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司馬遼太郎  「本郷界隈 街道をゆく三十七」(朝日文庫)

 本郷は明治政府が、ここに日本最初の大学を創設して、日本の学問の地として存在を示した。東京大学だ。この大学に学んだ俊英たちは、この近くに宿舎を持ち、最高学府の学生の街となった、

 日本文学の新しい夜明けは、漱石から始まった。そんな固定観念が刷り込まれているといつも不思議に思っていたのだが、樋口一葉は漱石がいながら、何で読みにくい擬古文で物語を書いたのか。

 よく調べてみると一葉の「たけくらべ」「にごりえ」は、明治28年に発表された。漱石の「吾輩は猫である」は明治38年の発表。一葉の作品のほうが漱石よりだいぶ前に発表されていた。一葉のころは文語で物語を書くのが一般的だった。

 漱石は本郷の炭団坂を上がったところに下宿していた。一葉は炭団坂を下った長屋に一時期住んでいた。

 一葉の父樋口則義は、甲州で農民だったが、妻と一緒に出奔して江戸にやってくる。そこで武士の株を購入して、身分が武士となり明治政府の下級役人となる。

 一方漱石の父親夏目直克は江戸幕府の下級武士として、同心をしていてその流れで明治政府下、東京府で警察官をしていた。

 驚くことに、直克の部下に樋口則義がいた。
則義は、しょっちゅう直克にお金を無心していた。しかし、貸したお金は返ってくることは無かった。

 その時、漱石に縁談の話がもちあがった。則義の娘一葉は才媛で、漱石の嫁さんにどうかと。
 しかし直克は、「あんな金に汚い男の娘をもらうと、もっと金をせびられる」と話を無しにした。

 びっくりした、一葉と漱石が結婚していたら素敵だったのに。2人の子供だったらものすごい作家が誕生してたのではと思ってしまう。しかし一葉は短命で終わったから無理だったかな。

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| 古本読書日記 | 06:50 | comments:0 | trackbacks(-) | TOP↑

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ナンシー関    「秘宝耳」(朝日文庫)

 「週刊朝日」に連載したナンシー関の「小耳にはさもう」を文庫化した本。時代は2000年前後。このころはどんな時代だったかというと、小柳ルミ子がダンサーの大澄賢也と結婚しすぐ離婚したころ。倉木麻衣が宇多田ヒカルの二番煎じと言われ怒った。羽賀研二が借金まみれで全く返済しなくて、それに女性が絡んで、大騒ぎをした頃。

 亡くなったばかりで顰蹙をかうかもしれないが、名選手の誉が高かった野村克也。

野村の本を読むと、野球選手の前に社会性のある人間たれとしつこく書かれている。ヤクルトの監督になったとき、あまりにも社会常識のない選手ばかりで、野球選手である時間は短い、引退後のほうが人生は長い、そのとき社会常識がないと、悲惨な人生となるから、と厳しくしつけたと書いてある。

 野村のことは知らないからなんとも言えないが、正直イメージだけだが野村がそれほど社会人として優れているとはとても思えなかった。野村は古田を自分が育てたとどこでもしゃべっていたが、古田はそれに恩義と感じることも無いし年賀状もよこさないと野村は怒っていた。古田は野村の言うことと行いの相違を嫌っていたのだと思う。

 それをその通りと強く印象つけたのが、再婚した沙知代夫人のテレビへの登場で、その尊大な態度と毒舌だった。もちろん野村がどんな女性と再婚するのは構わないが、何も沙知代夫人をテレビに出すことはない。もちろん止めても沙知代さんは出演していたかもしれないが。

 この時、沙知代夫人を徹底的罵倒したのが舞台女優の浅香光代。「金に汚い」「礼儀知らず」「弱いものいじめばかり」「何でも他人にやらせて何様のつもり」「良いところが一つもない」
と激しく言いたい放題。浅香対サッチーが最高潮だったとき、こんな舞台劇の宣伝ポスターが登場する。

「野村沙知代初舞台。浅香光代と『梅川忠兵衛』」。
日本中が目が点になった。

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| 古本読書日記 | 06:30 | comments:0 | trackbacks(-) | TOP↑

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司馬遼太郎   「三浦半島記 街道をゆく42」(朝日文庫)

 武士が時代の前面に出てきて誕生した鎌倉時代について描き、史跡地を散策する。

鎌倉時代、源頼朝ひき続く北条執権時代、この作品を読んでも、世の中をどのように統治したのかよくわからなかった。首都鎌倉もどんな感じの街だったのかもつかみにくかった。ただ、鎌倉時代は、その前の平家、大和朝廷時代に比べ、殺害事件や武士を反映して自害する話ばかりで暗くアナーキーな時代だと感じた。

 保元の乱で、崇徳上皇と後白河天皇が争う。結果後白河天皇が勝利するのだが、その戦力となった平清盛、源義朝、褒章が清盛に多かったため、不満に思った義朝が平治の乱を起こす。しかし義朝は負け、逃走途中の尾張で謀殺されるが、嫡子であった頼朝は殺害されず、伊豆へ流罪となる。

 だから頼朝の青春時代は、伊豆鎌倉にあった。

土地の有力で最大の豪族だった北条家の娘政子の縁談が持ち上がった。北条では、時の目方(地方を統治する今の知事のような役)平兼隆に嫁がせることにして、兼隆が寄宿している一気館に政子を送り出す。
しかし、政子は頼朝が好きだった。

 豪雨の中、政子は一木館を抜け出し、頼朝が幽閉されている伊豆山権現を目指す。
この時の様子を司馬が「吾妻鏡」に従って描く
 「まず、伊豆の脊梁山脈を越えねばならず、途中、雨のために川があふれていた。夜陰、腰まで水につかりながら川を押し渡ってゆく。」

