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2017年01月 | ARCHIVE-SELECT | 2017年03月

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川上弘美  「晴れたり曇ったり」(講談社文庫)

 今、請われて65歳を超えた身なのだが、名古屋のある会社に仕事で通勤している。会社は名古屋駅から地下鉄で2駅、そう名古屋駅からそう遠くないのだが、風景は、昭和の古い家屋、家並が続いており、何だか昭和50年くらいの学生時代にタイムスリップしたような想いになる街である。

 インベーダーゲームが設置してある、年寄夫婦がやっている喫茶店が健在で、お客もちゃんとついている。スターバックスもドトールも街なのに存在しない。

 そういえば、学生の頃、街にマリリン モンローの絵をかいたでかい看板を掲げた店が登場した。いかがわしさも漂っていたので、ついぞ入店する勇気もなく、あれは何だっただろうと謎のまま、大学を卒業し街を離れた。

 不思議なのだが、大学をでて40年以上もたつのに、ずっとあの看板の店が頭にこびりつき、今でもおりにふれてそんな風景を思い出す。

 川上さんのこのエッセイ集のタイトルにもなっている、川上さんの学生時代にあった喫茶店「晴れたり曇ったり」を読んで、共感し、しばらく、エッセイとともに学生時代を川上さんと一緒に味合わせてもらう幸せなひと時を過ごした。

 川上さんの、朝食が終わり、仕事をしながら、ずっと頭にあるのは、昼は何を食べようかということ。昼食がすむと、やはり夕食は何にしようかと考えている。しかし夕食が済むと、明日の朝食までが時間が長いから、朝食を何にしようかとは思わないというエッセイには本当にその通りだと思った。仕事が忙しくければ、忙しいほど、次の食事を何にしようかとおもいめぐらすものだ。

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多島斗志之   「海賊モア船長の憂鬱」(下)(角川文庫)

 18世紀初頭のインドをめぐる、列強イギリス、オランダ、フランスと海賊との闘いを描ける日本人小説家がいることに驚く。活劇、冒険小説。当時の船の構造にも詳しい。だから、戦いの有様も、リアリティがあり、読者は18世紀のインドに連れていかれ、心が躍りながら読書を楽しめる。

 主人公のクレイは、イギリス東インド会社本社よりインド マドラスに派遣される。それは「マドラスの星」と言われる、高級宝石を携えたまま、本社に帰還する途中で消息不明になった上席商務官のニコラス フィリップスの行方を探すため。

 ここに、いかがわしさを漂わせている、東インド会社のマドラス長官であるトマス・ピットが登場する。彼は本社から派遣されていたのではなく、もぐりの闇商人として頭角を表し、東インド会社とは敵対していたのだが、彼の商売の凄腕を無視できなくなった東インド会社が引っ張り込み長官の地位を与えた人物。彼は海賊モアとも通じていると思われている。

 さらに、ここに突然ニコラス フィリップスの妻という女性がイギリスよりやってきて、トマス・ピットに取り入り、クレイに一緒に、フィリップスを探そうと提案してくる。

 こういう出だしで物語は始まる。当然、読者の興味は、色んな人間が絡まりフィリップス探索が行われ、最終的にどうやってフィリップスへたどり着くのかが最大の関心事になる。そのフィリップス探求の過程で、怪しからんピットやフィリップス夫人、そして海賊モアがどんな役割を果たすのかが興味津々となる。

 ところが、驚いたことに、フィリップスの消息は下巻で数行で方付けられる。フィリップスは帰途途中で、フランスへ寝返り、フランス船でフランスにわたり、皇帝に宝石をプレゼント。フランスで優雅な暮らしをしていると書かれる。

 それは無いよと多島にクレームをつけたい。何のための物語の出だしはあったのか。とんでもない肩透かしで、物語の骨格がしっかりと組まれていない。実に奇怪な小説である。

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| 古本読書日記 | 06:22 | comments:0 | trackbacks(-) | TOP↑

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多島斗志之   「海賊モア船長の憂鬱」(上)(角川文庫)

 全体の感想は、下巻を読み終わって、下巻の感想で書く。

 18世紀、1700年代のはじめ、イギリスとオランダは東インド会社を作り、アジアに進出。勢力を2分してアジアを支配下においていた。ヨーロッパでは、イギリスとオランダは同盟を結んでいて、フランスと敵対していた。

 そんななかで、インドでは、イギリス、オランダ、フランスがそれぞれ居留地を持ち、商売をしていた。そこには、海賊がいて、時々商船や艦隊を襲って、商品を略奪したり、船を奪ったりしていた。最もその海賊で勢力があったのがモアの率いる海賊だった。

 主人公のクレイ。東インド会社本社から、インド、マドラスに派遣される。インドから帰国命令のでた上席商務員であるニコラス フィリップスが(マドラスの星)といわれているインド産の宝石とともに失踪。その行方を探し、どこへ行ったのか割り出せというのがクレイに与えられた使命である。

 面白いと思ったのは、東インド会社は、完璧な上意下達社会。本社の意向を達成できなければ、抹殺さえもある、完全統制社会。クレイは、フィリップスの消息を追って、モアの海賊社会に拉致されるが、ここは完全に民主主義社会。すべての重要決定は、多数決で決まる。モアといえども、多数決で決まったことには従うしかない。その意味では、開かれた公平な社会が実現しているところ。クレイも窮屈な会社に比べ、自由闊達な海賊社会に少し憧れる。

 それにしても、いつも腑に落ちないのは、香辛料取引が莫大な利益をイギリスにもたらすところ。この作品でも、ナツメグやグローブの取引の拡大で戦いが起こるのだが、そもそもイギリスでは料理グルメからは最もかけはなれた国。ナツメグなど奪取して、何に使ったのかピンとこない。それほど、イギリスに利益をもたらしたとは到底思えないのだが。

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| 古本読書日記 | 06:20 | comments:0 | trackbacks(-) | TOP↑

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星野博美   「戸越銀座でつかまえて」(朝日文庫)

 40歳を過ぎて、自由気ままに暮らしてきたが、その自由に疲れて、生まれ育った戸越銀座に戻って母との二人暮らしをする。その街と人々の交流を描いたエッセイ。

 ちょうど、五島列島に運転免許をとりにいって、帰ってきたころのことだ。

 星野さんは、本質はおしゃべり好きで、快活な人だ。それが、40過ぎても結婚していず、育った街を離れて母親のもとに帰ってきたことに、世間的に恥ずかしいと気おくれをしていて行動が他人の眼を気にし過ぎている。そんなことを気にする人など殆どいないのに。

 駅に行くにも裏道をわざわざ使ったり、できるだけ人に合わないような道を使って散歩をする。ちょっと星野さんらしくない。

 星野さんの味覚は、子供のころの味覚が変化せず、そのまま今に至っている。だから、子供の頃美味しいと感じたものが今でもそのままおいしく、その他のものはあまり美味しいと感じない。だから、グルメという場所からは遠いところにいる。

 日本中を探してもまったく星野さん以外は存在しないと思うが、星野さんは寿司が嫌いである。寿司が嫌いと公言すると、信じられないとか大馬鹿ではないかと、星野さんを排除にかかる。

