熊谷は別の作品でも扱っている。それが「まぼろしの疾風」。この作品はアテルイを主人公にしている。作品では砦麻呂は病死としているが、「まぼろしの疾風」ではアテルイに暗殺されていて異なっているところ。

 熊谷の想像が行き過ぎだと少し感じたのは、胆沢蝦夷征服に立ち上がった砦麻呂の軍の食料調達の場面。征服がなかなかできなくて食料が尽きる。兵は空腹にさいなまれ、前進する力もない。そのとき、砦麻呂が兵に命令する。

 「この先に柵戸村という集落がある。そこで食料を調達してこい。」と。しかし、そんな小さな集落では200人を超える兵の食料など調達できるわけがないと思っていると、集落から兵が10数名の赤ちゃんを含む村人を連れてくる。そして、目の前で首をはね殺害して、それを刀の先にさして、火であぶり食べるところ。

 その人肉が人間に強く作用するのか、翌日兵は異常に元気になり胆沢蝦夷を征服するのである。この場面は読むのが辛かった。

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| 古本読書日記 | 06:14 | comments:0 | trackbacks(-) | TOP↑

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ビートたけし「たけしの面白科学者図鑑 人間が一番の神秘だ!」(新潮文庫)

 今のAIの技術進化は本当にすごい。

 人間とAIの違いは、人間は現象を観察して、どこが重要だとかどこに問題があるかを抽出して、その解決すべきアルゴリズムを創り上げる。しかし、AIには、事象をとりあげ、どうするか判断ができるところまで行けなかった。判断した後は、どう解決するかはAIでできるが。

 ところが最近のAIは、どう判断するかが、かなりできるようになったそうである。例えば、初対面の人と出会って、この人は自分に好意的か、そうではないかまで判断できるそうだ。

 自分のアンドロイドを持ってゆく。アンドロイドが自分が言うまえに初対面の人にあったとき、「この人は嫌いだ」と言ってしまう。大変な時代がやってきたものだ。

 街のいたるところにある監視カメラ。このカメラにAI機能がとりつけられている。すると写った人間の表情や仕種を判断して、こいつは怪しい行動者で、事件を起こすと判断する。

 そんなのが監視している警備会社や警察に瞬時に通報され、ずっとその人間を集中してカメラでおいかけるなんて時代がすぐそこに来ている。

 そんなことに驚きながら、この対談集を読む。

 言葉を持つのは人間だけだが、その言葉は、歌声から生まれたのだそうだ。事実小鳥やテナガザルは一定の幾つかの種類の歌を互いに発生して、コミュニケーションをとっているそうだ。

 人間は最初アフリカで発生して、それが世界中に拡散した。面白いのは、新しい未開拓な場所に移住するのは、進取性や冒険心に優れ、闘争心の強い人間たちかと思われるのだが、調査をすると全くその逆。集団のなかで、はじかれ、しかたなく新天地を求める弱い集団が移住をする。

 日本人は、その先は海でもう移住できない場所にやってきた。実に根本は弱く、なさけない人間たちだったのだ。
 そんな話も面白かった。

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| 古本読書日記 | 13:46 | comments:0 | trackbacks(-) | TOP↑

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熊谷達也   「七夕しぐれ」(光文社文庫)

この作品熊谷の体験をもとに書いているのか。

主人公の小学5年の和也は、田舎の学校から仙台の学校に転校してきた。父が学習塾経営に失敗しての転校だったため、住まいは小さく少し汚い5軒長屋のひとつ。この長屋から同じ学校に通うユキヒロとナオミがいて、すぐ和也は彼らと仲良くなった。

 長屋では一緒に遊んでくれるのだが、学校にゆくと彼らはよそよそしくなり、声をかけあうこともできなくなった。クラスの大将をきどるノリオ。それに子分のように従うススムとタカシが彼らとはつきあってはいけないと和也に強く言う。