 この時代、家長が決めた嫁ぎ先を拒否することなどありえなかった、政子はとてつもなく芯が強い女だった。

 頼朝に結局嫁ぐ。しかし頼朝は43歳で死ぬ。その後女尼になるが頼朝に代わり執権となる。後鳥羽上皇が倒幕にたちあがり承久の乱がおこる。政子63歳の時である。多くの武士が集まったが、まだこの時代朝廷にそむくことは、武士には恐怖があり、立ち上がることには逡巡していた。

 そこで政子が言う。
「汝らは、むかしのみじめさや、つらさを忘れたか、そこからすくいだした幕府の恩をわすれたか」
 と大演説をして、武士を立ち上がらせた。

すごい女性のリーダーだ。卑弥呼の実像はわからないが、歴史上最高の女傑であり、真のリーダーである。

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| 古本読書日記 | 07:08 | comments:0 | trackbacks(-) | TOP↑

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司馬遼太郎   「北海道の諸道 街道をゆく十五」(朝日文庫)

 司馬の「街道をゆく」多くを読んできたが、司馬といえども知識関心の薄い街道も多く、歴史的なバックグラウンドを少ししか語らず、訪ねた場所での市井の描写が多い作品も多々ある。

 しかし、この作品は司馬の北海道の成り立ちの知識が如何なく発揮され読み応え十分な作品になっている。

 2点が印象に残る。

 19世紀初頭、ロシアの使節団レザノフは、幾度となく長崎にやってきて幕府に対し開国するよう迫る。しかし幕府が拒否。これに怒ったレザノフは部下のフォストフ大尉に対しロシアの武力をみせつけてやれと指示する。

 フォストフはその指示に従い、北海道や日本の領土だったエトロフ島に繰り返しやってきて、戦いをしかける。当時北海道を治めていた松前藩兵は怖がりなすすべもなく逃げ回る。

 フォトレフ部隊は暴虐の限りを尽くし人質として住民を拉致する。

 幕府はその攻撃に震えあがり、列強の国々に対する恐怖を植え付けられた。それから半世紀後、米国艦隊の黒船がやってきた。幕府は開国に踏み切った。その背景にロシアの攻撃が焼き付けられていたことがあった。

 北海道の開拓は明治政府にとっては重要な政策だった。屯田兵など入植させても、インフラである道路がなく、耕地開拓は不可能、そのためのインフラ構築が最重要課題だった。

 タコ部屋と言う言葉がるが、他雇がその語源とされている。これは普通の人間と全く異なる人間。ひらたく言うと奴隷のことを言う。

 このインフラ構築のため労働者が必要となった。その人間を集めるため江戸で口入屋が活躍した。明治維新直後、東京には多くの、底辺を這っている、武士崩れの浪人がいて、彼らをだまし、北海道に送り込んだ。しかしそれでも足りない。

 その時、明治政府で法律作成に力を発揮した金子堅太郎が言った。
「囚人を使いましょう。彼らは死んでも構わない。政府の出費の倹約にもなる。」
 大量の囚人が動員された。

 彼らは、極寒のマイナス30度のなか薄着物一枚しか着ていなかった。
どの囚人も、腰を鉄の鎖で縛られており、鎖は二筋になって、両足の足元までのび、その先端に一個ずつ大きな鉄丸が結び付けられている。

 タコ部屋というのは、丸太棒が部屋に貫かれている。囚人やタコたちはその棒を枕にして眠る。朝になると管理人が丸太棒を槌でたたいて、奴隷を起こす。

 囚人のうち2割が倒れ死んだ。
この悲劇は吉村昭の「赤い人」で克明に描かれ、強い印象を受けたことを思い出す。

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| 古本読書日記 | 06:01 | comments:0 | trackbacks(-) | TOP↑

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司馬遼太郎  「十津川街道十二 街道をゆく」(朝日文庫)

 江戸時代半ばまで、「古事記」「日本書紀」殆ど知られていなかった。江戸後期に本居宣長が「古事記伝」を著すことにより、著書の存在がひろまった。

 カムヤマトイワレヒコは神武天皇のことだが、この人物は「古事記」「日本書紀」以外にはどの文献にも登場しない。

 神武天皇は日向のあたりからでてきて、瀬戸内海を進み、やがて大阪湾から上陸し、河内平野にわけいり、やがて生駒山を越えて大和の国に入ろうとしたが、土地の酋長長髄彦に阻まれ、退却した。捲土重来を期し、紀伊半島の先端に廻り、そこから、熊野山を越え、十津川の山脈を超え北上、大和盆地を搦め手からはいり、大和の平定に成功した。

 明治政府も昭和にはいってもこの神話を利用する。節目は昭和15年。ノモンハン事変。ロシアに負け、ここで悪名高き参謀本部は、西暦開始年より660年前、神武天皇が大和を平定した年を日本の建国記念日とした。

 十津川の渓谷は、最近まで、道らしい道は無く、谷をわたるつり橋もなく、「やえん」という方法で谷を渡っていた。

 山と山の間にロープを渡し、辻篭のようなものをつるし、それに乗り移動していた。
とても、そんなところは古代人間が歩いて渡れるところではない。

ところが、神話に基づいて、神武天皇を祭る神社として、橿原神宮が建立された。橿原神宮は古代からあったのではない。明治23年に明治政府によって創立されたのである。

 司馬遼太郎はかなり怒っている。神話による日本国家の紀元の日を神話に基づいて決めたことを。

昭和15年、司馬は橿原神宮の改修工事に強制動員されている。それも怒りの原因になっている。司馬は多くの作品で、国会行政憲法の権限より大きな権限を参謀本部が持ったことに怒りまくっている。 

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