 こんな星野さんを可哀想に思ったのか、勤めていた会社の上司がすし屋に連れていってくれた。高級なすし屋だ。その雰囲気に気おくれして、職人にまず「寿司のことは全く知りません。」と予め謝って寿司を食す。トロがでてくる。食べ方がわからないので、ネタと握り飯を分離して、わさび醤油をたっぷりつけて食べる。職人が怒る。「そんな食べ方をしてはいけない。ネタのおいしさが消えるから醤油をたっぷりつけてはいけない。」と叱られる。

 だから最初に断ったじゃないか。寿司の知識は外国人レベルだって。そんなに怒らなくても。

 「カリフォルニア巻作ってください。」「そんな寿司とは違うものを作れるか。」にらみつけられる。カッパ巻だけ作ってもらって、後は焼き魚を食べる。

 これで完全に星野さんは寿司嫌いになった。

 星野さんの祖父は漁師だった。そして、生魚はどんな菌がはいっているかわからないと言って、煮魚、焼き魚しか食べなかった。星野さんの寿司嫌いは祖父の血を継いで筋金いりだ。

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| 古本読書日記 | 06:06 | comments:0 | trackbacks(-) | TOP↑

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彩瀬まる     「骨を彩る」(幻冬舎文庫)

 人間はひとりひとり違う。だから、言葉を懸命に紡いでもわかりあえないこと多い。

 津村は10年前に妻を病気で失う。その妻の夢を最近見るようになる。必ず妻はいつもどこかの指が欠けている。そんな妻と夢の中で懸命に会話をしようとするが、指が欠けているがごとく、何かが欠けていて会話にならない。妻は、あきらめたように「何もわかってくれない」とつぶやく。その何もが何なのか考えようとするのだが少しもわからない。それは妻がわからなかったということ。ぐさりと津村の骨にそのことが刺さる。

 津村の娘、小春は中学校に通っている。葵という子が転校してきて、一緒のバスケット部にはいる。葵はどこかの宗教集団に入信していて、食事の前に必ず十字架を胸のまえできり、何かを唱えてから食事をする。それが、気味悪がられて、誰も一緒に食事をしないし、小春以外は誰も近付かない。

 小春は、その子にどうして十字架をきるのか。祈りの言葉もやめるべきと懸命に忠告する。
それを止めればみんなと仲良くなれるのだから。その思いが少しも葵に届かない。

 小春に彼氏ができる。ある日公園で彼と弁当を食べていると、彼がミニトマトを残す。「トマトが嫌いとわかっているくせに、母さんはミニトマトを弁当にいれる。だから、絶対嫌いなんだ。だからトマトを残すんだ。」と。

 この言葉に小春はショックを受ける。小春には嫌いも好きも思うことができない。母親はすでに死んでいないのだから。
 小春は骨身に沁みる言葉を、葵に言い続ける。彼氏は小春の事情は考えず、母親のことを愚痴り、それが小春の骨に突き刺さる。

 大人になるということは、突き刺さるようなことは言わず、骨の手前の液体で融解してしまうことを覚えることだ。しかし、どんなに融解してもその液体はいつか干上がり骨は残る。

 声には表情をださなくするよう大人はふるまうが、それだけに骨に突き刺さった言葉は、いつまでも重く人生にのしかかる。

 彩瀬さんは、文章の表現が実に広く深い。必ずいつか飛躍することが確信できる作家である。

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| 古本読書日記 | 06:25 | comments:0 | trackbacks(-) | TOP↑

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又吉直樹       「火花」(文春文庫)

 280万部の大ベストセラー。読んでいないと時代遅れと揶揄される作品。単行本から文庫になって、遅まきながらやっと手に取ってみた。

 又吉を表現していると思われる売れない漫才師、主人公の徳永、ストイックで天才肌の漫才師神谷とであい、その能力に脅威をかんじながら、師弟関係を結ぶ。

 徳永の相方山下に女ができ、子供まで作り、結婚をする。漫才師ではとても家族は養えない。それで、コンビを解消することになる。結果徳永も山下あってのコンビだったので、漫才芸人で生きてゆくことを断念する。

 その決断を伝えに神谷のところに行くが、その時の神谷の言葉がぐっと私を掴む。この作品で、又吉の想いが神谷を通して語られる。

 「漫才はな、一人では出来ひんねん。二人以上じゃないと出来ひんねん。でもな、俺は二人だけでも出来ひんと思ってるねん。もし漫才師がこの世に自分だけやったら、こんなに頑張ったかなと思うときもあんねん。周りに凄い奴がいっぱいいたから、そいつらがやってないこととか、そいつらの続きとかを俺たちは考えてこれたわけやろ?ほんなら、もう共同作業みたいなもんやん。同世代で売れるのは一握りかもしれへん。でも、まわりと比較されて独自なものをうみだしたり、淘汰されたりするわけやろ。この壮大な大会には勝ち負けがちゃんとある。だから面白いねん。でもな、淘汰された奴らの存在って、絶対無駄じゃないねん。やらんかったらよかったと思う奴もいてるかもしれんけど、例えば優勝したコンビ以外はやらんほうがよかったんかって言うたら絶対そんなことないやん。一組だけしかおらんかったら、絶対にそんな面白くなってないと思うで。だから舞台に一回でも立ったやつは絶対に必要やってん。ほんで、すべての芸人には、そいつ等を芸人でおらしてくれる人がいてんねん。家族かもしれへんし、恋人かもしれん。」

 漫才やお笑いコントの強さは、雲霞のように集まっている塊が、強烈なエネルギーを持ってうごめいているから、保たれ増幅しているのだ。その塊全体が漫才、面白いコントを生み出している。なるほどと感服した。

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| 古本読書日記 | 06:14 | comments:0 | trackbacks(-) | TOP↑

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初野晴    「わたしのノーマジーン」(ポプラ文庫)

 今介護現場にも介護用ロボットが導入されるようになった。この作品は、未来の話で、介護用ロボットが進化し、更に遺伝子組み換え技術も革新がなされ、「アイ・ペット」という、人間の5歳程度の知能をもつ介護用動物が開発導入されている時代を扱う。このアイ・ペット、サルとブタで作られる。そして富裕層である、女性独身政府高官、子供のできない夫婦、子供が独立した老夫婦を支えるペットとして迎えられた。

 このアイ・ペット。半世紀の間は利用されたが、やがて衰退してゆく。それは、もっと優れた介護ロボットが登場したこと。特にブタを食さない団体からの反キャンペーン。更に、富裕層が自分だけは生き抜きたいと、アイ・ペットを臓器提供者にするため殺してしまうことに動物愛護団体から強烈な反対運動がなされたことによる。

 そして、世界で7匹になったアイペット。その6匹がすべて殺され、逃げ出した最後のアイ・ペットである赤毛サルのノーマジーンが主人公で障害者のシズカを支えるために、シズカの母親の指示で、シズカのもとに派遣されてくる。

 アイ・ペット5歳の言語能力しかなく、読み書きもできないし、数字も5までしか数えられない。最初はシズカと摩擦ばかり起こる。それがだんだんシズカにはなくてはならない存在になってゆく過程が丁寧に描かれる。最後ノーマジーンが、シズカにとっては自分が重すぎると思い、シズカのもとを去ってゆく場面は胸がしめつけられる。

 それにしても、面白いと思ったのは、この作品に介護用ロボット開発の第一人者という学者が登場するが、彼が開発したのは、要介護者に対し反逆するロボットだ。暴れたり、言うことをきかない要介護者を押さえつけ、抵抗できなくするロボットである。