 しかし、そんなことはできない。映画を見に行ったりしたところを、ノリオのグループに見られ、次の日から和也は完全にクラスで干される。

 今はあまり話題にあがらなくなったがユキヒロとナオミは部落出身の子だった。

大人は民主主義とか平等、公平と言葉を押し付け、人としての生き方を子どもに力説する。しかし、その大人が、あそこの長屋の人とは付き合ってはいけないとか、近付いてはいけないと言う。子供はピュア。それがなぜかわからない。問いただしても明快な答えを大人は言わない。そして子供は知る、大人が口先だけで、いかに嘘つきで、汚いかを。

 先生も言う。
「確かに、昔は差別があった。しかし、東北では今や差別はなくなったの。だからそんな部落は存在してないの。」

 和也はそう言われて先生への不信が大きくなったまま職員室を後にする。その直後、職員室から担任の声が聞こえる。
 「私、ついてないわ。何でこんな生徒のいるクラスを受け持ったのかしら。」と。
こんな体質が、大きな問題を起こす。

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| 古本読書日記 | 13:44 | comments:0 | trackbacks(-) | TOP↑

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川上未映子    「すべてはあの謎にむかって」(新潮文庫)

本の印税として著者にはいるのは、定価の一割だそうだ。この印税は、実販数ではなく、製本された数に対して払われる。だから、初版でできるだけ多く製本してもらったほうがお金はたくさん入る。それで、作家も中年になってきてお金が入用になってくると、編集者に媚びを売らねばならない。

 出版界は不思議なところで、出版数については、出版社がかってに宣言するだけで、印税をもらう著者はその数は確かめようがない。増刷しても、出版社がだまっていると、印税がはいってこないなんてこともあるかもしれない。

 川上の姉が言う。
「そんな適当な口約束でようやってるなあ」と。

 最近の子供の名前はすごい。一時は当て字が流行った。しかし音訓の読み方は変えることは殆どなかった。

 最近はキラキラネームが勢いを増してきている。
「火星」と書いて「マース」君。「皇帝」と書いて「シーザー」君となるのである。

 そしていよいよそれは深まってゆく。
「輝宙」と書いて「ピカチュウ」君。「泡姫」と書いて「ありえる」ちゃん。ディズニー映画の人魚姫の名前。

 そして極め付けは「礼」とかいてレイちゃんではなく、「ペコ」ちゃん。

名前の世界は実にフリーダムである。

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丸谷才一     「別れの挨拶」(集英社文庫)

 丸谷最後のエッセイ集。軽妙洒脱に吉行淳之介からはじまり、尊敬する吉田秀和、芥川、漱石、コンラッドまで縦横無尽に語る。

 大岡昇平は35歳で戦争に取られ、フィリピンのミンダナオ島でマラリアに罹り、もうだめと思い自殺を試みたが失敗し、そしてアメリカの捕虜となり日本へ帰還する。日本にかえったとき、家の玄関で、幽霊をみるように家人が茫然としていると、「ちゃんと足はあるよ。」と言う。大戦での日本人(民間人も含め)約300万人。死ぬことが不思議なことでなく、当たり前のように誰でもが思えた時代。

 私の父も、トラック島から船で逃れる途中、船が米軍に撃沈され、何とか通りがかった船に救われ生き延びた。もし、そこで救われなかったら、今の自分や、子供たちはなかったわけ。そんなことを思うと不思議に感じる。

 大岡は死んだはずだったけど、生き残ってしまった、後は余生好きなことをして生きようと思い、小説家になった。だから大岡文学にはその余生が色濃く反映している。

 明治維新後、日本は西洋のすべてを取り入れようとした。美術の世界でも同じである。それまで、ヌードを描くというのは日本では殆どなかった。それでも、西洋画をみておずおずとヌード画に挑戦をしだす。

 西洋ではヴィーナスでもアポロンでも若い女性美が尊ばれ、その肉体美を神の領域までもちあげ賛美した。ところが、日本では年齢が増すほど、人間も豊かになり、精神も崇高になるとして、老人、中高年を敬う思想が根付いていた。

 だから大家、中村不折は、老女性のヌードを描いて発表した。丸谷はそのレプリカを所有しているが、それが醜く、汚くどうにも嫌いだと言う。これこそが、東西の価値体系を安易に融合した失敗例だと憤慨する。

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