 すごい発想であるが、ひょっとすれば介護現場では、熱望されるロボットかもしれない。

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| 古本読書日記 | 06:07 | comments:0 | trackbacks(-) | TOP↑

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2月22日=猫の日=ももこ記念日

ももこが我が家に来たのは、14年前の今日でした。

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初々しいころ

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たわしなう

さすがに冷蔵庫に飛び乗るパワーはないですが。元気です。
外界への興味も失せない。たとえ結露で見えずとも。

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来年の記念日も迎えられるかな。たぶん。

| 日記 | 21:49 | comments:0 | trackbacks(-) | TOP↑

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津村記久子    「まともな家の子どもはいない」(ちくま文庫)

 最近は、親が子供以上に成長してなくて、子供のまま大人になっている親が多い。子供のほうが親より人間を見る目や判断力がある。そんな家庭では、子供はうんざりしていて、馬鹿な親とは一緒にいたくないという状態になる。

 特に、両親の関係が破綻していたり、離婚して片親としか暮らしていない、父親に生活能力がなく、家で毎日ブラブラしているような家庭は、日々生活するお金も不足がちになり、そのしわ寄せを子どもがかぶる。

 この小説は、親のだらしなさを子どもの眼を通して描き、それにより子供が受ける寂しさ、孤独感、やるせなさを描いている。

 津村さんは、こういう家庭がいかにも現代の特徴のように描き出すが、そんなことは無いと思う。私の子どもの頃も、こんな家庭は一般的に多くあった。生活力の無い両親、常に両親が喧嘩をしていて、貧乏な家庭。今以上にたくさんそんな家庭はあった。それはまだ日本が貧乏だったからかもしれない。別にそんな家庭は恥ずかしいこともなく、子供は中学をでて働きだした。当たり前の風景だった。

 この作品、主人公のセキコが冷静で、いかにも親のほうがわがままで対応が情緒的なように描くが、そうかなあと疑問に思う。

 父親がある日コンビニで働きだす。セキコはほっと安心する。或いは母が「お金のことは心配いらないよ。あなたを私立高校にだすくらいの蓄えはあるよ。」と言われた時もほっとする。

 しかし、セキコはどんなことがあっても根っから両親が嫌い。それでふるまいを変えない。

 両親にも問題は確かにあるが、セキコにも問題があるように思う。 

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| 古本読書日記 | 06:11 | comments:0 | trackbacks(-) | TOP↑

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初野晴    「千年ジュリエット」(角川文庫)

ロミオとジュリエットの舞台になったイタリア ヴェローナには今でもジュリエットの秘書という人がいて、世界中から恋愛相談を受けている。

 清水の総合病院で精神を病んで入院している5人の女性。カエラ姉さん、元女子プロレスラーのミサトさん、9歳のキョウカ、最年長のシズコさん、それから主人公のトモ。恋愛経験などほとんどないのに、それぞれ虹の5色の色を持つジュリエットの秘書になり、恋愛相談サイト「ジュリエットの秘書・はごろも支部」をたちあげる。

 相談がきたらみんなで解決策を考え、メンバーの誰かが回答する。何日間か過ぎても相談は無く、もう来ないと思っていたら第一号がくる。

 そんなことで始まったいくつかの質問に対し、これは名答だと思った回答がある。
 「彼とつきあって7年になり、来年結婚を考えているが、最近は付き合い始めたころのドキドキ感が無くなり、だらだらと完全にマンネリ化したつきあいになっている。このまま結婚してもよいか。」という質問。

 カエラが言う。「プロレスもまんねりじゃない?ぜんぶやらせ。」すると元プロレスラーのミサトが言う。「マンネリじゃないし、やらせもない。筋書きがあるだけ。」
 「筋書きがあることがお客をばかにしているんじゃない。」
 「何を言ってるの、人生だってすべて筋書きがあるんじゃない。」
 「だけど運、不運っていう思いがけないことがあるから人生はおもしろいじゃん。」
 「運、不運はアクシデントと言うの。幾つかの筋書きをもって、そのアクシデントに備えるのが人生なの。」

 「総合格闘技ってのがあるじゃん。あれは、筋書きもなく、一瞬にして終わる。盛り上がるのもすごいけど、一瞬にして冷める。筋書きの無い恋と同じ。お客さんをどう楽しませるかとなれば一流の筋書きが必要。筋書き通りすすまないことがあるが、それが物語になる。筋書きがあるこれが恋であり愛なのだ。奇跡なんておこりはしないんだ。」

 そして回答
「マンネリが生まれたのは、あなたと相手が描いた筋書きが三流だったから。筋書きを見直し友人やご家族が度肝を抜くような筋書きを作りましょう。二転、三転する筋書きが望ましいです。」

 面白い、個性的な回答である。

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| 古本読書日記 | 06:13 | comments:0 | trackbacks(-) | TOP↑

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初野晴     「退出ゲーム」(角川文庫)

 清水南高校1年生のマノンは、父親が元有名なサックス奏者。それでマノンも中学校まで吹奏楽部でサックスを吹く。その演奏はプロはだし。そのマノンが高校にはいった途端サックスを捨てる。そして陽気だったマノンはずっとふさぎ込んで、友達も誰もいなくなる。

 心配した演劇部長の名越が、マノンを幽霊部員でもいいからと演劇部員に無理やりしてしまう。

 しかし、吹奏楽部ではマノンに入ってほしいし、名越も演劇ではなく、吹奏楽部でサックスを演奏してほしいと願っている。

 実は、マノンは中国蘇州で生まれた。彼が生まれたころ、蘇州には多くの白人がやってきていた。実は中国では当時、子供は一人しか生んではいけないという法律があった。2人目以上の子どもはその存在が認められなかった。それで、育て上げられない子供を白人たちが養子にして自分の国に連れてかえることが一般に行われていた。マノンは長男だったが、障害がすこしあり、中国の両親はマノンの弟を正式な子として戸籍にいれ、結果マノンは白人の両親に引き取られた。

 高校に入るとき、突然両親から弟の手紙を見せられた。それは9089という番号で鍵をあけるジュラルミンケースにはいっていた。そのケースには、マノンが中国にいたとき、着ていた服やおもちゃがはいっていた。

 手紙には、弟が兄マノンに会いたいという願いと、今サックスを懸命に習い演奏していると書いてあった。その後も何回か弟から同じ内容の手紙がマノンにきていた。

 マノンは弟が幸せで本当の両親と暮らしていて、しかもサックスをやっていることにショックを受け、サックスをやめ、ふさぎこみだしたのだ。

 このマノンを演劇部から吹奏楽部に異動させるために、演劇部と吹奏学部が舞台で対決し、見事マノンが舞台から退出させることができたら、マノンが吹奏楽部に異動できるというゲームをやることとなる。

 この時の吹奏楽部のハルタが考えた劇が実に見事、鮮やかだ。舞台の外は蘇州。退出したらそこは蘇州。そして、マノンにジュラルミンケースとそれを開けるための鍵が渡される。

 上手い筋立てである。


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初野晴     「空想オルガン」(角川文庫)

 今の電話は詐欺だとわかりやすいのに、「オレオレ詐欺」の被害にあう人たちが、後を絶たない。老人になり、頭脳の働きが弱くなり、判断ができず、引っかかってしまうのだろうと想像するのが一般的な感想だろう。

 親子というのは、一旦子供が親元を離れると、多くは一挙に親子関係が希薄となる。実家に帰るのも年に数回から、だんだん減って、子供が家族でも持つと、年一回、表敬訪問のような感じになり実家に帰るのが一般的。

 中には、親子で摩擦があり、それで家を飛び出す場合も結構ある。こうなると、帰ることは無くなり、あっても数年に一回などとなってしまう。摩擦によって離れ離れになると、物理的出会いは無くなるが、結構親が子供を、子供が親を思うことは強くなる。どうして、あんな言葉を吐いてしまったのか、どうしてもっと親を或いは子を理解しようとできなかったのかと辛い想いが募る。

 こんな状態のときに、息子と名乗る人から電話がくると、親は電話の息子に縋りつきたくなる。どうしていたのか。元気でやっているのか。知りたい。そして何としても会いたいと思う。それが詐欺かもしれないと思っても、息子につながるのなら、お金などあげてもかまわないという気持ちになる。

 親の想いというのは想像以上に強い。何しろこの物語では、亡くなった息子から電話があっても、それを息子だと母親は信じて400万円のお金を用意するのだから。

 喧嘩で離れ離れになってしまった親子ほど、心のつながりは強い。それが「オレオレ詐欺」が消えない原因なのである。

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池井戸潤    「BT‘63」(下)(講談社文庫)

 この物語は、主人公の琢磨が、家に仕舞ってあった、古い制服を着ると、突然、その制服を着ていた1963年の相馬運送という会社に引き戻され、琢磨が生まれる前の父親がどんな仕事をして、波乱の人生を歩んでいたのか目の前で見えるようになるのと、実際に琢磨の父親の人生の物語が重なり合って進む。

 これは、父親の物語を琢磨という息子の眼を通してみる、それは読者が琢磨の眼になって物語をみて実感する変わった方法を池井戸が意識してとっていることを表している。

 この方法が成功しているかと思うと、少し首をかしげざるを得ない。

 琢磨の父親は、運送会社に突然飛び込んだ鏡子という子持ちの女性と大恋愛をする。しかし、彼の母親は、鏡子ではない。また、父親は琢磨が物心ついたときには、鉄鋼会社の経理に勤めていて、運送会社の社員ではなくなっている。

 つまり、鏡子とは悲劇的な別離があるだろう、運送会社は倒産したのだろうということが、物語の早い段階で読者には想像でき、その想像通りの物語が進行するから、いつもの池井戸の小説が醸し出すドキドキ、ハラハラ感がほとんどわきあがってこない。

 それから、父親の結婚前の波乱万丈の物語を、息子の琢磨がおいかけ解明してゆくが、それが今の琢磨の生きざまにどんな影響を及ぼしているのかが明確でない。だから、琢磨が時間と手間をかけ、再就職もせずに、父親の姿を解明しようとするかその動機付けがいかにも希薄だ。

 池井戸は少し手法にこりすぎて、本来の池井戸が持っている直球勝負の冴えが消滅してしまい、失敗作のように感じた。

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池井戸潤    「BT‘63」(上)(講談社文庫)


 BTというのは、ボンネットトラックという意味。私たちが子供のころはトラックやバスのエンジンは、運転席の前に格納されていて、どれも鼻がつきでたスタイルだった。BT‘63の63は池井戸が生まれた1963年を表している。つまり、この小説は池井戸が生まれた1963年を題材としているのだ。

 小説全体の感想は下巻の感想で書くつもり。

 1963年は翌年のオリンピックを控え、道路や設備が新たに作られ、国中が活気にあふれ、高度成長期真っただ中な時。しかし、こういった時代には、暴力団も活動的で、深い闇を持ち、人々をその闇にひきこんでしまおうと暗躍していた。

 この作品は、そんな時期の東京下町の運送会社を舞台にしている。今でもそういうところがあるかもしれないが、この時期のトラック運転手というのは、人生の過去に、大きな、隠しておきたい影を持っている人たちが多くいた。

 物語では、ドライバーが賭博で大きな借金を背負い、その借金を返すがために、深い闇に引き入れられ、それが、運送会社まで影響が及び、運送会社が立ち行かなくなるところを描く。

 闇に引き入れる男が2人いるのだが、この登場シーンが不気味。借金を抱えたドライバーの平が、ある日家に帰宅したとき、部屋の隅の全身白装束の男が座っていた。膝の前に水を張った盥ととぎいし、出刃包丁を揃えて正座していた。・・・・男はだまって包丁をとると、研石に水を注ぎ、静かに研ぎはじめたのだ。
 しゅ、しゅ、しゅ。

 これにびびり、恐怖の真っただ中に平がいると、真打である闇の男成沢が登場して、ある梱包済みの物を、民間のゴミ処理場まで運んでほしいとの依頼がある。その中身が不気味である。

 それが何なのかを想像しながら、下巻に進む。

 一旦依頼を受けると、断ることができなくなり、平がどんどん闇に引きずられていくところが恐ろしい。

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辻村深月     「盲目的な恋と友情」(新潮文庫)

 この物語は、よくわかるし、シンパシーを感じる。

 一旦恋に墜ちてしまうと、友だ、友情などというのは、完全に裏にかくれ、寝ても覚めても恋のことばかり考え、すべてが恋にからめとられる。

 友達同士話をしても話題は恋ばかり。殆ど友とか友情の話題などにはならない。恋は常に壊れるものとして扱われる。友情は永遠に続くものと錯覚しがちだが、結構これも壊れることがしばしばだ。

 友情が壊れるのは、彼女にとって、私が一番大切な友であると思い込んでいるのだが、彼女の私への対応や反応が違うように思えたときに起こる。その点は恋と似ているかもしれない。

 私がこれほど親身になってアドバイスしているのに、全く彼女はアドバイス通りに動いてくれない。彼女はいつも悩みは最初に大事な友である私に打ち明け相談してくれるはずなのに、違う女の子に打ち明け相談している。どうして?思い余り、友の相談相手に絶交宣言をしたり、自分の友から離れろと言ってしまう。そんなことをしていると、自分と関係を持ってくれる人間は友と思っている子だけになっている。

 そして、これほど思っているのに、彼女は感謝も少ないし、理解しがたくなる。この一方的な思い込みが我慢の限界を破ると、殺人事件を引き起こす。

 しかし、人間関係とは本当に難しい。自分の思った通りに相手が受け入れたり、同じ反応になるということはほとんどなくすれちがうばかり。これが最も強いストレスを引き起こす。

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伊集院静   「旅だから出逢えた言葉」(小学館文庫)

 伊集院が世界のあちこちを旅して、そこで遭遇した出来事に触発されて、彼の人生を励まし支えた言葉を思い出したり、実際にその旅の場面で出会って支えられた言葉を紹介して、旅のすばらしさを描くエッセイ。殆どが絵画に纏わる旅。あまり絵画に造詣が深くない私には少し距離があった。

 確か遠藤周作の小説「留学生」にでてきたと思う。

 遠藤周作は、1950年、戦後はじめての留学生としてフランスに渡っている。そして、大学が始まるまでの2か月間をルーアンという小さな町で過ごしている。そのルーアンを伊集院も訪れている。

 遠藤はこの小さな町のロビンソン一家にホームステイをして過ごす。ロビンソン一家は遠い国よりやってきた日本人の遠藤を家族のように扱う。当時、フランスは日本を敵として戦った国であり、しかも下等人種と思っている黄色人。差別、嫌悪が最も大きかった時代。

 2か月が過ぎて、ルーアンを去る日、ロビンソン夫人が遠藤に一枚の紙きれを渡す。
これから、遠藤には、心無いフランス人から、侮蔑、差別の言葉が浴びせられるかもしれない。そんなときは、この紙切れに書いてある言葉を叫べと。
 「ケル・ペ・ランス・チェ」と。この意味「くだらぬ屁をこくな」という意味。

 伊集院はいつも一人で旅をする。そして、特に若い男には一人旅を勧める。旅は、普段のしがらみや人間関係から完全に解放される。それは、孤独ということである。孤独は、自分の人生や悩みを見つめなおし、深く考える機会だ。遠藤の時代とは比べものにはとてもならないが、伊集院の孤独の旅は、遠藤の凍てるような孤独の留学に確かにつながっている。

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池井戸潤 櫻沢健   「『半沢直樹』で経済がわかる!」(文春文庫)

 銀行の融資は、返済期日通りに返済されない状態で、その質についていくつかに分類される。
回収不能融資と分類されると、資本を取り崩して引当て金を積まねばならない。そうなると、赤字になったり、引当て資金がなくなり銀行経営が危なくなる。

 バブルが終了したとき、銀行は膨大なこうした不良債権を抱えた。これらを厳密に不良債権としてしまうと、倒産にもつながる。それで、不良債権の一歩手前の要注意債権として処理した。ここに、監督官庁である金融庁が厳しく当たった。

 要注意先を不良債権に移すようにして、銀行の引当金を積み増しさせた。その姿勢、銀行への立ち入り監査は異常に厳しく、銀行を締めあげた。その結果、北海道拓殖銀行のように現実に破綻した銀行もでたし、不良債権が多額過ぎ、耐えられない銀行は、健全経営をしている銀行と合併をさせられた。私が会社に入って頃は、都市銀行というのは13行あったが、現在は5行に減った。

 更にこの結果「貸しはがし」「貸ししぶり」が横行した。

 この鬼のような金融庁検査がこの作品によると180度態度が最近は変わったようだ。黒田バズーカなどと言われているように、異次元の金融緩和、マイナス金利などを敢行して、市場にお金をだぶつかせインフレを狙っているのだが、全く企業、市場に資金需要がない。金の借り手がいないのである。

 だから、金融庁は検査にくると、最近はそんなに厳しい審査をせずに、ここにはお金をかしたほうがいいのでは、もっと金貸しを緩やかにしようよと以前とは全く違った対応をしているようだ。変われば変わるものである。

 官庁は最近では銀行との癒着を警戒し、監査時はコーヒーも断るし、証拠書類、資料のコピーはコピー機まで持ち込んで自らするそうだ。本当なのかこれは。

 それにしても、銀行の個人評価は,減点主義が徹底。いくらあるとき好業績をあげても、それが受け継がれ評価されることはないが、貸し倒れを発生させた評価は、退職までついてまわるそうだ。

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雑誌   「IN POCKET 3 2014」(講談社)

プロ野球シーズン開幕前に、作家たちの野球への想いれを綴ったエッセイを特集している。

それにしても、ほぼすべてがセリーグのチームについて。これだけパリーグが強くなり、人気もセリーグと拮抗してきているのに、何だかパリーグファンの私としては大いに不満。

 野球というのは、相撲も似ているが、ボールがインプレイにあるのは、試合時間の10%もないのではと思う。だから、ビールを飲んで隣の人と馬鹿話をしながらでも、トイレのために席をはずしても楽しめるスポーツである。しかも、小さなボールを思いっきり投げそれを棒きれで打つという非合理的スポーツである。だから、強烈な当たりが野手の正面をついてアウトになったり、フラフラっと上がったフライが野手の間におちたり、ボールが風に戻されたり逆に風にのったり、イレギュラーしたり、運不運が左右するスポーツである。これに審判の誤審が起こる。ボール、ストライクの判定などテレビでみていると、本当かいなということが多い。

 野球は荒々しい面もあるが、本質は牧歌的スポーツである。カーンと乾いた音を伴った打球が青空にすいこまれるように飛んでゆく。土煙が湧き上がるスライディング。暇な外野手が鼻をほじくっている。それで、運不運がゲームには埋め込まれている。だから、物語ができ詩や俳句でも題材となる、芸術的なスポーツなのである。
 他にはない「球春」と言う言葉は何と美しいのだろう。

こんなことを、作家奥田英朗がこの雑誌に寄せている。

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津村記久子    「婚礼、葬礼、その他」(文春文庫)

 主人公のヨシノ、両親は土日が働く職場に勤めていたので、誕生会で友達を呼ぶということが無かった。いつも呼ばれるだけだ。それが、人生にとっついたように、28歳の今まで、呼ぶと言うことが皆無で、呼ばれることばかりが続いている。

 2月の連休に屋久島旅行を申し込んだその日に、旅行日程とかぶさって、友達から結婚式の招待の電話がくる。しかも2次会の幹事とお祝いのスピーチまで依頼される。

 そして結婚式当日、準備をしていると、携帯が何回も鳴る。忙しいのにと思いながら、やりすごしてやっと電話にでる。会社の常務からだ。

 部長の祖父が亡くなった。今夜通夜だから、今すぐ斎場にきて通夜の準備と手伝いをするようにとの命令。ヨシノの事情など一切構わず。

 それで、新婦の友美に事情を話して了解をもらい、大学で同じクラブだった小谷に後をたくして、斎場にむかう。

 この物語、タイトルに婚礼、葬礼、その他となっている「その他」が物語の全体を覆う。常にでてくるのは、披露宴で食事にありつけなかったヨシノの空腹。何かを口にいれないと倒れるという切迫感が物語に流れる。

 更に、結婚式、葬式の格式と定められたスケジュールにのって行われている状況が殆ど描写されない。部長の祖父の最後を看取った愛人と部長の妻とのトイレでの壮絶なとっくみあい、母親と孫娘なつみとの冷え切った関係、そんな中で、腹を空かしたヨシノが右往左往する姿が描かれる。葬式場という雰囲気があまりない。

 最高だったのは、ヨシノに代わってお祝いのスピーチをすることになったホンダ。ホンダが酔って何を言っているのかわからないため、籠ったトイレからヨシノが携帯で電話、お祝い原稿をヨシノが読み上げ、それをホンダが受話器を通して、マイクで喋る場面。これは、なかなか面白く傑作だ。

 「その他」を強調するために、ヨシノ以外の登場人物が、故意に個性を薄め、ヨシノとの関係もサラっと書かれていている。成程と思わず感心する。

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津村記久子    「カソウスキの行方」(講談社文庫)

 妥協とか折り合い、それができるかは我慢強さなのだと、この短編集を読んで思う。

 課長のセクハラに弱っていると訴えてきた後輩の悩みに義憤を感じた主人公イリエは、そのことを部長に訴える。当然、後輩も加勢してくれると思ったら完全にハシゴを外される。どうも、後輩は課長と不倫関係にあったらしい。イリエは先輩から、後輩は不倫していることを誰かに言いたかっただけなのにバカなことをあんたはしたんだよと言われる。

 そして、イリエは郊外の倉庫に異動させられる。倉庫は、パートのおばちゃんと、2歳年下の上司藤川と大柄だが、いかにも動きが緩慢でさえない同い年の森川がいた。藤川はみためはそこそこだが、既婚者。冴えない森川は独身。

 しかし、週末は、冷たい風がふきぬけるようなアパートで一人過ごす。クリスマスイブに一人で過ごすなんて耐えきれない。それで老け顔の冴えない森川でも我慢して恋人のようにふるまうのだと決意する。

 しかたなく恋をしようとする。普通だったら絶対つきあわない相手なのだけれど。こういう恋は、盛り上がっている恋とおなじように、常に相手のことを考えている状態になる。それも殆ど自問自答だ。彼のどこがいいのか。私とはたして合うのか。彼は私をどう思っているのか。理屈を考え分析ばかりしている。分析表まで作るようになる。

 まあつきあってみれば、森川の人柄は悪くないことがわかってくる。同じアパートに住んでいて、酢が切れているとたっぷりわけてくれる。ハンドクリームがなくてこまっていると、園芸用だけど尿素を提供してくれる。じゃがいもも小松菜もくれる。

 盛り上がりもないし、愛する、恋するなんて言いあったりする場面もない。

 それでも、互いに我慢し、人間性にふれ、こんなカップルは盛り上がることなく結婚し、じわじわと生活をくりかえし、家族生活を完遂するのだろうなと思う。

 3作目の「花嫁のハムラビ法典」も我慢カップルの話。
結構世の中こんなカップル、家族であふれかえっているのではと思わせる短編集だった。

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| 古本読書日記 | 06:13 | comments:0 | trackbacks(-) | TOP↑

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吉田篤弘   「モナ・リザの背中」(中公文庫)

 大学で美術を教えている曇天先生。助手のアノウエ君が使っている目薬「メヲサラ」を注した瞬間、目の前に飾ってある絵画の中に入っていってしまう。

 最初が「受胎告知」。そして次がアンドリュー・ワイエスのポスター「クリスティーナの世界」そして俵屋宗達の「風神雷神図」。芸術的名作ばかりと思っていたら銭湯の壁に描かれている富士山の絵、最後はわからないが「十二人の船乗り」なる絵。

 この作品でキーとなるのが年齢。曇天先生100の中間である50歳。この切りのいい年齢である50歳。そこで、絵画の中に入ってゆくことになる。50歳とはどんな年なのだろうか。

 50歳になる前は、昨日の失敗や、過去の悩みをじくじく引っ張っていた。そして、未来はどうなるだろうと不安ばかりが心を覆っていた。吉田はこの小説で書く。

 「50歳となると様子が違う。風景が違う。視界が変わった。足場が変転し、突然、それまでの縄張りから切り離されて『じゃあ』と惜別の声を背中で聞く日があった。」
 かと言って50歳は老人、晩年と言われるべき時代に片足を突っ込んだわけでもない。
50歳というのは、過去の頚城から解放され、未来の憂愁に縛られることの無い、どことなく自由でふわっとしている年齢なのである。

 20歳のときには、自分はその年齢により何かが変わるとは全く感じないが、実は周囲の見る目が変わるのである。それが50歳になると、周囲がシューイと表現が変わるように、その縛られている枠が取れるのである。(これはどうかなと疑問ではあるが)

 空間や時間の枠を超え、曇天先生は50歳ではこうありたいという状態を絵画のなかで実現している。不思議な国のアリスのごとく、絵画の世界のなかでいろんなことに遭遇する。

 しかし、すべてが取っ払われた「自由」というのは、それほど楽しいものではない。この作品に絵画の中で放浪している青い目の男が登場する。この男は絵画の世界の自由にうんざりしていて、絵画の外にある、時間も空間も周囲もある世界に入り込みたいと願っている。

 現実社会の50歳とは、どういう状態なのだろうか。仕事では、権限も責任も多く持たされ、多忙で楽しいことより苦労が最も多い年齢だろう。とても、頚城から解放されてなんて状態には無い。

 ただ、確かに、早期退職を選択した場合、受け取る退職金が最も多いのが50歳だった。人生を振り返る分岐点ではあるのかもしれない。

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佐藤優   「いま生きる『資本論』」(新潮文庫)

 賃金というのは、利益の分配によって決まるのではない。生産のところで決まる。そして、その要素は次の3点である。

 ①一か月の食費、服代、家賃それにちょっとしたレジャー費。次の月も働くことができるエネルギーをやしなうための費用
 ②次の世代の労働者を作り出す費用。家族を養う費用。
 ③資本主義社会は技術革新を伴う。その革新を学ぶ費用

 それが、差別化されたとして、年収が200万円であっても、最低限上記のことが維持されのなら、資本主義社会は壊れない。今、我々が生きている社会は後期資本主義社会と呼ばれ、富める人間は、想像もできないほど巨万の富を獲得し、貧困層はどんどん弱体化してゆく構造になっているが、最低限の生活保障が実現する社会インフラがある後期資本主義社会は崩れることはないのである。

 労働者というのも、より多くのお金が欲しい、出世をしたい、将来そういうふうになりたくて、有名大学にはいるためにお金をつかう。完全に資本主義システムの中に組み込まれている。だから、労働者自身が、資本主義社会を団結して破壊しようということにはならない。むしろ、その欲求を制限し、押さえつけようとすれば、それを突き破ろうとして破壊がおきる。

 佐藤さんは、したがって団結した労働者による革命は起きることがないとこの書物で言う。そこがマルクスの資本論の最大の誤りであると断じる。

 そうは言っても、成長がとまり、縮退傾向になると、資本家は労働者を抱えておくことができなくなり、上記労働賃金の3要素が崩れれば、一体どうなるのだろうかという強い疑問と不安が浮かんでくる。

 佐藤さんのこの部分が論理に飛躍がある。そういうことになれば、佐藤さんはそれを恐慌と呼ぶが、資本主義というのは、恐慌をイノベーションで克服すると言う。

 ここがついていけないところだが、佐藤さんの主張が正しいと縋りたくなる自分がいることも確かだ。

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| 古本読書日記 | 06:19 | comments:0 | trackbacks(-) | TOP↑

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小林秀雄    「学生との対話」(新潮文庫)

 小林秀雄が活躍していた時代は、唯物史観、唯物論が全盛時代だった。人間の精神の動きも物質を科学的に分析して、解析するというのが流行していた。小林はこの方法に反発した。

 科学的アプローチは、最近の300年間に生まれた考え方であり、それで、精神世界を明確にできることはないと言い切り、唯物論に対して強烈に批判したし、精神世界は、綿々と人間世界で受け継がれてゆくものと規定した。

 小林は、歴史家というのは、何年に何が起きたという現象だけを語るのはいけないと断じる。我々は、多くの世代を通じて、古代の人たちの物の見方、考え方を引き継いでいる。

 だから、歴史家は、その時代に入り込んで、その時代の社会観、人生観に共感して語ることができないといけない。

 小林は本居宣長の「古事記伝」を大きく評価する。今の時代からみれば、神話と考えられることの羅列が殆どというのが「古事記」である。本居を、自分の住んでいる今から、その時代に飛んで、そこで基盤になっている、物の見方考え方になりきって、「古事記」を読み込むことができている大歴史家だと評価する。

 精神世界というのは、人により彩られる世界が異なる。そんなことはあり得ないと否定してみても、あり得ないと思われていることを経験した事実は経験したひとにとっては残る。

 あり得ないと思わず、それはあるという事実を受け入れ、精神世界を文学などを通じて探求し、極めようとする態度が肝要だとこの対話集では説いているように感じた。

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| 古本読書日記 | 06:13 | comments:0 | trackbacks(-) | TOP↑

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初野晴     「惑星カロン」 (角川文庫)

 清水南高校吹奏楽部員の主人公穂村チカと美少年上条ハルタが巻き込まれるミステリー解決にのぞむ中編集。

  ミステリーでよくあるのが完全密室事件。そのなかで、犯人はどのようにして殺人を起こし、室外にでられたのか謎をとくストーリー。このトリックをどのように構築するのが完全密室事件では作家の腕のみせどころ、読ませどころになっている。

 この中編集に収められている「理由ありの旧校舎」がちょっと変わっている。この旧校舎には、文科系クラブ、サークルの部室が存在している。退校時間である19時を過ぎた19時半に担当の先生が見回りしたときには、すべて鍵がかかっていて、戸締りがなされていたことを確認したのだが、翌朝の6時半にはすべての部屋が全開にされていた。

 いくつかの部では貴重品が保管されているため、鍵はマグネチックタンブラー方式にしてあり、ピッキングができないようにしてある。

 盗難物は何もなかったが、どうして、朝には、すべてが全開になっていたのか。
これは、密室の逆張りで、完全全開トリックはどうして可能になったかというミステリーである。

 トリックは結構ありふれたものになっている。

 19:30には、まだ各部の生徒は残っていた。では、何故、彼らは、その後戸締りをせずに全開放にして帰宅したのか。

 当日、各部は集まって、3年生の合同引退式をしていた。その日に提供された食べ物は美味なのだが、世界一臭いとされるスウェーデン製の缶詰、シュールストレミング。この悪臭を外へはきだすために、全開放して生徒は帰宅した。早朝、早めに学校へきて、全部戸締りをするつもりだったが、学校へ来るのが遅くなり、全開放のままの旧校舎が発見された。

 初野、密室開放事件という変化球を投げたが、事件も起こっていなくて、切迫感もなくちょっと失敗だったかなというのが感想。

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津村記久子 深澤真紀   「ダメをみがく」(集英社文庫)

 最近あまり見かけなくなったし、仮にあったとしても、雑誌の隅に追いやられているのが、対談集。めっきり対談本が少なくなった。僕らの若いころは、対談の名人吉行淳之介がいて、話題のポケットもたくさんあり持ち、相手から話を引き出すのもうまかった。対談相手の女優などをそのままホテルに連れていったのではというような雰囲気、余韻が彼の対談にはあった。

 この作品、芥川賞作家津村とテレビのコメンテイター、草食系男子の流行語を作った深澤との対談集。

 2人で私たちは「ダメ人間」だと強調するが、この対談ではとてもダメ人間だとは伝わってこない。2人とも、成功を手に入れているだけに、ダメ、ダメと強調することが結構イヤミに感じる。何だか読んでいる人間のほうがダメなんじゃないかと思ってしまう。

 それにしても、深澤さんは騒々しい。喋らせておくと、眠っている以外はずっと喋っているのではと想像してしまう。喋りたいことが頭に浮かぶ。それを項目のようにさらりと言う。

 津村さんが「それどういうこと」と返すと、待ってましたとばかりシャワーのように喋る。

 津村さんは今は作家業一本でやっている。12時まで寝て、ごはんを食べ17時まで仕事。それから、食事やテレビを見たりして9時に就寝。午前2時に起きて6時まで仕事。2度寝の習慣がついたそうだ。それで、作家がだめになったら、テレビショッピングの真夜中の受付に転職したいと思っている。

 対談で面白いと思ったのは、女性の新人社員採用は40歳にしたらどうかという提案。大学卒業から40歳までは生活を補助する。できたらこの間に結婚して子育てを終えておいてほしいというのがこの目的の意図。

 40歳で採用しても、65歳まで働くとしても25年は働ける。十分会社にも貢献できるというわけだ。

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| 古本読書日記 | 06:06 | comments:0 | trackbacks(-) | TOP↑

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多島斗志之    「マールスドルフ城1945」(中公文庫)

 短篇集「追憶列車」を読んだとき、これは短編ではもったいない、ぜひ長編にしてほしいものだと感想を書いたが、この作品は「追憶列車」の続きを長編にしている。

 1945年4月、パリにいた在留邦人がベルリンに避難。しかし、ベルリンも陥落寸前。そこでドイツにいる在留邦人を含め、マールスドルフという小さな町にある城に疎開することになった。

 その疎開直前に、ナチス親衛隊に所属していたシュミット大尉は突然ヒットラー総統に呼ばれ「赤い顔をした敵を殺せ。」と言われる。毎晩のようにヒットラーのところに降りてくる。薄い膜がかかっているが、容貌は東洋人。こいつを殺せば、戦いに転機がくる。

 それはヒットラーのイメージであるもので、誰だか特定できない。

 シュミットは街を歩いていて、夕焼けに顔が真っ赤に染まった日本人にであう。シュミットは、彼こそヒットラーが言う、赤い顔の東洋人と思い、彼を射殺する。

 このことをヒットラーに報告すると、自分のところに降りてくる赤い顔の東洋人とは違うと言われ、戸惑う。ヒットラーは徹底的に探して殺せと命令する。

 不思議に思うのは、赤い顔の東洋人を探して射殺すれば、ドイツがどうかわるのかがまったく見通せない。

 更に不思議なのは、ヒットラーと愛人エバはシュミットの目の前で、自殺する。ベルリンはソ連によって陥落。もうヒットラーの時代は終わったのに、シュミットはまだ赤い顔の東洋人を探して射殺しようとするところ。

 命令者は死んだのに、何故シュミットは赤い東洋人に拘るのか。物語を読み続ける気力が急に減退した。

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柚木麻子     「けむたい後輩」(幻冬舎文庫)

横浜日本大通り沿いにある書店「CANAL」は映画や舞台などの文献や資料を豊富に取り揃えていることで業界関係者には有名な店。

 そこの雇われ店長の黒木は、大学をでて、映画の世界で生きていくと決意し、映画学校に通うが、自分の求めていた道とは違うと思い、写真学校に移る。しかし、それも飽きてまた映画の世界に戻ろうとしている。家が裕福のため、ふらふらするお金は実家からもらっている。書店に脚本コンクール賞のポスターをはり、今年こそ作品を応募して賞金500万円をゲットして、華々しく映画界にデビューすると息巻いている。

 そんな書店だから、勤めているアルバイトも映画の世界で生きて行こうと夢見る人たちが集まっている。その黒木にべったりくっついているのが、名門お嬢様学校のフェリシモ女学院を卒業して、やはりこの書店にアルバイトとなった主人公栞子。

 彼らは、閉店後いつも企画会議と称して、つまみ290円均一の居酒屋で毎晩気炎をあげている。だらだらと毎晩、何も起こらず、自分たちは才能があると信じるナルシストたちの愚痴や恨みに付き合っていた栞子がついにたまりかねて声をあげる。

 「あんたたちは映画なんて絶対撮らないわよ。ううん、撮れないの。形にする根気もなければ、伝えたいこともないんでしょ。勝負にでないのは、何が何でも負けたくないからでしょ?激安酒場で仲良しトークをして、年とっていけば?一生『学生』やってろよ。この負け犬!」
 こういう、自分の才能がわからない世の中が悪いとくだを毎日のようにあげている集団は結構あるのだろう。

 それで、啖呵を切った栞子はどうなるのだろう。
学生時代、憧れの人として栞子を尊敬し、ベッタリとくっついていた真実子。その真実子は、売れっ子脚本家、ドラマ制作者として八面六臂の活躍をしている。
 その真実子に栞子が会う。常に家来のようにしたがっていた真実子が言う。
「年上のくせに葛藤レベルが低くないですか。あんなに映画をみたり、本を読んでいたくせに・・・・何一つ血肉になってないんですね。」

 そして、チェーンスモーカーである栞子に、決して言わなかった言葉を真実子はきっぱりと言う。

 「先輩、煙草消してもらえませんか。」と。

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| 古本読書日記 | 06:28 | comments:0 | trackbacks(-) | TOP↑

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桜木柴乃      「凍原」(小学館文庫)

 第二次世界戦争で、ソ連が参戦後の昭和20年8月12日、樺太で生まれ育った長部キクの家にやってきた耕太郎に促され、女性、子供、老人を日本へ帰す脱出船に乗るため、キクは大泊港まで逃走することになる。すでに母、妹は、ソ連の爆撃により死んでいた。耕太郎は24歳。たとえ港に無事到着しても、船には搭乗できない。それなのに何故?不信に思っていると、耕太郎に急に抱き寄せられ、体を奪われる。

 耕太郎と鉄道駅まで、獣道を行く。途中で若いソ連兵にであい。いさかいが起き、耕太郎が射殺される。どうしようもなくなったキクは、ソ連兵イクノフに何度も体を奪われる。
そして、最後に体を奪われた時、イクノフから銃を奪い、イクノフを射殺する。

 大泊港で船に乗ろうとすると、木田と名乗る男が連れている女性鈴木克子を、留萌の鈴木つや子さんの家まで無事に届けてほしいと、木田から懇願される。

 死ぬ思いでキクと克子はやっと鈴木つや子の家にたどり着くが、全く歓迎されず離れの掘っ立て小屋に住むことになる。しかし、克子は裁縫に技術を持っていて、キクも染色の心得がある。2人は共同して、注文をとり、金にはならなかったが、食料が持ち込まれ、食うに困ることはなくなる。

 どうにか暮らせたが、そのうちキクにつわりが始まり、妊娠していることがわかる。キクはとても子供など、養育できない。何とか中絶したいと思うのだが、克子がクリスチャンで絶対許さない。そして克子の助けもあり、女の子が生まれる。キクはとても子連れで生きていけないと、ある日、赤ちゃんを置いて小屋から逃亡する。

 2009年9月、札幌の自動車販売店でトップの成績を誇っていた鈴木洋介が、釧路湿原で絞殺死体となって発見される。洋介は深い悩みがあった。瞳が緑なのである。コンタクトを入れごまかしているが何故自分の瞳が緑なのか、自分のルーツを追及しだす。そこで、死体となる。

 当然、キクに至る。洋介は、ソ連人イクノフの孫として生まれてきたため、眼の色が日本人と異なるのである。

 体を蹂躙されても、生き延びてきたキク。しかし、そのことで生まれ落ちた鈴木ユリとその子供で緑の瞳を持った洋介。ソ連兵から受けた悲劇が、今の2009年になっても綿々と引き継がれ、悲劇が起こる。切なくやりきれない物語である。

 桜木さんの筆は、ソ連からの脱出も、その後のキクの変遷も、実にリアルに丹念に描く。
 その筆力は驚愕に値する。

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| 古本読書日記 | 06:22 | comments:0 | trackbacks(-) | TOP↑

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柴崎友香     「週末カミング」(角川文庫)

 我々普通人の人生になかなか物語のようなことはない。この短編集は、週末を色んな角度で切り取って描く。週末だといっても普通に働いている人も多いが、やはり通常のルーティン生活から離れて、少し変化のある週末の風景がある。しかし、それでも、大きな変化があるのではなく、少し小さな浮き沈みがあり、平凡な生活の連なりがある。

 沖縄に行って、居酒屋で隣り合わせになった女の子と気があって、連絡先をかわしたのだが、その紙を無くしてしまう。それが一年後に東京で偶然出会う。これは絶対運命だと思ってプロポーズする。その女の子。学校の先生をしているのだが、おじいさんが畑をやっていて、子供たちに野菜作りを教えてやることが今の生きがいになっている。だから、今は結婚なんて考えられない。

 そんなことを言われプロポーズを断られたのに、女の子はその直後に別の男と結婚をしている。

 どうみたって体よく振られたのだし、さっと切り替えればいいのだが、それができない。毎週末ずっとその子のことばかり考えてばかり。無駄な週末がだらだら過ぎてゆく。


 引っ越し場所を探そうと友達と、街を歩く。

 色んな住宅が並ぶ。その都度、いちいち、寒そう、古そう、高そう、細長い、渋い、金持ちそう、悪いことやって儲けてそう、とけちをつけて歩く。全く余計なお世話だ。

 そのうち時々誰も住んでいない空き家にちらほらであう。その家の不幸そうなことを思い浮かべしゃべりあう。

 そんな数々の家をみながら、この街並みもいつか取り壊され、更地になってまた違う家並みができる。そこでも、ドラマチックな人生は少なく、ああでもない、こうでもないとちまちま庶民の暮らしが再現される。

 しかし、そのちまちまも、それぞれ経験している当人にとっては、大きく波打っているように思える。

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白石一文    「彼が通る不思議なコースを私も」(集英社文庫)

 人間が生きてゆくためには、何が最も大切なのか。それは、夢や希望を持つことなのか。そうではない。人間はこうありたいとか、こんな夢や希望をかなえたいと思う。しかし、なかなかそれは、かなえられないことばかりだ。そうなると、人間はすぐ絶望感におそわれる。そして簡単に自分で自分の命を絶つ。

 大切なことは、今がどうあっても、何よりも自分が好きだと思うことである。自分が大切で好きだと思えば、そんな最も大切なものを消してしまおうなどとは思わないからだ。自分を愛し大切にしようとして、毎日、毎日を生き抜くことが、最も人間にとって重要なこと。

 この作品で白石は人生の価値をこんなふうに言う。
 結婚した時、夫椿林太郎は、学校教師を退職したことを隠していた。そして、知的障碍児のために、新たな彼の信念で「体操教室」を始めようとしていた。

 結婚2か月後、突然霧子はAVネットワークカンパニーのある、大阪本社に転勤辞令がでる。一応期限は2年間ということだが。それは、新たに霧子の会社が開発した4Kテレビをメインに据えたホームシアターシステムの広告宣伝を担うプロジェクトチームに参加させられたからだ。しかも、それはカンパニートップの辻常務が指令していた。

 新婚生活が全くない。離れ離れの夫との生活が余儀なくされる。霧子は深刻に悩む。夫のそばにいたい。子供を作って、暖かい家庭を実現して暮らしたいと。

 しかし、一方で会社員としてこれから大きく飛躍できる絶好のチャンスをつかんでいる。それを今死に物狂いで働き、チャンスをものにできそうなところまできている。

 揺れる霧子が描かれる。こんな揺れは今まで多くの小説で読んできたが、この小説が一番実感として心にしみてきた。

 自分が大切と言う白石。霧子はどう生きたらよいのか、白石のこの作品では答えはでてこない。白石も今、人生の途上にある。

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